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2014年6月6日金曜日

刑務所でのわたしの証 5

わたしたちはどうすれば、どのような状況にあっても神様に忠実であることができるのでしょうか?わたしたちは恐れが妥協する原因であるということを知らなければなりません。多くの場合、恐れによってわたしたちはサタンに妥協を許します。「これをしなければならないのは分かっているけど、この人を不快な気分にさせたくないからできない。」というとき、わたしたちはその人を、そして結果を恐れています。「わたしは土曜日の仕事を辞めることはできない。だれがわたしの家族を養うのか?」その行動の結果を恐れているのです。わたしたちが頻繁に神様の掟からそれて妥協する理由は、「何が自分に起きるのだろう?」と結果を恐れるためです。
聖書の箴言28章1節を開いてください。「神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。神に従う人は若獅子のように自信がある。」どのように自信があると書いてありますか?若獅子のようにです。わたしがこの経験を通して学んだことは、クリスチャンとして、わたしたちは決して結果を恐れて神様の掟に妥協するべきではないということです。クリスチャンは、結果を想定して神様の掟に従うかどうか決めるべきではないということです。Sanctified Lifeという本から引用します。「真実のクリスチャンは結果を天秤にかけるために立ち止まることはせず、自分のすることで他の人がどう思うかを考えず、世俗的な観点から物事を考えない。しかし、神の子供として神の栄光を表わすためにどのような働きができるかどうかを考える。」クリスチャンは神様の掟に従った結果を量ろうとしません。わたしたちがよくする間違いです。いつも「何が自分に起きるのだろう?」と考えて、結果を恐れて妥協してしまうのです。
              わたしは心の中で葛藤しながら祈りました。そしてわたしは様々な考えをすべて横に置いて、神様の御手におまかせしようと決めました。もうこれらのことはわたしの問題ではなくなりました。神様の問題となりました。わたしの問題は神様の御心を知り、それをたとえわたしがどこにいても実行することです。すべての問題を神様にお任せしたとき、結果がどうなるかというのは神様の問題です。多くの場合、わたしたちは自分自身で結果を決めようとしています。そしてその中で妥協してしまうのです。
わたしは管理人の責任者に「たとえわたしにどんなことが起ころうとも、わたしは土曜日に働きません。」と言いました。もちろんその責任者は怒って、「お前は無礼なやつだ。せっかくお前を助けてやろうとしているのに。今すぐお前を通報するから荷造りをしろ。お前は隔離された牢屋に入れられる。」と言いました。責任者は武官に話しに行き、帰ってきました。わたしは荷造りを終わらせていましたので、「準備はできています。」と言うと彼は「お前は行かなくていい。」と言いました。「行かなくていいとはどういう意味ですか?」と聞くと「わたしは管理人の責任者で土曜日には休みをもらっている。だからわたしの土曜日の休みをお前にやってわたしが代わりに働こう。」と言ったのでした。それを聞いたとき、わたしたちはこれが奇跡だと分かりました。なぜなら、この責任者がわたしに土曜日の休みを提供する理由はどこにもなかったからです。彼はわたしを全く知りませんでした。そして彼は怒り狂っていました。しかし武官に会いに行って帰ってきたこの短い間に神様は彼の心を変えたのでした。わたしは神様に感謝しました。もしあなたが神様を信頼して誉れをもたらすとき、神様も同じようにあなたに誉れをもたらされるのです。
              わたしは日曜日も含めて毎日朝から晩まで一生懸命に働きました。わたしは床にモップをかけ、それが終わったらすぐ次にすることを探し、わたしの役目を果たしました。わたしは神様にとても感謝していました。またこの管理人の責任者にも感謝していました。一生懸命働いているうちに、わたしはこの責任者と友達になりました。彼は「今まで君のようにこんなに一生懸命働く囚人を見たことがない」と言いました。わたしが掃除している建物は刑務所中で一番きれいな建物になりました。武官はこの建物をこんなにきれいに管理している責任者をとても誇りに思いました。そして責任者はわたしをとても誇りに思いました。そして彼は「2か月ごとに囚人たちはあまり一つの場所に長い間いるといけないから違うステーションに回される。でも君のことをとても気に入った。もし違う責任者のもとへ行ったら君は安息日を守ることはできないだろう。もし良かったら今から武官に頼んでわたしが行くところに君も来られるようにしてもらうけれどいいか?」と言いました。わたしは「はい、お願いします。」と言いました。彼は武官に話しに行き許可をもらってわたしはどのステーションへ行っても同じ責任者のもとで働くことができ安息日を守り続けることができるようになりました。

              わたしたちがこのステーションに移ってきて2週間後、武官がやってきて「Sung Hoon Kang, お前は理髪師として働きにいかなければならない。」と言いました。「いえいえ、何かの間違えです。」と返すと、「いや、これが命令だ。お前は理髪師になれ。」と武官は言いました。「わたしは今まで誰の髪の毛も切ったことがありませんし、ここにいて幸せですし、安息日も守れますし…」と言っても「お前は理髪師にならなければならない」と武官は譲りませんでした。何か理由があって、神様がわたしをこのステーションからほかのステーションに移そうとしていることをわたしは知りました。わたしはただ、神様のお導きに従うしかありませんでした。刑務所の理髪店につくと「どうしてわたしがここに送られてきたか分かりません。わたしには何も経験がありません。」と伝えました。他の人たちは何らかの形で理髪の経験を持っていました。「今から建物を回るから、自分の物を持ってついてきなさい。」と言われました。「わたしは理髪の経験が全くないのですが...」と言っても「まあそのうち学ぶよ」などと言われるだけなので、わたしはただついていきました。

刑務所でのわたしの証 4

わたしの話に戻りますと、数日後ある変化がありました。クリスチャンに対して苦い思いを抱き、わたしに辛く当たってきた人たちが次第に1人ずつ質問してくるようになったのです。「君の神様について教えてくれ。」「君の聖書について教えてくれないか。」すべての牢屋にはボスがいるのですが、ある日わたしの部屋のボスが、「君の好きな聖書の章を読んでくれないか?」と言ってきました。わたしはこれはいい機会だと思い、祈ってから、詩編91編を開いて読み始めました。読み終わると、そのボスは「気に入らない」と言い、もう一つ違う章を読んでくれないかと頼んできました。わたしがもう一章読むと「少しましだ」と言い、もう一章読んでくれと言いました。そして読むと彼はそれがとても気に入ったようでした。ボスは、「毎朝1章、わたしたちに読んでくれないか?」と言いました。わたしは「はい、喜んで読みたいと思います。」と応えました。
囚人たちは様々な質問をしてきました。ある囚人はわたしに、「もし神様が本当に存在するなら、どうして自分がこんな人生のどん底までくることを許したのか?俺は友達を殺して、殺人犯としてこの刑務所に来た。もし神様が本当にいるなら、どうしてわたしがここまでくることを許したのか?」と質問をしてきました。またある日は、ボスがきて私に聞きました。「お前はクリスチャンだけどどの宗派か?」と言うので、「私はセブンスデー・アドベンチストです」と応えました。セブンスデー・アドベンチストと言った途端、彼の中で何かが変わったようでした。彼は何も言わず彼がいつもいる牢屋の隅へ行き、何かを書きはじめました。1時間後、彼は戻ってきて何も言わずに手紙を投げつけてきました。「読んでくれ」と言いました。わたしは手紙を開いて読み始めると、目から涙がでてきました。その手紙は「ずっと昔、25年前、自分は軍にいてトレーニングを受けていた。」と書き始められていました。当時、ボスは20代の青年でした。手紙の続きにはこう書かれていました。
「トレーニングの軍の中にはもう一人の若者がいて、彼は土曜日に働きたくなかったために、死にそうになるまで暴力を振われていた。彼はセブンスデー・アドベンチストだった。その青年はわたしのところにきて証をした。しかしわたしは彼が言うことに耳も傾けず拒絶した。それから、25年間わたしは自分の満足のためだけに生きてきて、ついにこの刑務所にまでたどり着いてしまった。ある日鉄格子が開いて、ある青年が同じ牢屋にやってきた。それはお前だった。お前がこの牢屋に入ってきた途端、わたしは心の中で『この青年はクリスチャンに違いない。』と思った。そして『セブンスデー・アドベンチストであってもおかしくないだろう』と思った。」
ボスは、実際にわたしがセブンスデー・アドベンチストだと分かった時、物が言えないほど驚いたと言っていました。そしてさらに手紙の中で「もしかすると、神様は2度目のチャンスを与えてくださったのかもしれない。この牢屋でもう一度チャンスを与えてくださったのだ。」と書かれていました。
数週間後、わたしは刑務所で労働ステーションに配置されました。それぞれ違うステーションに配置され、毎日12時間働かなければなりませんでした。そしてとても安い賃金をもらいました。わたしは月に約10ドル稼いでいました。ほぼ無報酬で働いているようなものです。わたしは管理人として雇われました。わたしはすぐに安息日の問題にぶつかると分かっていました。管理人として配置されたその日に、わたしはそのステーションの責任者である囚人のところに行って、「わたしはセブンスデー・アドベンチストです。管理人としてわたしは建物の掃除などをしないといけないということは分かっています。しかしセブンスデー・アドベンチストとしてわたしは安息日に働くことはできません。」この責任者である囚人はわたしの顔を見て「お前の名前は何だ?」と言いました。「Sung Hoonです。」と答えると、彼は「Sung Hoon、君は大きな勘違いをしている。」と言いました。「どういう意味ですか?」と聞くと、こう言われました。「お前は自分がどこにいるのか分かっていないのか?ここは刑務所だ。お前は旅行にきているんじゃないし、家にいるわけでもない。お前は刑務所にいるんだ。何をするとか何をしないとかをお前が選択することはできない。囚人であるということは奴隷であるということだ。ただ言われたことをするのがお前の役目だ。安息日だの何だの意味の分からないことを言ってくるのはやめて、仕事に戻れ。」しかし私は彼に、「わたしは自分が囚人であることを知っています。そして刑務所にいることも分かっています。確かにここはとても特別な環境です。しかし、だからと行って急に神様の掟を破っていいことにはなりません。クリスチャンとしてわたしは土曜日に働くことはできません。」と言い返しました。わたしは、そのとき彼が怒り狂ったのを覚えています。彼は「お前に選択肢はない。土曜日にお前は働かなければならない」と言いました。
ここでわたしはもう一つの法則をお伝えします。ヨシュア記24:15です。みなさん暗唱しておられると思いますが読みます。「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」次の法則は、どんな状況にあってもわたしたちには必ず選択肢があるということです。あなたは自由の選択をもって善悪を判断するキリストの証人なのです。たとえだれと一緒にいても、どこにいても、わたしたちには選択肢があるのです。よく「わたしにはこれ以外選択肢がなかった。」とか「悪魔がわたしをこうするように仕向けた。」などということを聞きますが、多くの場合、人々がこういう発言をする理由は彼らが代価を払いたくないからです。それで「こうするしかなかった」というのです。「彼氏がもし一緒に寝なければ別れるって言われた。こうするしかなかった。」こうするしかかなったのではありません。選択したことにはその代価がついてきます。彼氏と別れることかもしれません。ある人は「もし安息日に働かなければだれがわたしの家族を養うのか?」この厳しい経済状況で現実的な話ですね。「もし安息日のために仕事を辞めたらだれがわたしの家族と子供の世話をするのか?だから安息日に働くしかなかった」しかし、選択肢はあったのです。選択したことにはその代価がついてきます。
話に戻りますと、「お前には選択肢はない」と言われたわたしは、管理人の責任者に敬意をもって、しかし断固としてこう伝えなければなりませんでした。「たとえわたしが奴隷であり、刑務所でこのような特別な状況の中にあったとしても、わたしには選択肢があることをあなたに知っていただきたいです。たとえどんなことがわたしに起きるとしても、わたしは土曜日に働いて神様の掟を破ることはしません。」と。想像できますか?責任者はひどく立腹していました。「今すぐ武官に連絡してお前を通報するぞ。もしわたしが武官に通報すれば、お前は個別の牢屋に閉じ込められ、すべての特権を失う。」と彼は言いました。それを聞いた時わたしは、「自分が今どんな特権をもっているというのだろう?何を言っているんだこの人は。」と思いました。彼が言う特権とは、友達に手紙を書いたり、両親が訪問してきてきたり、また刑務所の売店で買い物をしたりするのが許されていることでした。さらに彼は「お前はこの刑務所から3か月早く解放される特権を失う。」と言いました。それを聞いたとき、わたしは思わず聞き返さずにいられませんでした。「今、3か月早くこの刑務所から出られると言いましたか?」彼は「もちろん、もしこの刑務所で良い態度で過ごしているなら、3か月早く出所できる。」と言いました。
わたしはそれを聞いた途端、今まで自分が経験しなければならなかったすべての事を思い出しました。囚人たちとの辛い時間、そして牢屋のトイレです。そこはトイレと呼べるほどでもないのですが、ドアを開け中に入って閉めると、しゃがむこともできないほど狭く、そこに穴が空いていてトイレをします。さらにそこには蛇口もあって、そこでシャワーをします。ひどく臭うなか、蛇口からの水を浴びます。もちろん暖かいお湯などでませんので、冬にはほとんどの囚人はお風呂に入りません。しかしわたしはシャワーを浴びてからでないと眠れない人なので、蛇口の前に行って5分ほど「Sung Hoon、君ならできる。」と何度も自分に言い聞かせてから、氷のように冷たい水をバケツに汲み、頭からかけます。するとあまりの冷たさに全身が震えはじめるので、すぐに体をさすらなければなりません。あまりに冷たくて痛いほどです。そして食べ物。わたしはビーガンなので、ご飯とのり以外にほとんど食べるものがありませんでした。キムチでさえも海鮮物が入っているので食べることができませんでした。

これらのことを思い出しながら、3か月どころか、もし1日でも早く出られるならどんなことでもしたいと思いました。3か月というとほぼ100日です。「自分はもう充分やってきた。ここにはほかにだれもアドベンチストはいないし、だれにも知られることはない。ここは特殊な場所なんだ。それに、もし自分が土曜日に働かなければだれが働くんだ?」そんな思いがこみ上げてきました。もう一つ大きなことは、わたしはその時ある女性と付き合っていて、彼女に毎週手紙を書いていました。「もしわたしが今罰せられて手紙を書けなくなったら、彼女はどう思うだろう?彼女はどうなってしまうだろう?」様々な疑問が浮かんできました。そしてわたしの両親。「ひと月にたった4回しか訪問できないこの状況はすでに彼らにとってとても辛いのに、もしもう訪問することができないと言われたらどうなってしまうのだろう?」わたしは混乱していました。どうすればいいかわかりませんでした。わたしは神様に祈りました。

2014年6月4日水曜日

刑務所でのわたしの証 3

わたしは、翌朝にはもっと良い日がやってくることを望みながらその夜眠りにつきましたが、それは間違いでした。日に日に事は悪化していきました。ある日、わたしが座って何かを読んでいると、わたしの隣にいた囚人が他の囚人と喧嘩しはじめました。怒りのあまりどうすればいいのか分からなくなった彼は、都合よく隣にいたわたしの顔をパンチすることに決めたようでした。彼が拳をあげてわたしの顔をパンチしようとしたその瞬間、神様が仲介してくださり看守がわたしの名前を呼んだのでした。看守はわたしの両親と弟が訪問に来ていると言いました。わたしはその時「自分の家族の前で泣いてはいけない」と心に決めていました。なぜなら家族にとって、わたしが刑務所にいることはすでに辛いことだったからです。しかしわたしは家族の前でぼろぼろに泣き崩れてしまいそうな気もしました。わたしは神様にお祈りしていました。「主よ、どうぞ彼らの前で泣かないように助けて下さい。わたしは彼らの人生をこれ以上つらいものにしたくありません。」と。
ところがわたしが面談室に入り、ガラス越しに両親と弟が訪問してきてくれたのを見た途端、わたしは泣き崩れてしまいました。わたしは5分間しかその部屋にいることが許されていませんでした。わたしの家族は2時間ほどかけてわたしに会いに来てくれていたのですが、その5分間わたしはひと言も話すことができませんでした。彼らが「どうしたのSung Hoon?」と言っていましたが、わたしはただ首を振って泣き続けていました。なぜだと思いますか?それは、自分のことを覚えて、大切に思っていてくれる誰かがいたからです。そして、自分のことを知って愛していてくれる誰かがいたからです。わたしのことを思って訪問してくれた人を見ただけで、わたしの心はちぎれそうでした。わたしはそのとき家族や友達の大切さを知りました。当たり前だと思ってしまうのは簡単なことですね。
どうしてわたしはこの証を伝えているのでしょうか?2つ目の法則を見てみましょう。「どうやったらどんな状況でも神様の掟に忠実であることができるのでしょう?」2つ目の法則は「苦難は、イエス様に従うと決意したときに与えられる賞である」ということです。テモテへの手紙第二3:12を開いてください。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」と書いてあります。どれだけの人が迫害を受けるのですか?「皆」です。ここには「ある人は迫害を受けます」とは書いていません。聖書は、一人の例外もなしにみんな迫害を受けると書いてあるのです。痛みと苦しみはクリスチャンの信仰生活のさだめです。わたしたちは痛みと苦しみを避けてクリスチャンであることはできないのです。わたしたちは、多くの人々が間違った動機でクリスチャンになる時代に生きています。しかし聖書はとても明確に、わたしたちが歩んでいる道は簡単な道ではないと伝えています。苦しみや痛みが必ず訪れます。試練がやってきます。
では、なぜ神様はクリスチャンが苦しみを経験することを許されるのでしょうか?苦難は神様の御計画の中で大切な役割を果たしています。苦難はわたしたちの信仰とイエス様に従う動機を確かめます。例えばすべてのことが上手くいっているとき、良い成績をとって良い仕事に就いて、かっこいい車に乗って、素敵な家族がいて、良い友達がいて、そんな時に神様をほめたたえ、クリスチャンでいて良かったと思うことは簡単です。しかし、もしある日突然起きて電話でこんなニュースを伝えられたらどうでしょう?「あなたのお兄さんが、(もしくは両親)が自動車事故で亡くなりました。」と。また健康診断で病院に行くとがんを発見され、もう短い間しか生きられないと突然医師に告げられたらどうでしょう?試練や苦難が立ち向かってくるとき、そのときにわたしたちの信仰は本当に試されるのです。どんな人でも物事が上手く運んでいるときは神様をほめたたえること、もしくはほめたたえるふりができるでしょう。しかし本当に問うべき事は「すべてが間違った方向へ向かっているように思えるとき、あなたはそれでも神様に従いたいと思いますか?そして神様を同じように愛せますか?」ということです。
各時代の希望224ページには「天が人類に与えることができるすべての贈り物の中でも、苦しみを通してのキリストとの交わりは最高の名誉である。」最高の名誉は何ですか?苦しみの中でのキリストとの交わりです。わたしたちにはたった一度のチャンスが今生きている人生によって与えられています。たった一度です。天使すらわたしたちに与えられているチャンスを持っていないのです。ほとんどの人が神様に反抗している中、そして罪の色に塗られている世界の中で、立ち上がって苦しみを受けてでも神様に忠実であること。それができるのはたった一度、この人生においてしかできないことです。天使でさえ、神様のために立ち上がるという特権を持っていないのです。しかしわたしたちはその特権を持っています。特に若い人たちに言います。わたしたちは選ぶことができます。神様は何も押し付けようとしません。しかしあなたはこの与えられた人生の中で、すべての状況において神様に忠実であることを選ぶことができるのです。そしてこの人生以外で、わたしたちは二度とチャンスが与えられないのです。この罪深い環境の中で神様に忠実であること、そしてイエス・キリストが苦しまれた同じような苦しみを経験することはわたしたちの特権であります。

刑務所でのわたしの証 2


今日皆さんにお伝えしたい1つ目の法則は、
「どうすれば、どんな状況にあっても固く立ち、神様の掟に忠実であり続けられるか」
ということです。ダニエル書1:8を見てみましょう。

「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」

皆さんダニエルの話はご存知ですね。聖書は、ダニエルがしなければならなかったことについて書いています。それは神様に忠実であるように決心するということでした。とても大切なことです。1つ目の法則は、わたしたちは苦難に出会う時、前もって決心しなければならないということです。毎朝ひざまずいて祈るとき、わたしたちはこの選択をしなければなりません。わたしは神様に忠実であることを選ぶだろうか。自分の強さによってではなくてイエス・キリストの力によって、前もって決心するのです。
ある人は「わたしは苦難や誘惑にあったときに決心する」と言います。しかしそれは間違った行動です。わたしの個人的な経験からも言えることですが、もし難しい状況に遭うまで待っていると、いざという時、自分はどうなってしまうのだろうと恐怖で頭がいっぱいになり、正しい選択ができないからです。毎日、毎朝、わたしたちは前もって決心しなくてはならないのです。「主よ、今日わたしに何が起こるか分かりませんが、あなたがどんなことをもたらされたとしても、わたしがあなたに忠実であり続けることができるように助けて下さい。」と前もって決心するのです。
自分の状況や環境に応じて選択をすべきだという理念がありますが、それも間違っています。クリスチャンは、状況が選択を左右すること許すべきではありません。コンパスを見たことがありますか?iPhoneにもコンパス機能がついていますね。コンパスはどこへ持って行ってもいつも同じ方向を指します。このコンパスをアフリカへ持って行っても、韓国へ持って行っても、アメリカへ持って行っても、同じ北を指しますよね。たとえコンパスを地面に埋めても、凍らしても、燃やしても燃え尽きるまで、いつも同じ北を指します。わたしたちはクリスチャンとしてこのコンパスのようであるべきだとわたしは思います。状況はわたしたちの選択を変えるべきではありません。わたしたちが違うグループの人やあるいは違う友達といたからといって、神様の掟に従うというわたしたちの決心を変えるべきですか?そうではありませんね。だれと一緒にいてもどこにいても、わたしたちは一つの方向、神様が示しておられる方向へ行くべきです。神様が示しておられる方向へ行くためには、わたしたちは前もって決心している必要があるのです。
              わたしの話に戻りますと、わたしはこの試練に立ち向かうずっと前に決心していました。もし軍がトレーニング以外の役割を与えてくれなければ、神様がわたしの心に置かれた確信に背くよりは、わたしは刑務所に行くことを決心していました。わたしはすでに答えを持っていたので、軍の武官の顔をまっすぐ見て「もしこれがわたしに与えられた唯一の選択ならば、わたしはクリスチャンとして、神様の掟に背くよりも刑務所の方を選びます。」と言いました。彼は「若者よ、君は間違った選択をしている。君には刑務所に入った犯罪者という記録がこれから一生付きまとうのだぞ。」しかしわたしは彼に伝えました。「でもわたしはすでに決心したのです。わたしは刑務所に行きます」と。
それから数か月後わたしは裁判所へ行かなければなりませんでした。短い裁判のあと、わたしは1年半の間刑務所で過ごすことが決まりました。その日初めて自分の手に手錠をつけられた感覚を今でも覚えています。それは重くて冷たいものでした。わたしは裁判所のすぐ隣の部屋へ連れて行かれました。そこには20人ほどの囚人がいました。その囚人たちとわたしは一緒にロープにつながれ、もうだれも逃げることができませんでした。番人がわたしたちを湿った地下の暗いトンネルに連れて行きました。わたしはそのトンネルを通っているとき番人がとても意地悪だったことを覚えています。裁判のあとその番人の態度は一変し、わたしたちに向かって怒鳴り散らし始めました。わたしたちは壁に向かって押しつけられ、ひどい扱いを受けました。わたしはこんな扱いを受けたことは今までの人生で一度もありませんでした。いつも優しく守ってくれるような、アドベンチストの人々に囲まれて生きてきたからです。このような扱いを受けているうちに、「自分はもう韓国の国民ではなく、囚人なんだ」と実感してきたのでした。これから1年半奴隷になるのだという実感です。
人間的に正直に話しますと、その時わたしは怖くなりました。心に恐れが迫ってきて、トンネルの向こうを見ることができませんでした。わたしは数々の経験、ミッショントリップや刑務所訪問すらしたことがありましたが、自分が囚人として刑務所に入り、そこに住んだことはありませんでした。なのでわたしには恐れがありました。どんなところなのだろう、何が起こるのだろうと、次々と疑問が浮かんできました。皆さんは怖いとき何をしますか?お祈りしますよね。わたしもその時お祈りしはじめました。すると、暗唱していた聖書の約束の数々を思い出しました。わたしがそうしながら心の中で祈っていると、イザヤ書43章のこの聖句が特に頭に浮かんできました。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず
炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」イザヤ書43:1-3

この聖書の約束を思い出しているうちに、恐れが消えました。そして完全な平和がわたしの心にありました。わたしは少しだけ興奮しました。神様がわたしにどんなことを備えておられるのか、経験するのを待つことができませんでした。
そんな喜びと興奮も束の間のことでした。刑務所ではもともと着ていた衣服はすべてはぎ取られ、囚人服を着せられます。わたしの囚人服は大きくて、ズボンは手で押さえていないと下がってしまうほどでした。靴はとても小さくて履くことができませんでした。自分の番号を持って写真を撮られたあと1時間ほどのオリエンテーションがあり、そのあと番人がきてこれから滞在する建物へ連れて行くためにわたしのところへやってきました。その建物に初めて入ったときのことを今でもよく覚えています。わたしは、韓国中で最も古くてひどい刑務所に入れられました。この刑務所は世界第二次世界大戦の時に日本人によって建てられたものでした。その刑務所は、わたしが想像できる限りの最悪な状況をはるかに超えて最悪でした。暗くて湿気た建物の中を歩いていると、わたしはそこに漂っている特有の臭いに吐き気がしました。両脇には鉄格子があり、その間からは人々が手を伸ばしていて、大声で叫び、暴言を吐き、喧嘩をしていました。
わたしは隅の方まで連れてこられ、分厚い鉄格子のドアが開けられ、自分が滞在すべき牢屋に入れられました。わたしがその牢屋の中を見た瞬間、全身の細胞一つ一つがそこに入ることを拒否しているのを感じました。この牢屋の中で1年間半も過ごすなんて考えられないと思いました。そこにはベッドやマットレスなどは何もなく、ただ床に人々が横たわっていて、とても狭い所でした。辛うじてわたしたち7人の囚人が横になれるスペースがあるかないかというほどの大きさでした。
その牢屋にわたしが到着した日、そこにいた同居人すべてが、それぞれ何らかの形でクリスチャンに対して苦い経験を持っていたことが分かりました。そのため、彼らはわたしがクリスチャンであると分かると、わたしに辛く当たり始め、わたしがすること一つ一つにけちをつけ、罵るようになりました。例えば、わたしが牢屋に入ってすぐ後、ある人が「床を掃け。」と言うのでわたしはできるかぎりきれいに掃きました。しかし、少しでも塵が残っているのを見つけるとわたしを罵り、ついでに神を罵倒し、というような状況でした。続いて「隅っこに座ってろ」と言われるので彼らの言う通り静かに座っていると、隣にいた囚人のパンチが突然飛んできて、危うくよけなければなりませんでした。その人はわたしを罵りながら、「そこは俺の場所だからどけ」と言ってきました。わたしは立ち上がり、牢屋の真ん中でどうすればいいか分からず立っていました。他の囚人が来て、「囚人服を脱いで壁にかけろ」というのでその通りにすると、また他の囚人がきて怒り散らし「何をやってるんだ」と壁にかかったわたしの囚人服を投げ飛ばし…と、そんなことが次々と起こりました。ある時は、わたしが牢屋の隅を掃除しようとしていると誰かがわたしの名前を呼んで罵っているのが聞こえたので、今度は自分は何をしたんだと思うと、その囚人は「お前の影が俺の顔にかかってるのがむかつく」と言ってきました。これらの話から、この囚人たちがどんな人たちだったか想像していただけるでしょう。
その日は金曜日で、日が沈み夜が訪れました。テレビなどがついていてとてもうるさい夜でした。わたしはどうにかして睡眠をとろうとしていました。ところが牢屋の電気は囚人たちがお互いに殺し合ったり、自殺しないかどうか見張るために24時間ずっとついていて、消すことができませんでした。わたしはほんの少しでも光や音がある中では眠れない人で、どうすればいいかわかりませんでした。もちろん牢屋にはなにもありません。部屋の隅にとても古い毛布のきれが一枚だけありました。どれほどの間そこにあったのでしょう。他の囚人が使っていいと言うので、わたしは臭くて汚かったその毛布を自分の顔にかけ、なんとか寝つこうとしていました。

そうして牢屋で横たわりながら、わたしはイエス・キリストの事を考えました。天国の豊かさ、心地よさ、栄光を離れたイエス様はどうだったのだろう。イエス様は宇宙の王だったのです。何千万もの天使に礼拝されていたのです。そんなイエス様にとって、この汚くて暗い、罪深い世界にきて十字架で死ぬということはどんなものだったんだろう?しかもただわたしのために?わたしの罪のために?そう考えたとき、わたしの目からは涙が流れてきました。そしてわたしは神様の愛を今までにないほど深く感じました。毛布の下で、わたしは神様に感謝しました。「神様、わたしをこの試練に遭うことを許してくださってありがとうございます。これは特権です。このような体験をしながらも、あなたの愛を周りの人にどうにか伝えることができるようにわたしを助けて下さい。わたしをあなたの御心を行う手段としてお使いください。」と祈りました。

刑務所でのわたしの証 1

これはSung Hoon Kangさんの証、My Time in Prison Personal Testimony を訳したものです。https://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/4277/my-time-in-prison-personal-testimony.html

こんにちは。今日はわたしの刑務所での経験を話したいと思います。お話に入る前に、「教育」という本からある文章を引用します。57ページです(日本語訳54ページ)。「世界で最も欠乏しているものは…」何だと思いますか?それは「人物である」。この世界が一番必要としているものは何か。それが質問です。お金?食べ物?それともイエス様でしょうか?確かにこの世界が必要としているのはイエス様です。しかしその必要を満たすためには、イエス様がどういうお方であるかを人々に示すことのできる人が必要なのです。この世界が最も求めているもの、この世界で最も欠けているものは、イエス様を生活の中で表すことのできる人なのです。それはあなたとわたしです。先ほどの文章の続きを読みます。「それは、売買されない人、」イエス様のご品性ですね。イエス様はお金や他の何かで売買されるような人ではありませんでした。「魂の奥底から真実で、正直な人、罪を罪とよぶのに恐れない人、磁石の針が南北を指示して変わらないように、良心が義務に忠実な人、天が落ちかかろうとも正しいことのために立つ人、―そういう人である。」わたしはこの証を通して、そういう人―天が落ちかかろうとも正しいことのために立つ人―になるための方法をお伝えします。どんな状況にいても、どんな人といても、どんな場所にいても、神様に従って立ち上がる人にはどうしたらなれるのでしょうか?どのようにしたら自分の人生を通してイエス・キリストを証できるでしょうか?今日はわたしの刑務所での経験から、これらの質問に答えていきます。最もつらい状況の中で、わたしが神様に忠実であるためにイエス様がどのようにわたしを助けてくれたか、その体験を分かち合っていきたいと思います。

それではもう一度お祈りしましょう。聖霊がわたしたちと一緒にいてくださるようにお招きしましょう。

「天のお父様、わたしたちに与えてくださったこの美しい日を感謝します。この美しいキャンパスでARME Bible Campをもつ機会を与えてくださり感謝します。こうして共に集い、あなたを礼拝し、聖書からあなたを学ぶことができる自由を感謝します。わたしたちの心を備えて、あなたがわたしたちに教えたいことを学ばせてください。わたしをあなたの十字架の陰に隠してください。イエス様が高められますように。あなたの力と愛とをわたしの証を通して表してください。イエス様の御名を通してお祈りします。アーメン」

わたしは韓国出身のソン・ホン・カンと言います。わたしはバージニア州のハートランドカレッジで聖書教師をしています。こうして証をする機会が与えられたことは、わたしにとって特権です。まずわたしが刑務所に入ることになった背景を説明しましょう。多くの方がご存じと思いますが、韓国と北朝鮮は難しい関係にあります。北朝鮮は共産主義国で韓国は共和国ですが、両国の戦争はまだ正式には終わっていません。だから北朝鮮がいつ韓国に攻撃してきてもおかしくない状況にわたしたちはいます。そのため韓国政府は、韓国生まれの全ての男子が2年間の軍事訓練に参加することを決まりとしています。これは任意ではなく義務なのです。

わたしは牧師の宣教とクリスチャンメディアの経営について、ハートランドカレッジというバージニア州にある小さなミッショナリーカレッジで勉強していました。そこで宣教者になるための訓練を受けている最中、わたしの頭の中には常にとある質問がありました。わたしは学校を終えたあと、自分の国に戻って軍事訓練と向き合わなければなりませんでした。「クリスチャンとしてわたしはどうすればいいのだろう?2年間かけて、人をどうやって殺すかを学ぶ訓練に参加するべきだろうか?戦争になれば、わたしは人を殺さなければならなくなるだろう。それはわたしにとってゆるせることだろうか?」これは正直、簡単な質問ではありませんでした。わたしは何年もこのことについて個人的に勉強し、祈り、ついにある確信が与えられました。それは武器を持たず、他の人の命を取らなくてもいいように頼むことです。軍事訓練に参加するということは、「わたしは戦争に参加し、人を撃つことに同意します。」と言っているのと同じです。戦争が起これば、訓練を受けた軍人は戦地に送られるからです。

2006年11月、わたしはバージニア州での勉強を終えて自分の国に帰りました。皆さんの中には「どうしてアメリカに残らなかったの?」と思っている方がいらっしゃるかもしれません。わたしがアメリカで勉強をするために学生ビザをもらう際、二人の保証人のサインが必要でした。同意する内容は、もしわたしが勉強を終えても国に帰ってこなかったら、50000ドルを政府に支払うこと。そしてわたしの代わりに二人の保証人が刑務所に行くということでした。わたしの保証人は、わたしのおじと祖父でした。わたしは自分の祖父が刑務所に入れられるのを見たくなかったので、韓国に帰らなければなりませんでした。帰国した翌日、わたしは父と共に軍のオフィスに行き、こう言いました。「わたしはセブンスデーアドベンチストです。わたしの信仰の良心と確信に基づいて、人を殺す訓練に参加することはできません。戦争においても、わたしは自分の命を救うために他の人の命をとることはできません。軍の中で、武器を持たなくてもいい隊に配置してくださいませんか?」すると武官はわたしを見て、こう言いました。「若者よ、君には2つの選択肢がある。この訓練に参加するか、刑務所に行くかだ。」わたしは刑務所に行きたくはなかったので、もう一度説明しました。「わたしは国民の義務から逃れようとしているのではありません。厳しくても、長くても、たとえ3年かかってもいいので、わたしの信仰に反しない方法はありませんか?どうかわたしを助けてください。コック、衛生兵、何でもいいので、何か代わりはありませんか?」しかし彼らは、「現在の法では、代わりになるものはない。若者よ、刑務所か訓練かどちらかを選びなさい」と言いました。わたしは心の中で短いお祈りをしました。わたしは、わたしがクリスチャンとして何をすべきか既に知っていました。