2014年3月31日月曜日

3.31 (月)なんで神様こんなこと


 「なんで神様はこんなことをされるんだろう。どうしてこんなこと言うんだろう。」

そんな疑問が湧き上がった心を、サタンは決して見逃しません。すかさずこんなことをささやいてくるのです。
「ほんとに神様は愛なのか?」「僕らより自分のことの方が大事なんじゃない?」「大体そんな神様の言うこと、信頼できるのか?」

エデンの園で最初にひびいた誘惑の声は、今も僕たちの心の中に聞こえてきます。
「なんでこんな変なことを神様は僕らに命令するんだ?守らなくたって大した問題じゃないよ。第一こっちの方が全然いいじゃない!」(創3:16
それは、唯一の愛の神様に対する僕らの信頼を失わせるためです(ルカ18:19; ヤコ1:17; 2コリ4:4)。唯一の救いの神様から僕らを引き離し、永久に滅びの中に閉じ込めておくためです(箴7:2127, 8:36)。

神様について疑問が起こることは罪ではありません(ハバクク1; マタ27:46)。神様は、僕らが盲目的に従っていくことを決して望んでいません。
ただ神様は、「一緒に論じ合おう。」と言われます(イザ1:18)。わたしの愛と知恵が見えなくなっても、わたしから離れるんじゃなくて、その疑問をもったままわたしのもとに来なさい。わたしはあなたに愛の確証を喜んで与えよう。わたしの知恵を喜んで教えよう(ヤコ1:5)。神様は、ご自分のことを僕たちに現したいと、心から望んでおられる神様です(申4:29; 8:17)。

しかし、神様のなさること、おっしゃることが、僕らに全て分かるわけではありません。それは神様が神様であることの大きな証拠です(イザ55:8,9)!
わたしのすることがたとえいまは分からなかったとしても、わたしが愛であることを疑ってはならない(1ペテ2:3,4; ヘブ11:6)。わたしの命じること、行うことは、すべてあなたの幸せのためであり、あなたの命のためであることを決して忘れてはならない(ヘブ5:6; 10:12, 32:46,47)。そう神様は言われます。

まもなく、神様と再び、顔と顔を合わせて出会う時。そのとき、僕たちは彼の栄光をはっきりと見、今まで不可解だったあらゆることに答えが与えられるのです(1コリ13:12)。
神様は、愛だったんだ!そうすべての人が理解する日がくるのです(イザ45:22-24)。

その日まで決して信仰を失うことなく、神様の言葉に従って歩んでいきましょう(ヘブ10:35-39)。

2014年3月30日日曜日

3.30 (日) ルールは破るためにあるもんだ。


 ルールは破るためにあるもんだ。
この世の多くの小学生男子と同じように、僕もそんな不従順の心をもって育ちました。もちろん自分の面子に関わらない程度にですが。(いかに気付かれず居眠りできるか、とかいうレベル)

この心をもったままクリスチャンになった人はなんと言うでしょう。「僕は神様に従うのだから、人間の作った決まり事に従う必要があろうか。」
あの先生は何も分かってないから、彼の言うことは気にしなくていい。政府なんかに税を払うくらいなら、奉仕活動に寄付するさ。
要は、人間のルールは破るためにあるもんだ、ってことです。

イエス様が十字架にかけられる前、祭司達は「こいつはローマの法律に反逆したよ!」と口実をつけて訴えようとしたのに、結局なんの揚げ足もとることができませんでした(ルカ23:13,14)。なぜかって、イエス様はローマの法律に完全に従ってたからです(マタ22:16-22)。彼は神様の子どもでありながら、人間世界の権威に従順だったのです。

霊によって生まれかわった心の証の一つは、従順です(ヤコ3:17)。お父さんお母さんであれ、先生であれ、上司であれ、総理大臣であれ、僕たちの上にある権威はすべて神様によって立てられたものです。その人達のことば、その人達が決めたルールに従順であることは、イエス様がはっきりと僕たちに求めていることです(出20:12; ロマ13:1-7; エフェ6:1-3,5-7)。もちろん、神様のみことばに逆らうことのない限りですが(使5:20; ダニ3:13-18)。

たとえ、賛成できないようなことや不完全なことであってもです(マタ17:24-27)。それを実践するのは、色々な意味で簡単なことではありません。ですが僕たちは、すべての権威を超えて支配しておられる、愛するイエス様を知っているので、どのような時も従順であることができるのです(詩47:9; ダニ4:29; 20:22)。彼に信頼するならば、神様はすべてわたしたちの益となるよう導いてくださるのです(ロマ8:28)。実際、全ての権威はわたしたちの益となるように立てられているのです(ロマ9:21-23)。

人間に従わないことではなく、全ての人に対して「柔和で謙遜」であったイエス様に従うことが、僕たちが神様に従っているという唯一の証です(マタ11:29)。

執筆:山地悟

2014年3月29日土曜日

3/29 (土)クリスチャン以外は救われない?

「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」ローマ2:14

イエス様のことも聖書のことも、人生で一度も聞くことなく死んでいった人を、神様は救ってくださらないのかな。

教会で育った子供なら一度は考える疑問だと思います。ぼくはよく考えました。

僕らはみんな、クリスチャンであろうがなかろうが、最終的に神様の律法に従ってるかどうかによって裁かれます(マタ25:31-46; コヘ12:13,14; ロマ2:12; ヤコ2:12)。
でも僕らは自分の力で正しく生きることができない以上、クリスチャンであろうがなかろうが、イエス様の恵みが必要なんです(ロマ3:23,24)。僕らの心を、神様の愛の律法に従う心につくりかえてくださるイエス・キリストの恵み。それは、求める人にはだれにでも与えられます(マタ7:7,8)。

神様は世界中の全ての人が、真理を知って救われてほしいと望んでいます(1テモ2:4)。だから神様はクリスチャンであろうがなかろうが、世界中全ての人の心に語りかけ続けてる(イザ30:21)。その声に心開いて、それに従うことを求めるなら、神様はクリスチャンに対するのと同じように、喜んでその人にキリストの恵みを与えてくださいます(歴下16:9上)。

だから、要は心の問題なんです。正しい良心を願い求め、語りかける神様の声に喜んで聞き従っていく心。それは、信じる心です(ヤコ1:27)。その心を持つ人を、神様は決して見捨てられません。

パウロは、終わりの日に、イエス様についても聖書についても何も知らなかったような人々が救われるのをみるだろう、と言っているのです(ロマ2:16)。それは、彼らが信じる心を持っていたからです(マタイ12:41,42)。神様について知っている人ではなく、神様に従っていく心を持つ人が救われるからです(ロマ1:16,17)。

僕たちは、信じる心をもっているだろうか。イエス様のことも、彼のみことばもよく知っている僕たちは、それに喜んで聞き従おうとする心を求めているだろうか。


今期の安息日学校教課は、イエス様と、彼の律法についてです。イエス様の福音と律法との関係をもっともっと深く理解し、何よりも僕たちが、聞くだけでなく実際に従っていく心を持つことができるよう、祈りつつ勉強していきましょう。

執筆: 山地悟

2014年3月27日木曜日

この道であってる?4

さて、一日中迷い続けていたわたしたちでしたが、今度は山をぐんぐんと下っていきました。景色はだいぶ変わり、雪山から緑のジャングルのような光景になりました。そこを抜けて少し開けたところに出てくると、山のふもとには小さな町が広がっていました。わたしたちは「あー良かった!!」とほっとしました。もうすぐこの冒険も終わりだと分かったからです。しばらく歩いていると、犬の散歩をしている女の人がわたしたちに向かって歩いて来るのが見えました。下山中わたしたちは人ひとり見かけなかったので、頂上で会った登山グループ以来初めて人に会いました。わたしたちはとても嬉しくなり「出口まであとどのぐらいですか?」とその女の人に聞きくと、「あと30分ぐらいですよ」と教えてくれました。わたしたちはどんなに嬉しかったでしょう!しばらくすると、わたしたちは山道からついに公道に出てきました。案内センターがあったのですが閉まっていたので、わたしたちはそこあった看板を見ました。そこにはMt.Baldyの地図がありました。わたしたちはその地図を見て、自分たちがどれぐらい駐車場から離れているのかを確認しました。駐車場までは歩いて上り坂3マイル(5km)ほどでした。わたしたちは何度も迷ったためにすでに25kmほど歩いていて、もう歩きたくないと体が叫んでいました。「だれか車で送ってくれる人いないかな」などと話していましたが、わたしたちは歩くことにしました。

すぐ近くに小さなガラス細工のお店があったので、そこでこの道であっているかどうか確かめようと言い、そのお店にわたしたちは寄りました。わたしたちが「この道だ!」と思った道は間違っていたことが多いということをその日身に染みて分かっていたのと、もうこれ以上迷って歩く体力はないと思ったからです。そのお店には親切な女の人がいて「あら、あなたたち迷ったの?Mt. Baldyを登山して違う出口から出てくる人よくいるのよね!困ったわ。今地図見せてあげるからこっちに来て」と言いました。地図を見て「わたしたちはこの駐車場から作業用の道路を通り、スキーリフトの上まで来て、少し間違った道を進んで戻って、ブラックダイアモンドのスロープを登ってDevil’s Backboneを通って頂上に行った」とその女の人に説明しました。するとその女の人は「Devil’s Backboneを通ったの??わたしはこの山の町に何年も住んでいるけど、雪が積もっているとき、風が強い日、あと、つるつる滑るような日はDevil’s Backboneを通るのは誰にもおすすめしないわ!」と言いました。そして「毎年冬にあそこで誰か亡くなるのよ」と付け足したのです。冬にきちんと装備していない登山者が、足を踏み外して滑り落ちて亡くなるのだそうです。わたしたちはびっくりして顔を見合わせました。「今あなたがいるのはここで、駐車場まではまああと5kmほどね、まあ歩けない距離じゃないわよ。ヒッチハイクというのも一つの方法ね。山の人たちはお互い助け合う精神があるから助けてくれる人はいるけれど、リスクがあるからわたしはなんとも言えないわ。あなたたちで決めて。」とその人は言いました。わたしたちはその女の人に感謝してお店を出て、車道の脇を歩きはじめました。Lisaが「Devil’s Backboneがそんなところだったなんて知らなかった!神様に守られて生きて帰ってこれてよかった!!」言いました。わたしたちは神様に感謝しました。

さて、ヒッチハイクはどうかとその女の人に提案される前に、CamrieLisaは冗談で「ヒッチハイクして、車で送ってくれる人はいないかな」と言っていました。わたしは全く知らない人の車には乗らないほうがいいと思っていました。ヒッチハイクというのは車道の脇で親指をあげてサインを出して、車が止まってくれたら目的地を伝えて送ってもらうというものです。わたしはどんなに疲れてもこのまま歩いて行きたいと思っていましたが、Camrieはヒッチハイクの提案に乗り気のようでした。しばらく上り坂を歩いていると後ろから車がやってくるのが聞こえたので、Camrieは「みんな親指をあげて!」と言いましたが、Lisaとわたしはあまり乗り気ではなくて「うんーーーあげない」と言ってあげませんでした。しかし歩いている間に何台も車が通り過ぎていて、「親指あげていても、まあだれも止まらないだろう」と思ったわたしは、Camrieと一緒に親指をあげ始めました。そしたらLisaも次第に親指をあげ始め、わたしたちは3人でヒッチハイクサインを出していました。

しばらく車が来なくなりましたが、目的の駐車場まではまだまだのようでした。そこでわたしたちは「ブーーーーーーン」というバイクのような音が遠くからやってくるのに気が付きました。「バイクかな?バイクじゃあヒッチハイクできないね」と言って、わたしとLisaは親指をあげていませんでした。しかし、どうやらCamrieは親指をあげ続けていたようでした。すると「ブーーーン」というエンジン音は近づいてきて速度を落とし、わたしたちの隣で止まったのです!「あぁ止まってしまった!」とわたしは思いました。そしてどんなバイクが止まったのかと見てみると、それは小さな古い赤い車でした。その車に乗っていたおじさんは車の窓を開けて「君たちどこにいくの?」と声をかけてきました。そのおじさんはデンタルフロスをくわえていて、髪の毛はぼさぼさで、とても明るいおじさんでしたが異様に明るすぎるような気がして、わたしは「この人の車には乗らない」と思いました。しかしわざわざ止まってくれたのに無視するのも悪いということで、Lisaはその人に話始めました。「わたしたちは駐車場に向かって歩いています」と言うと、「連れて行ってあげるよ!」と言うので、少しためらったLisaは「車に3人分のスペースはありますか?」と聞きました。するとおじさんは「どんなスペースでもあるよ!」と言うので、どういう意味かと思って車の後部座席を覗いてみると、なんと運転席と助手席以外には座席がなくて後ろには梯子や工具、クッションなどがごちゃごちゃと積まれていて、おまけにガソリンのタンクもあり、とてもガソリン臭いのでした。Camrieは「ありがとうございます!」と言って車の後ろに乗り始めたので、LisaとわたしはこのままではCamrieがさらわれると思い、3人でいた方がましだということでわたしたちもこの車に乗りました。車の中でそのおじさんは、彼がどういう人なのかわたしたちに伝えたかったようで「僕は昔スキーリフトの整備をしていたんだ。それから山のふもとにあるバーで働いていた。わはは!それで自分の電話番号をバーにくる女の人に配っていた。わはは!」と言ってきました。それを聞くとわたしたちは顔を見合わせて、果たしてこのおじさんの車に乗っていて大丈夫なのか、ちゃんと駐車場で降ろしてくれるのかと心配になってきました。なにがおもしろいのかそのおじさんは頻繁に「わはは!」と大声で笑っていました。とても不安でしたが、車の窓越しに見ていると駐車場までは思ったよりも長い道のりで急な上り坂だったので、このおじさんが車で送ってくれていることに感謝しました。

さて、駐車場が見えてきたのでわたしたちは「この駐車場です」とそのおじさんに伝えると、「おっけー!」と言い、車を止めて駐車場で3人ともちゃんと降ろしてくれました。おじさんにお礼を言うと「僕の名前はジョン。じゃあね!」と言い、また「ブーーーン」とすごい音をたてておじさんは去っていきました。わたしたちはほっとして笑い始めました。Camrieは「ヒッチハイクなんて人生で一度もしないと思っていた!!」と言いました。たった一日の間に、こんなにたくさん想定外の事が起きたという事実をまだ信じられないでいました。Lisaは「今日の冒険はヒッチハイクによって完成されたね!」と言いました。わたしたちはLisaの車に乗って家に帰りました。

帰り道、わたしたちは今日の出来事を振り返って「朝にジェネッサを車に乗せて電話するのを手伝って、今日の終わりに今度は自分たちがジョンというおじさんに車に乗せてもらって、不思議だね」と言いました。わたしたちは何度も神様に感謝しました。神様はジョンのような人をわたしたちに送ってくださることによって、わたしに大切な教訓を教えてくださいました。どんな姿でも、どんな人生を送ってきていても、もしその人が神様の御声に聞き従うのなら、神様はその人を御自分の御業を果たすためにお使いになることができるということです。ジョンは髪の毛がぼさぼさで、デンタルフロスをくわえていて、ガソリン臭い車に乗っていましたが、疲れ果てたわたしたちをただ助けようとしてくれた親切な人でした。もちろんヒッチハイクを勧めているわけではありません。わたしが注目したいポイントは、わたしたちは「今日神様はわたしになんと言っておられるだろうか」と毎日質問することが必要だということです。神様は何か資格がある者を遣わすのではなくて、神様に従いたいと思っている人を遣わすのです。もしジョンが「あぁこの子たちを助けたいけど自分の車はガソリン臭いから今は助けられない、車がきれいになってから助けよう。」と思って通り過ぎていたらどうなっていたでしょう?しかし彼はわたしたちの必要を見て、自分のことを構わず助けてくれました。わたしたちはジョンから学ぶことがあると思います。神様はわたしたちの心に毎日語りかけておられます。その御声に今日聞き従うか、もしくは「もっと準備ができたら神様に従おう」と後回しするかわたしたちには選択が与えられています。
聖書にはこう書かれています。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ローマ信徒への手紙12:2


神様に「今日わたしが何をするべきか教えてください。」とお祈りしましょう。それは自分の弱さと向き合うことかもしれなせん。人を赦すことかもしれません。目の前にいる人の話を真剣に聞くことかもしれません。神様はわたしたちの品性を粘土のように練って、最高の作品に仕上げたいと願っておられます。そしてそれは毎日行われるプロセスで、わたしたちが協力しなければできない作業なのです。神様は毎日わたしたちの心に語りかけておられます。その御声を聞いて行うとき、神様は神様の御業を行うための力をわたしたちに与え、助けて下さいます。「こんなに神様から離れてしまった、自分は神様のもとにくるのにふさわしくない」と思わないでください。神様はあなたをあきらめません。もし自分のするべきこと、また直すべきことが示されたのなら今日それと向き合い、神様の御助けによって成長していってください。それは常に心地よいことではありませんが、天国に行って、神様に助けられて歩んできた人生を振り返るとき、一人ひとりユニークで素晴らしいストーリーが出来上がっているはずです。 
(終わり)








著者:森春香
編集者:品末拓真

2014年3月10日月曜日

この道であってる?3



さて、わたしたちは
Devil’s Backboneを通り、さらに頂上をめざして登って行きました。周りの木々や植物にはたくさんの雪が吹き付けて凍っていて、なんとも不思議な光景が広がっていました。Lisaが「うわぁー!カリフラワーの木だ!」と言うので見てみると、雪でデコレーションされたこんな木がありました。
想像を超えた雪の量とアドベンチャーに、わたしの中ではわくわくした気分と、果たして自分の体力はもつのだろうか、という不安な気持ちが混ざっていました。

 Lisa Camrieは、頻繁にハイキングや登山にいく人たちだったので、とても速いペースでぐんぐんと雪山を登って行きました。わたしはもう、一歩一歩自分で足をひきずっていかないと進めないほどでしたので、一番後ろで短い休憩をちょこちょことりながら歩いていました。するとCamrieが「春香どうしてるー?大丈夫―??」と、たまに振り向いて声をかけてくれました。わたしは「もうあきらめたいー!」と言いたいところでしたが、そういう選択肢はないと分かっていたので、「今そこにいくよ~」と自分に言い聞かせるかのように返事をしました。

 だんだん霧も濃くなって、積もった雪が風で巻き上げられていました。わたしは、「そういえば、雪山で登山するのは危ないって聞いたことあったな。なのになんで今自分は雪山を登っているんだろう」などと考え始めました。ですが、今そういうことを考えても意味がないと分かったので、「登りはじめたんだからもう後戻りはできない、最後まで頑張ろう!」と決心しました。そんな決心も数秒の効果しかなく、すぐに、あきらめたい別の自分がでてきました。まさに心のなかにいる二人の自分の戦いでした。一人は「ここで立ち止まって、あきらめて好きなだけ休憩してしまえ」、もう一人は「ここで長く立ち止まると疲れで動けなくなってしまうかもしれないから、一歩ずつでも進んでいこう」と言っていました。わたしは「神様、力を与えてください」と何度もお祈りしました。それと同時に「もうだめだ」とか「ここでもしわたしたち3人のうちの誰かが倒れたら、どうやって山を下りるんだろう」という考えも頭の中を飛び交っていました。そんななかでLisaは、「一歩ずつでも進んでいけばいつかはたどり着くよ」と言ってくれました。その言葉を励みに登っていき、わたしたちはついに頂上にたどり着きました


 頂上にはわたしたち3人のほかに、7人ほどのグループが休憩をとっていました。頂上から景色を見渡すと、わたしたちは雲の上にいました。とても寒かったので、写真を撮ってすぐに下山することにしました。手は寒さで感覚を失い、わたしたちもかなり疲れてきていたので、できるだけ早く下りようということになりました。来た道とは違う道を通れば、ループのようになっていてもとの駐車場に戻れるはずだと知っていたわたしたちは、念のため、この道であっているかどうか頂上にいた人たちに確かめました。ぱっと振り向くと、すでにCamrieLisaは走って山を下り始めていたので、わたしも慌てて走って彼女たちについていきました。どこからそんな体力が出てくるのだろうと思いながらついて行くと、突然彼女たちが止まったので「どうしたの?」と聞きました。すると彼女たちは、「道が消えた!」と言いました。「また迷ってしまったー!今日何回目だろう」と、わたしたちはもう一回頂上に戻って、この道で本当にあっているのか確かめることにしました。再び頂上へ戻り、そこにいた人たちに「この道であっているんですよね?」と聞くと「そうだよ」と言われたので、この道でいいのだという確信を得てまた走って下って行きました。
 道はすっかり雪で覆われていました。本当にここは道なのだろうかというところを何箇所か通り、しばらく下っていったのですが、やはりわたしたちは何かおかしいことに気がつきました。もとに来た道とは違うと言っても、今進んでいる道がまったく反対方向に突き進んでいて、ループになっているとはとても思えなかったのです。わたしたちは立ち止まり、どうしようかと相談しました。わたしたちには3つの選択肢がありました。まず一つ目は、このままこの道をどこに行くか分からないけれど下り続ける。二つ目は、来た道を戻って再び頂上へ行き、そこから来た道を引き返す。三つ目は、山を横切って道なき道を行き、ショートカットして元の道へ戻れることを願う。どれもあまり望ましい選択肢ではなかったので、わたしたち3人はしばらく黙っていました。Camrieが「みんなお祈りしようよ」と言ったので、わたしたちは神様にこうお祈りしました。「神様、わたしたちは今どうやってこの山から下りたらいいか分かりません。わたしたちを導いて、暖かい所へたどりつけるようにしてください。」
 お祈りしたあと、わたしたちはまた相談しました。Lisaは「頂上は寒すぎたからもう戻りたくない。」と言い、また山の間を横切るのは迷ったら危ないからやめておこう、ということになりました。もしこのままこの道を下って山を下りさえすれば、確実にもとの駐車場には戻らないだろうけど、とりあえず助けは求められるだろう、ということで、わたしたちは今進んでいた道を続けて進むことにしました。わたしたちはそれぞれしばらく黙って山を下りていました。どこへ行っているのかもわからずに歩いていたからです。しばらく下っていくとだんだん雪の量が減っていき、暖かくなってきました。途中でLisaのお母さんに電話がつながったので状況を説明すると、Lisaのお母さんはインターネットでMt.Baldyの地図を見て、どの道をわたしたちが歩いているのか調べてくれました。しかし、Devil’s Backboneとわたしたちが本来くだるべきだった道以外に道はないと言われました。「山のレンジャーに助けを求めたほうがいいんじゃないの?」と言われましたが、わたしたちは3人ともまだ歩けていたし、日が暮れるまで最低4時間はあり、どこに行くかはわからないけれども一応道を歩いていたので「大丈夫だよ」と言いました。
 Lisaのお母さんにわたしたちの状況を伝えられて、すこし緊張がほぐれたわたしたちは、またしゃべりはじめました。「まったく変な日だ!こんなアドベンチャーは予定外だったね。」Lisaが「今日の経験にタイトルをつけるとしたら何?」と聞いてきたので考えていると、Camrieが「今日一日中わたしたちが自分たちに聞き返した質問は『この道であってる?』」だったと思う」と言いました。それを聞いたわたしたちは笑い始めました。なぜなら、その質問の答えはいつも「No!」で、わたしたちが選んだ道はとことん間違っていたからです。「この経験を振り返った時には、なにかよい思い出が出来上がってるはずだよ」と言って、わたしたちは歩き続けました。

 この経験の最中、わたしに個人的に問いかけてきた質問は「今遭難して死ぬことになったらなにか後悔するだろうか」ということでした。そこで浮かび上がったのは、「自分と神様の関係はどうだろう?」「もうちょっと家族と話をしておけばよかった」「家にもう一度帰りたい」というようなことで、「あの宿題を終わらせておけばよかった」とか「勉強会に行けなかった」などという後悔は全く頭に浮かんできませんでした。そんななかで、いかにわたしの日常生活が、わたしにとって本当に大切なものよりも、やらなければいけない課題やテスト勉強などに時間を奪われていたかということに気が付きました。もしかして死ぬかもしれないと思ったときに、もっと勉強しておけばよかったとは思わないのです。むしろ、今死んだら天国にいけないかもしれない、なにか告白していない罪があったかな、などそういうことを心配しました。なぜわたしたちはそのように日々考えないのでしょうか?生きられるのが当たり前のように感じ、明日も必ずくるとどこかでわたしは思ってしまいます。しかし本当はそうではないのです。わたしたちは限られた時間を生きているのです。イエス様の再臨は近いのです。毎日わたしたちは、神様を選ぶか悪魔を選ぶか、どちらかの選択をとっているのです。そしてその選択がわたしたちの習慣となり、人格を決めていくのです。

 今日、神様は「わたしにつながっていなさい。」とわたしたちに呼びかけておられます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」ヨハネによる福音書15:4 神様にお祈りして聖霊を受け入れましょう。そして、神様がわたしたちの人生に関わってくださり、わたしたちが聖霊の実を結ぶことができるようにお願いしましょう。


続く




著者:森春香
編集者:山地悟

2014年3月9日日曜日

この道であってる?2

   さて、わたしたちは車に乗って、標高6000ft地点にあるMt.Baldyの登山口へと向かって行きました。Camrieは「まったく変な日だね。Kalebは時間通り起きられなくて、ジェネッサにあって、岩が道路に落ちていて。。ここで引き戻したほうがいいかもね」と冗談で言っていました。しかし、わたしたちはそのまま山を登ることにしました。

 駐車場に車を止めて、わたしたちは山道へ入って行きました。ハイキングの始まりです。わたしたちはその日、お昼の12時から午後2時まである勉強会に参加する予定でした。Lisaは「このBaldy Bowlという道が一番短い道のはずだから、この道を行って帰ってくれば、今はまだ朝の7時半だし、お昼までには問題なく学校に戻れるはずだからね」と言っていました。わたしたち3人は「思っていたより寒いね」といいながら歩き始めました。そのBaldy Bowlという道へ行くには、ある地点で左への分かれ道をとらなくてはいけませんでした。しばらくしてLisaが「みんな、どこか左に分かれる道見た?」と聞いたのですが、Camrieもわたしも「そんな道はなかったよ」と言ったので、そのまままっすぐ歩いていました。またしばらくすると、Lisaが「こんな道あったかなぁ??」と言い始めたので、今歩いている道はどうやらBaldy Bowlではなさそうだということが分かってきました。しかし、わたしたちは「まあ、この道も山の上のほうに続いているみたいだから大丈夫だよ」と言い、そのまま登り続けることにしました。
 しばらく歩いていると、岩の上に雪がついているのが見え始め、だんだん地面に積もっている雪の量も増えてきました―木の枝には雪が吹き付けて凍っていたりと、とても美しい情景が見られました。わたしたちは「南カリフォルニアで雪を見られるなんて思っていなかった!!」と、写真を撮って喜んでいました。わたしたちが登っていたMt.Baldyという山は、実はスキー場でもあり、スキーリフトやキャビンもありました。しかしこのシーズンは雪がたくさん積もらなかったようで、閉鎖していました。わたしたちはスキーリフトの上まで到達しました。そこには、一面雪で真っ白な広場が広がっていました。そこでわたしたちは、どこにたどり着いたのか確かめるために、広場をすこし探索しました。そこにこんな看板が立っていました。この山道には目印となるものや案内の看板がまったくなく、それはわたしたちがその日初めてみた看板でした。
この看板によれば、わたしたちは頂上から3.2マイル、またDevil’s Backboneという道まで1.2マイルの地点にいました。この場所には3つの道がありました。写真に写っている看板の矢印が指している右と左の道のほかに、写真には写っていないもうひとつの道がありました。しかし、この看板の矢印は明らかに左の道を指していたので、わたしたちは頂上を目指して左の道へ進んで行きました。
 しばらくすると、わたしたちは頂上に向かっているはずなのに、なぜかずっと下り道を歩いていることに気づきました。きっとまた登り道になるはずだと思っていたのですが、下りが続いてすでに1マイルは歩いていたので、Lisaが「ちょっと走って先のほう見てくるから、二人は歩いていて」と言いました。少しするとLisaが引き返してきて、「このままずっと下り道で、Devil’s Backboneっていう道もなかったよ」と言ったので、わたしたちはもう一度さっきの看板のところまで戻りました。そして、わたしたちは「この矢印はわたしたちがさっき行った道を完全に示していたよね!!でも違った」と言い、また「今日は予定と違ったことが起き続けているね」などと話しました。看板の前で、わたしたちは「もし12時の勉強会に本当に行きたいのなら今引き返すべきだけど、急いで頂上を目指して走って帰ってくれば、1時ごろには勉強会にたどり着けるかもしれない。でも、もしこれ以上登れないって思ったらいつでも言ってね」、と話しました。そこでCamrieがOK!じゃあ、せっかくここまで登ってきたし、頂上目指していけるところまで行こう!」と言ったので、わたしたちはきっと頂上に向かっていると思われる道を登りはじめました。
 しばらく登っていくとカーブがあり、そこをぐるっと曲がると、わたしたちの目の前にはとてつもなく急な坂が待っていました。
わたしはそれを見た途端「あぁ引き返したい。。。」と思いましたが、LisaCamrieはかなりの体力があって、「まあこれ登ってみよっかー!」などと明るく言っていました。彼女たちが登って行くので、わたしも登らなくてはおいていかれると思い、一緒に登っていきました。わたしたちは、「こんなに急な坂だからDevil’s Backbone(悪魔の背骨)っていう道なんだね」と話しました。ところが、やっとのことこの坂の一番上に到達するとそこには看板があり、どうやらわたしたちが登ってきたのはブラックダイヤモンドのスキースロープだったらしいということが分かりました。そして、わたしたちが今から登る道が本物のDevil’s Backboneだったのです。みると今登ってきた坂よりなだらかでした。Camrie は「これが悪魔の背骨なら、わたしたちがさっき登ってきたのは悪魔の火刑柱だね」と言って笑っていました。

 ここまでのことを振り返ってみてまず思ったことは、看板というものは信頼できると思っていたけれど、間違っていることもあるのだなということでした。しかし、わたしたちはどこにいるのか長い間分からず、何か方向を示してくれるものを探していたために、看板を見たときそれが正しいと信じ込み、見事に間違った道へ進んでいったのでした。こういうことは人生にもあります。到着地点が見られない、自分がどこを歩んでいるか分からないと不安になったとき、都合よくふと現れた看板を信じてだまされてしまうのです。サタンだって嘘の看板を立てることができます。サタンはとても賢いですから、神様のような業をもって人をだますでしょう。サタンの狙いは、わたしたちが神様以外のものや人に向かって行くことです。神様以外ならなんでもいいのです。それはたとえ自分の思い描いた理想の生活をすることでもいいのです。必ずしも悪く見えなくてもいいのです。だからわたしたちは単に結果を見て、それが良い決断だったかどうか判断することはできないでしょう。それよりも神様に向かって成長しているかどうかを考えなくてはなりません。

「そこで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳なものたちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。」ペトロの手紙第二 3:17

またテサロニケ信徒への手紙第一5:19-22には
「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」と書かれています。

わたしたちには聖霊が約束されています。毎日「聖霊をわたしの心に送ってください」と神様にお祈りしましょう。イエス様は聖霊についてこういっておられます。
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」ヨハネによる福音書16:13

聖霊を心のなかに受け入れて、神様が本当はわたしたちにどういうことを望んでおられるのか、またサタンがどうやってそれを邪魔しようとしているのかという真理を知り、あらゆる悪いものから遠ざかり、イエス様の恵みと知識において成長していきましょう。

(続く)




著者:森春香
編集者:山地悟

2014年3月1日土曜日

呼吸

呼吸、していますか?僕たちの周りには空気があって、それを吸って吐くことによって僕たちは生きています。

ところである人が、「空気はあると信じているよ」と言ったとしましょう。ところが呼吸をしなかったならば、その人はどうなってしまうでしょうか?お亡くなりになりますよね。

あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 ヤコブの手紙2:19

「神様はいると信じているよ」と言って何もしないのは、「空気はあると信じているよ」と言って呼吸をしないのも同然です。どちらも辿り着くところは死です。ではどうすればいいのでしょうか?

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」  マタイによる福音書22:37-40

神様と隣人を全力で愛する。それが僕たちの呼吸なのです。呼吸、していますか?