2014年2月21日金曜日

苦しみ

「わたしはもし十字架のためでなければ決して神を信じることはできない。この世の現実にある苦しみのなかでどうして痛みに抗体を持っていて何も感じない神を礼拝できるだろうか。わたしは数々のアジアの国で仏教のお寺の中に入り、大仏の前に礼儀をもって立った。大仏はあぐらをかき、目を閉じて、口元にはかすかな笑み、そして顔にはこの世の酷さから遠く離れた表情が見られた。わたしはしばらくした後、その大仏から目をそらさなければならなかった。そして代わりにわたしは頭の中で孤独に十字架の上で苦しめられている姿に目を向けた。彼の手と足には釘が打たれ、背中を鞭で打たれ、腕や足は痛めつけられ、頭からは茨の冠のとげによって血が流れ、口は渇き、暗闇のなかに投げ込まれている。この方こそわたしの神だ!彼は痛みに対する抗体を捨て、わたしたちの肉と血と涙と死の世界へ入った。彼はわたしたちのために苦しまれた。わたしたちの苦しみは彼の光の中で耐えられるものとなった。まだクエスチョンマークが人類の苦しみに対して掲げられているが、わたしたちは神が苦しまれたことを表わす十字架というマークをクエスチョンマークの上に堂々と掲げる。イエス・キリストの十字架は神が御自身の正しさをわたしたちの世界に証明するために使ったただひとつの方法だった。」Case for Faith pg.74-75

とジョン・R・W・スコットというイギリスの牧師さんはこのように言いました。

皆さんは神であるイエス様自身がこの世界に人間として来られ、十字架にかかって苦しみ死なれたということを考えるときどう思いますか?なんと神様に言いたいですか?どうやって今日生きていきたいですか

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