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2013年6月23日日曜日

真理って?

「イエスは言われた。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない。」
ヨハネによる福音書14:6

去年の夏わたしはコロンビアに行きました。サザンアドベンチスト大学からShare Himという伝道のプログラムに参加しました。そのプログラムは教会で英語からスペイン語に通訳してくれる人を通して聖書のお話を2週間半ほどするというものでした。そこでスペイン語しゃべれたらいいなと思いサザンから一緒に行った友達たちと短い聖句をスペイン語で練習したりしました。そこで通訳してくれていた人にそのことを伝えると、「ぼくの好きな聖句はこれだよ」『あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』ヨハネによる福音書8:32と言いました。

そのとき、わたしにとってこの聖句は「別に自分にはインパクトがないけどあなたはこれが好きなんだね」という程度で自分に語りかけてくるメッセージというものは分かりませんでした。そして「イエス様は自分のために十字架にかかってくださってそれによって自分は罪から自由になる」ということを言っているんだろうとさらっと表面上は理解していました。夏が終わり、学期が始まりました。

学期中に「あなたのやっていることはからっぽなのか?あなたはどこかで矛盾していますか?」という疑問を投げかけられ、わたしは自分自身の行動を見直し始めました。そしてたくさんの疑問が生まれました。始めは『そんなことない、自分は大丈夫』と言いきかせ、現実と向き合うことを避けたかったのですが、なんだかもやもや、もやもやして、すっきりしません。「神様、意味がわかりません」と言ったり「本当に自分はからっぽなのですか」と訴えたり、考え込んだり、いろんな人に突然質問したりして、アドバイスを求めたりしました。本当に悩みました。ますますこんがらがっていますと、そんななかで「イエス様を見よう」という友達がいました。「イエス様を求めれば自分の罪深いところなんか嫌というほど見えてくる。人に言われなくても分かる。」と。 

そこでわたしはイエス様をよく見ていなかったと分かりました。真実が見えていなかったのです。なぜならイエス様を見ていれば、イエス様は真実であるので真実が分かるはずです。

自分は罪人だけど、そうじゃないように見せようと頑張ったり、自分で罪から解放されようとあれこれ一般的に正しいと見えるようなことをやって、それで満足して、高慢になって、罪人であるということなど忘れてしまっている、そんなところにわたしはいました。とても危険です。自分に救う力があるかのように勘違いしていますね!教会の中にいたってそういうことはいくらでもできると思います。よいと思われるような奉仕を忙しくたくさんしてそれで『自分は良い人だ』、『ちょっとましな罪びとになったかな?』『神様の自分に対する価値がちょっと上がったかな?』など考えます。しかし神様はわたしたちの心のなかを究めておられ、わたしたちを裁かれるのも神様です。

わたしはどちらかというと、イエス様を見るよりも他人をよく見ていました。他人の言うことや反応によく左右され、自分の価値を神様ではなくて、ほかの人間によって上げられたり下げられたりすることを許していました。
しかし、真理、真実は「人間は罪人」ということ。ローマ3:9にも「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘されたように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪のもとにあるのです。」とあります。自分自身のことを罪人だと言っているとわたしはこの聖句を自分の人生に当てはめていませんでした。わたしはもともと罪人です。それは隠したってどれだけつくろったって変わらない、自分では解放できない罪の奴隷となってしまっているという真実。わたしが罪人であるということはイエス様もよ~く知っておられます。しかしそこでは終わりません。神様はわたしたちを愛してくださっていて、とても価値のある尊いものとしてくださっている。それも真実。これは他の人間があなたのことをどう言おうが、どう評価しようが、あなたが成功しようが、失敗しようが変わりません。あなたはこの宇宙の王である神様、この世界を創られたイエス様から見てとても価値があるのです。それは真実。そのイエス様が十字架にかかって罪の代価を払ってくださったので、わたしたちがお願いすれば聖霊の導きによって、罪深い性質から創りかえてくださることがおできになる。それも真実。

これらの真実を知って、そして受け入れてわたしはさまざまな思いや悩み、不安から解放されました。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」というヨハネによる福音書8:32の聖句を実際に体験したときでした
真理を知るには自分の力では無理です。聖霊が悟らせてくれるのです。聖霊がわたしたちを導いて真理を悟らせてくれます。そして真理が示されたときそれを信じるか否定するかはわたしたちの選択です。真理を知ることはかならずしも自分に都合がいいもの、いい気持ちがするものばかりではないかもしれません。だいたい間違いを指摘されていい気分がする人がいるでしょうか? とくに自分自身の存在に関わるようなものなどには敏感になってしまうでしょう。しかし自分自身に期待する必要は全くないのです。自分でなんとかする力があると思えば思うほど高慢になるし、『失敗したらどうしよう、上手くいかなかったらどうしよう』というプレッシャーも増します。

でも「自分は罪人です。」と受け入れてしまえば、そして「罪から解放できるのは自分じゃなくて、イエス様なんです。」って受け入れてしまえばまったく違う人生になるのではないでしょうか?

では、わたしたちがすべきことはなんですか?それはイエス様が与えると約束してくださった聖霊によって示された真実を日々受け止めること。日々の生活のなかで様々な出来事を通して神様は「これがあなたが罪にしがみついている問題だけど、その部分を創りかえてもいいかな?」と心に語りかけられたときに、「はい。創りかえてください」ということです。その声に聞き従うことです。自分がやりたいように行動してその声を遠ざけることだってできます。『自分は罪に浸ったままでいいんだ!』と。でもそうしているうちはわたしたちの心を創りかえてもらうことはできないのです。

どうぞ聖霊を求めて、聖霊の導きにより、イエス様を知って真実を悟ってください。そして罪人である自分のなかにある罪が示されたのなら、そこでその部分を創りかえてくださいと神様があなたの心に働きかけることをゆるし、招き入れてください。



森春香


*これは6月8日安息日にローマリンダ日本人教会で証した原稿です。西野貴基、森春香、品末拓真の3人でヨハネによる福音書14:6の道、真理、命についてそれぞれ話しました。

2013年6月17日月曜日

信仰とは?


よく教会で聞く「信仰」という言葉があります。みなさんはどういう意味だと思いますか?確かではないけれどなんとなく心地が良いから、もしくは気分が良いから信じることでしょうか?意味が分からないけどとりあえず鵜呑みし、それが「偶然正しいことでありますように」と願うことでしょうか?それとも信仰は「わたしは信じている!」とただ毎日言うことでしょうか?

聖書を開いてみましょう。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ヘブライ人への手紙11:1

わたしはこの聖句を何度もさらっと読んできました。しかし注意深く勉強しなかったために多くの勘違いも生まれました。セブンスデーアドベンチスト教会の信じているこの聖句、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」エフェソの信徒への手紙2:8,9。イエス様がわたしの個人的な救い主であると受け入れてバプテスマを受けたあとにはどうやってクリスチャンとして生きていけばいいのか、イエス様を信じていると言い続けてきたけれど果たしてそれだけでいいのか、そういう疑問にぶつかりました。私自身、信仰とはすべてのことはよく分からないけど分からなくても信じることだとしばらく理解してきました。信仰とはどういう意味かはっきりと分からずに信仰を持とうとしていました。

今回は日本語の聖書は他の言語から翻訳されたということをふまえて「信仰」と言う言葉の由来を調べてみました。

私が使っている聖書は新共同訳という聖書です。その序文の冒頭には「聖書の原文は、旧約のほとんどがヘブライ語で、新約がギリシア語で書かれました。」とあります。

それでは今回はヘブライ語を見てみましょう。「信仰」、または「信じる」と翻訳された語源はヘブライ語のエムーナという言葉です。エムーナという言葉は創世記15:6の「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」という聖句の「信じた」に使われています。さらにエムーナの語源となったヘブライ語はアマンです。アマンはアーメンの語源でもあります。ヘブライ語であるアマンという言葉の意味は「断固とした、堅固さ、真実、確か」です。

それではアマンという言葉から成り立ったエムーナ、「信仰」と日本語には訳されるこの言葉はどういう意味でしょうか?エムーナと言う言葉の意味はアマンと同じような「確かに、明確に真実であり、また確立されていること」と訳されます。信仰は希望と関係があります。聖書でいう希望というのは「こうなればいいな」という理想ではなく、神様がわたしたちに約束されたことが果たされることを待ち望むということです。

ここで始めの聖句をもう一度読んでみましょう。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ヘブライ人への手紙11:1

望んでいる事柄というのは神様が過去にわたしたちに約束されたことです。それを確信するということはその神様がわたしたちに約束されたことは信頼できるものである、そしてそれは事実であるということを確信すること。見えない事実は目には見えないけれども本当であるということを確認する。

つまり信仰とはよく説明しきれないことがあるけどなんとなくそれが本当であるかのように信じることではなく、神様は御自分のされた約束を果たす方、そして神様はわたしたちに約束されたことは必ず果たされるということを確認することです。

見えない事実とはどういうことでしょうか?目に見えないけれども存在するものです。例にあげれば風や磁力、引力などです。わたしたちはこれが「風の形」だとそのものを見ることはできませんが風が花びらを散らしたり木を揺らしたりといった証拠を見て風が吹いているという事実を確認できます。磁力そのものをみることはできませんが磁石が鉄にくっつくのを見て磁力が働いていると分かります。そのように、神様の約束も見えない事実の一つです。そしてそれが事実だということを知るための証拠はわたしたちに十分に与えられます。(ペトロの手紙二 1:3)

みなさんは神様が約束を必ず果たす方であると信じていますか?だれも赤の他人を信頼できないように、わたしたちは神様がどういう方であるかを知らずに神様の約束を信じることはできません。祈りを通して聖書を勉強して他人から聞いた話を丸のみに信じるのではなく、自分で聖書を調べて、祈って、神様を知ってください。自分の感情によってではなく、神様の御言葉によって確信してください。

神様はたくさんの約束をわたしたちにしておられます。また、過去にすでに果たされた約束もたくさん聖書に記されています。わたしたちは神様の約束がどんなものであるか知らなければなりません。約束が何かを知らずにそれを待ち望むことはできないからです。

そして「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちをご自分の栄光と力あるわざとで召し出してくださった方を認識させることによるのです。」ペトロの手紙二 1:3
と書かれています。神様はわたしたちが求めれば、神様を知るために必要なものをすべて与えてくださいます。

最後に、わたしたちは神様、聖書を理解するには聖霊の導きが必要です。そして信仰を持つためにも聖霊が必要です。じっくりとお祈りして聖霊を求めて、聖霊が真実を示してくださることを求めてください。


著者:森春香

参考文献
e-Sword


2013年3月3日日曜日

唯一の神様、イエス・キリスト~あなたの神様は誰?~


あなたは、神様という存在について考えたことがありますか?世の中には色々な宗教や考え方があります。しかし実は、宗教と全く関わりのない人たちも皆、神様によって日々の人生が定められているのです。

神様とは、あなたの人生の中で最も大きな影響を持っている人、物、場所、あるいは習慣です。人によって神様は違います。お金、学歴、仕事、学校、先生、家族、友達、恋愛、アイドル、俳優、女優、クラブ、食べ物、お酒、タバコ、音楽、芸術、本、スポーツ、テレビ、携帯電話、故郷、国、政治、又は自分自身を神様として生きる人たちもいます。あなたの人生の中で、今一番重要で、影響力を持っているのは何でしょうか?あなたは日々の時間をどのように使っていますか?あなたはいつも何を考えていますか?

どれほど楽しい事、おいしいもの、大切そうな事、立派な人も完璧ではありません。この世の中に完璧なものなどありません。それらのものはいつしかあなたの思いを裏切り、あなたの生きる指針をなくして人生をめちゃくちゃにしてしまいます。目的も無く、あやふやになんとなく流されて生きているのが悲しくなったり、空しくなったりしたことがありませんか。ある人々は、自分自身以外頼れるものはないと言います。しかし、自分の胸に手を当ててみて、自分を信頼できると心から言い切れますか?自分よりも大きな夢、使命、目的が欲しいとは思いませんか?

では、何を、もしくは誰を自分の神様にすべきなのでしょうか?
答えは、イエス・キリストです。キリストは、全世界の創造者かつ王様でありながら、自らの永遠の命を危険にさらして、罪と悪のどん底にある私たち人間に希望を与えてくださいました。全宇宙の神様が、あなたのために自らの命を犠牲にしてくださったのです。悪魔という堕天使が、いま地球を支配しているように見えます。人間が、神様と神様の律法ではなく、悪魔と罪を選んでしまったために、沢山の苦しみ、悲しみ、痛み、病気、死とあらゆる悪が地球にはびこっています。しかし近い将来、悪魔とその手下たちは退治され、イエス・キリスト、唯一の神様、が全宇宙を支配されます。


『また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」』。(ヨハネの黙示録21章3~5節)

あなたは、今日から、イエス・キリストをあなたの神様とする事ができます。キリストがあなたの神様になれば、とても頼もしいです。時にはつらいこともあります。それは、悪魔が全力であなたをキリストから引き離そうとするからです。いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。』(テモテ第二の手紙3章12節)。しかし、キリストの後ろに隠れていれば、悪魔は何一つできません。尻尾を巻いて逃げてしまうでしょう。時には苦しみもありますが、それでも偉大な目的を見失わず勇敢に歩む、喜びと感動に満ち満ちた人生を選びませんか?

『わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。』(ガラテヤ人の手紙6章9節)。今の世の中では、辛い事が沢山あります。あなたを善の道から悪の道へと誘導しようとする誘惑も沢山あります。しかし、最後までたゆまないでいると、天国での永遠の命という本当の喜びが約束されています。キリストに信頼して、キリストをあなたの最も重要で影響力を持つ人物、神様として受け入れませんか?

『それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」。』(ヨシュア記24章14~15節)

今、あなたの神様は誰ですか?人物、場所、宗教、習慣、それが何であろうと、今のあなたの神から離れ去って、何よりも大きい、宇宙の創造者であられるキリストをあなたの神様として受け入れて、希望にあふれた新しい人生を始めませんか?

キリストと会話する方法は、聖書とお祈りと聖霊の力です。キリストに在る希望と喜びを友だち、家族、周りの人たちに教えてあげるのは本当に楽しい事です。もっと詳しく聖書、お祈り、聖霊について知りたかったら連絡してください。
mkoministy@gmail.com


著者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

2012年12月2日日曜日

怒りの対処法


 みなさんはどうしようもないほど怒ってしまったとき、その煮えたぎるような感情をどう対処していますか?聖書の詩編59編には、ダビデがサウルから逃れようとしているときにダビデが書いた詩が記録されています。正しいことをしようとしているダビデを殺そうと追ってくるサウルに対して、怒りを覚えるダビデの感情が書き表されています。この詩から学べる怒りの対処法には5つのステップがあります。

1. 神様に助けを求める。
2. 神様に状況を説明する。
3. 怒りの感情を正直に神様に打ち明け、手放す。 
4. 賛美する。
5. その経験から何を学んだか考え、成長する。


1. 神様に助けを求める
 「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し 立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し 流血の罪を犯すの者から救ってください。」(詩編59:2-3)。ダビデは敵、又は悪を行う者から助け出されることをまず神様に求めています。

2.神様に状況を説明する。
 「御覧ください、主よ 力ある者がわたしの命をねらって待ち伏せし 争いを仕掛けて来ます。罪もなく過ちもなく 悪事をはたらいたこともないわたしを 打ち破ろうとして身構えています。」(詩編59:4-5)。ここでダビデは、自分の善い行いにもかかわらずサウルが襲ってくるという状況を神様に話しています。神様は全知全能なので、ダビデが状況を説明する前からすべてのことをご存知でした。ではなぜ彼は祈ったのでしょうか?お祈りは、神様とのコミュニケーションのためにあります。コミュニケーション無しで誰かと関係を築く事はできません。人間が神様との関係を築くために、祈りは必須なのです。それと同時に、祈ることによってむしろわたしたち自身が状況を明確に把握することができます。

3. 怒りの感情を正直に神様に打ち明け、手放す。
 「(6)あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください。悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。(14)御怒りによって彼らを絶やし 絶やして、ひとりも残さないでください。」(詩編59:6,14)ダビデはこのように怒りの感情を神様にぶちまけました。怒りを抑えつけるのは体にもよくありません。しかし、何にでもあたりかまわず怒りをぶつけていると、周りの人や物を傷つけてしまいます。また、自分の怒りを受け止めきれない人に矛先を向けてしまうと、今度はその人が耐えられないでしょう。ではどの様にして怒りを発散するべきなのでしょうか?わたしたちの怒りを受け止めきれるお方に打ち明けねばなりません。神様は人間のどの様な怒りをも受け止めることができます。ダビデがお祈りでしたように、自分の怒りを正直に御前に差し出しましょう。わたしたちがどういう気持ちなのか打ち明けてほしいと神様は思っておられます。それは、神様がわたしたちと個人的な関係を築きたいと望んでおられるからです。そして神様に怒りを打ち明けたあとは、その怒りにしがみつき続けるのではなく、手放しましょう。神様はわたしたちの怒りを取り除き、心に平和を与えてくださいます。

4. 賛美
 「わたしは御力をたたえて歌をささげ 朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。わたしの力と頼む神よ あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ。」(詩編59:17,18)あれほど怒っていたダビデですが、怒りを神様に打ち明け、手放したあとは神様を賛美しています。彼の心に平和がおとずれたのです。

5. その経験を通して何を学んだか考え、成長する。
 神様はわたしたちに常に成長してほしいと望んでおられます。自分の人生を神様に捧げると決心した後は、成長し続けるべきなのです。ダビデは自分を殺そうと追ってくるサウルに対する怒りを、神様に打ち明けて手放すことができました。洞窟にてダビデはサウルを殺すこともできましたが、サウルが主が油を注がれた方であるからと言って、手をかけませんでした。そしてサウルの上着の端を切り取りました。「しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し」(サムエル記上24:6)ます。なぜなら、それは主が油を注がれた人の上着だったからです。ここにダビデの成長が見られます。あれほどサウルに対して怒っていたダビデですが、サウルを殺そうと思えば殺せたのにそうせず、上着を切り取ったことすら後に後悔しました。

 この詩編59編からわたしたちが学べることは、神様がわたしたちの怒りを受け止めることのできる大きなお方であり、祈りを通して怒りを御前にそのまま持っていく大切さ、怒りのような醜い感情であっても、神様はわたしたちから伝えてほしいと思っておられること、そして神様には私たちの醜い感情を取り除き、平安を与える力があるということです。神様に全てを委ね、成長していきましょう。

著者:森 春香
編集者:品末拓真


2012年8月29日水曜日

宣教の目標:天国に一緒に行くこと



「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」ヘブライ人への手紙10章24、25節

East Ridge教会で聞いたお説教のまとめです。

イエス様を個人的な救い主として受け入れ、永遠の命という希望を手にしたとき、わたしたちは周りの人にもこのよい知らせ、福音を伝えたいという気持ちになるはずです。それがいわゆる宣教ですが、イエス様の再臨を待っている間クリスチャンとしてどういう宣教をしたらよいのでしょうか?
まず、イエス様の3つの教訓を紹介します。
1. 互いに愛し合いなさい
2. 互いに赦しあいなさい
3. 互いに親切にしなさい

この3つの教訓に共通しているのは「互いに」という言葉です。「互いに」という言葉は聖書の中で157回使われています。神様はわたしたち人間にお互いに交わり、支え合う関係を築いてほしいと願っておられます。

ヨハネによる福音書15章12節には「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と言われたイエス様の言葉があります。そしてヨハネの手紙一 4章7節には「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」と書いてあります。そしてテサロニケ信徒への手紙一 3章12節には「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」とあります。「すべての人への愛」と書いてあります。最も力強い証は人間の中に与えられた神様からの愛によるものです。わたしたちが神様に求めることができる最高の贈り物は、周りの人に与えるための神様の愛です。

それでは具体的にどうやって互いに愛し合うことができるのでしょうか?

「5つの愛の言語」というものがあります。
 相手を肯定する言葉を言う
 質のある時間を過ごす 
 贈り物をする
 奉仕をする
触れる

ある人は自分を肯定してくれるような言葉を言ってもらったときに愛を感じますが、ほかの人は贈り物を受け取ったときにもっと愛を感じたり、と愛の感じ方は人それぞれです。そして文化の違いでラテン・アメリカやヒスパニック系の文化では挨拶にハグをしたりや頬にキスをしますが日本ではおじぎや握手が主流です。相手の文化を理解し、相手が心地よい方法で愛情表現をすることが必要です。 つまり、愛情表現するためには相手がどういう人なのか、どういうことが好きでどういうことが嫌いなのかよく知らないといけません。

次に、互いに親切にしなさい、赦し合いなさいという教えについて考えてみましょう。

エフェソの信徒への手紙4章32節には「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように赦し合いなさい。」と書かれています。ではどうすれば互いに親切にし、憐れみの心で接することができるのでしょうか?

ローマ信徒への手紙12章15節、16節には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢いものとうぬぼれてはなりません。」と書かれています。「互いに思いを一つにし」とはその人がどういう気持ちなのか分かろうと努力するということだと思います。高ぶっていてはその人の気持ちを考えようという心が備わりません。互いに思いを一つにすることで、親切心、憐れみの心というものを持つことができるのではないでしょうか。

それでは赦し合いなさいという教えはどう実現することができるでしょうか?
先ほどの聖句のエフェソ信徒への手紙4章32節に「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったことように赦し合いなさい。」と書かれています。わたしたちのすべての罪がイエス様の十字架の死によって赦されたということを真剣に考えるとき、もっと他人を赦せるようになるはずです。ヘブライ人への手紙12章2、3節には「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右におすわりになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」とあります。さらに、ローマ信徒への手紙14章10、13節には「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。…従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」イエス様はすべての人のために十字架にかかられたということ、そしてすべての人は神の裁きの座の前に立つということを覚えていれば、「自分でなんとか復讐してやろう」、とか「許せない」という気持ちを手放すことができるはずです。

わたしたちがイエス様の福音を宣べ伝えるにあたって、周りの人はわたしたちの日常生活での行動、言動、態度をよく見ています。わたしたちの目標は福音を押し売りすることではありません。常にイエス様を受け入れるという選択をし、また皆で天国に一緒に行けるようにするということです。互いにキリストにある兄弟姉妹である友達、家族、周りの人たちを励ましあって毎日生活していきましょう。相手のことをよく知り愛し合い、赦し合い、親切にしあいましょう。




著者:森春香
編集者:中原莉沙

2012年8月29日

2012年7月15日日曜日

救いとは


前回は罪の起源について書きました。今回はその「罪」という問題の解決策についてお話します。
私たちはアダムとエバが罪を犯したゆえに朽ちて死ぬ体となってしまい、そして、永遠に生きられるはずが罪の結果、何千年もの歴史を通し、今では人生80年ほどになってしまいました。
でも神様は人間を見捨てませんでした。ある解決策をもっていたのです。私たち人間は皆、罪を犯すものです。では罪とは何でしょうか?
「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」
ヨハネ第一の手紙3:4

という事は、
神様の律法を犯すこと = 罪

そして、
「罪の支払う報酬は死である。」ローマ6:23

律法を犯す = 罪 = 死

ということです。
さて、解決策があるといいましたが、それがこのローマ書6:23後半に書いてあることです。

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」ローマ書6:23

「そうかぁ。。永遠のいのちかぁ~難しそうだな~」と思われるかもしれません。
それでは、どうやって永遠のいのちを手に入れるのでしょうか?
先ほどのローマ書の箇所では、永遠の命は神の賜物、と書いてありました。「賜物」というのは贈り物ということです。贈り物は何か支払って買うのではなくて、だれかからもらうもの、つまりただ、無料ですよね?

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」エペソ人への手紙2:8-9

という事は、

救い ≠ 行いによる 
救い = 無料

ということになります。

私たちがどんなに頑張ろうと、私たちがどんなにいいことをしようと、自分の力では救いは手に入らないのです。

では自分の力では手に入らないのだったら、どうやって救われるのでしょうか?

ここで3つのステップを説明します。

1.自分が罪人だと認める。

病人が「自分は病気ではない」と言っていたら、病院に行くこともありませんし
医者に病気を治してもらうこともできません。それと一緒で、私たちも、自分たちが罪
人だと認めなければ、救い主の必要性も感じないのです。

「 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」
ローマ3:23

聖書は人類のすべてが罪を犯した、といっています。どんなにいい人に見えても、
私たちは皆、罪を犯しているのです。

2.イエスが救ってくださると信じる。

イエスは私たちのために天の都からこの地上に来て、私たちのために死んでくださ
いました。そして、私たちが罪によって死ぬべきことになっていましたが、私たちの身代わりになって私たちの罪を背負い、死んでくださったのです。

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
使徒行伝16:31

私たちがイエスを信じて、心の中に救い主として受け入れるとき、私たちは救い得ることができるのです。

3.罪を告白する。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 」
ヨハネ第一1:9

神様は私たちの罪悪感を取り除き、平安を与えてくださいます。また、過去の罪を許してくださるだけではなく、私たちを清め、罪を犯さないように変えてくださるのです。そして、わたしたちの醜く、荒れた心を、清らかな新しい心に変えてくださる、と約束してくださっているのです。

皆様もそんな神様を心の中に今日、受け入れてみませんか?必ず後悔することはあ
りません。



著者:ミラージョエル
編集者:森 春香

7/15/2012


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2012年6月22日金曜日

なぜ苦しむ

「なぜ苦しむ」

この世の中には楽しいことや嬉しいこともあれば、つらくて悲しいこともあります。自分の人生と他人の人生を比べて不公平に感じることがあるかもしれません。なぜ私たちは苦しむのでしょうか?なぜ涙を流さなくてはいけないのでしょうか?

聖書のなかにある答えを探してみましょう。

創世記の1章31節をみると、神様がこの地球を創造されたときの記録があります。

「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。」創世記1:31

神様が言った「はなはだ良かった」というのは苦しみ、痛みも含めて「良かった」のでしょうか。もしそうだとすれば、神様は私たちの苦しみ、悲しみを見て喜んでいるということですよね。でも、幸いにも聖書はそう書いていません。なぜかというと、創世記の3章に悲劇の話があるからです。

地球のはじめ、エデンの園には一番はじめに神様によって創造された人間、アダムとエバが住んでいました。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、

ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」 創世記3:1-3

女とはエバのことです。

では蛇とは誰のことでしょうか?どこにでもいる普通の蛇がエバに近づいてきて話しはじめたのでしょうか?

聖書の終わりの書物、ヨハネの黙示録を見てみると、蛇はサタン、悪魔にたとえられています。

「彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへび、、、」ヨハネの黙示録12:9

悪魔の起源についてはまた今度お話しますが、今は創世記の話に戻りましょう。

「へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。」

神様は「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」創世記2:17と言いました。サタンは神様と正反対のことを女に言いました。

なぜ神様は善悪の知識の木の実を食べてはいけないといったのでしょうか?ただの木の実なのに、なにか特別な理由があったのでしょうか?

神様は良いものをすべてアダムとエバに与えました。でも善悪の知識の木の実は食べてはいけないとおっしゃいました。なぜかというと、神様はアダムとエバに自分自身で選択する自由を与えたかったからです。神様はアダムとエバに幸せになってほしいと願っておられました。そして神様はアダムとエバを創造したので、何が彼らに、そして人間に一番良いかを知っておられます。そして神様の法則に従ってほしいと願っています。しかし、神様は彼らを愛しているので強制はなさいません。なので神様は、神様以外の道も選択肢として与えられたのです。それがエデンの園の中にある「善悪を知る木」だったのです。

へびであるサタンは善悪の知識の木の前に立っているエバに、また嘘をつきました。

「『それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 」創世記3:4-6

アダムとエバは神様が食べてはいけないといった実を食べました。それは罪でした。この罪を犯したゆえにすばらしいエデンの園を離れなければなりませんでした。そして、「罪の支払う報酬は死である。」とローマ人への手紙6:23に書いてあるように、アダムとエバは罪の報酬を受け、死ぬべき身となりました。そしてこの世界にも罪の結果として、苦しみ、悲しみ、そして死が入ってきました。今、この世のすべての苦しみ、犯罪、そして悪はこの罪のためです。アダムとエバが罪を犯した結果、人類はその報酬を受ける身となってしまったのです。

ここで神様はアダムとエバを簡単に消すこともできました。しかし、もしそうしたら人間は神様を愛するから従うのではなく、恐れて従うようになってしまいます。そこで、愛の神様は、ある希望をアダムとエバに与えました。そしてその同じ希望を神様は今日わたしたちにも与えておられます。

「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」ローマ6:23

イエス・キリストを信じることによって罪からの救いを約束されたのです。そして御子イエスを受け入れる人を神様は天国に連れて行ってくださるのです。

次回は「救いとは」と題してお話させていただきます。

ミラージョエル

編集者:森 春香

2012年6月22日


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