2014年6月4日水曜日

刑務所でのわたしの証 2


今日皆さんにお伝えしたい1つ目の法則は、
「どうすれば、どんな状況にあっても固く立ち、神様の掟に忠実であり続けられるか」
ということです。ダニエル書1:8を見てみましょう。

「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」

皆さんダニエルの話はご存知ですね。聖書は、ダニエルがしなければならなかったことについて書いています。それは神様に忠実であるように決心するということでした。とても大切なことです。1つ目の法則は、わたしたちは苦難に出会う時、前もって決心しなければならないということです。毎朝ひざまずいて祈るとき、わたしたちはこの選択をしなければなりません。わたしは神様に忠実であることを選ぶだろうか。自分の強さによってではなくてイエス・キリストの力によって、前もって決心するのです。
ある人は「わたしは苦難や誘惑にあったときに決心する」と言います。しかしそれは間違った行動です。わたしの個人的な経験からも言えることですが、もし難しい状況に遭うまで待っていると、いざという時、自分はどうなってしまうのだろうと恐怖で頭がいっぱいになり、正しい選択ができないからです。毎日、毎朝、わたしたちは前もって決心しなくてはならないのです。「主よ、今日わたしに何が起こるか分かりませんが、あなたがどんなことをもたらされたとしても、わたしがあなたに忠実であり続けることができるように助けて下さい。」と前もって決心するのです。
自分の状況や環境に応じて選択をすべきだという理念がありますが、それも間違っています。クリスチャンは、状況が選択を左右すること許すべきではありません。コンパスを見たことがありますか?iPhoneにもコンパス機能がついていますね。コンパスはどこへ持って行ってもいつも同じ方向を指します。このコンパスをアフリカへ持って行っても、韓国へ持って行っても、アメリカへ持って行っても、同じ北を指しますよね。たとえコンパスを地面に埋めても、凍らしても、燃やしても燃え尽きるまで、いつも同じ北を指します。わたしたちはクリスチャンとしてこのコンパスのようであるべきだとわたしは思います。状況はわたしたちの選択を変えるべきではありません。わたしたちが違うグループの人やあるいは違う友達といたからといって、神様の掟に従うというわたしたちの決心を変えるべきですか?そうではありませんね。だれと一緒にいてもどこにいても、わたしたちは一つの方向、神様が示しておられる方向へ行くべきです。神様が示しておられる方向へ行くためには、わたしたちは前もって決心している必要があるのです。
              わたしの話に戻りますと、わたしはこの試練に立ち向かうずっと前に決心していました。もし軍がトレーニング以外の役割を与えてくれなければ、神様がわたしの心に置かれた確信に背くよりは、わたしは刑務所に行くことを決心していました。わたしはすでに答えを持っていたので、軍の武官の顔をまっすぐ見て「もしこれがわたしに与えられた唯一の選択ならば、わたしはクリスチャンとして、神様の掟に背くよりも刑務所の方を選びます。」と言いました。彼は「若者よ、君は間違った選択をしている。君には刑務所に入った犯罪者という記録がこれから一生付きまとうのだぞ。」しかしわたしは彼に伝えました。「でもわたしはすでに決心したのです。わたしは刑務所に行きます」と。
それから数か月後わたしは裁判所へ行かなければなりませんでした。短い裁判のあと、わたしは1年半の間刑務所で過ごすことが決まりました。その日初めて自分の手に手錠をつけられた感覚を今でも覚えています。それは重くて冷たいものでした。わたしは裁判所のすぐ隣の部屋へ連れて行かれました。そこには20人ほどの囚人がいました。その囚人たちとわたしは一緒にロープにつながれ、もうだれも逃げることができませんでした。番人がわたしたちを湿った地下の暗いトンネルに連れて行きました。わたしはそのトンネルを通っているとき番人がとても意地悪だったことを覚えています。裁判のあとその番人の態度は一変し、わたしたちに向かって怒鳴り散らし始めました。わたしたちは壁に向かって押しつけられ、ひどい扱いを受けました。わたしはこんな扱いを受けたことは今までの人生で一度もありませんでした。いつも優しく守ってくれるような、アドベンチストの人々に囲まれて生きてきたからです。このような扱いを受けているうちに、「自分はもう韓国の国民ではなく、囚人なんだ」と実感してきたのでした。これから1年半奴隷になるのだという実感です。
人間的に正直に話しますと、その時わたしは怖くなりました。心に恐れが迫ってきて、トンネルの向こうを見ることができませんでした。わたしは数々の経験、ミッショントリップや刑務所訪問すらしたことがありましたが、自分が囚人として刑務所に入り、そこに住んだことはありませんでした。なのでわたしには恐れがありました。どんなところなのだろう、何が起こるのだろうと、次々と疑問が浮かんできました。皆さんは怖いとき何をしますか?お祈りしますよね。わたしもその時お祈りしはじめました。すると、暗唱していた聖書の約束の数々を思い出しました。わたしがそうしながら心の中で祈っていると、イザヤ書43章のこの聖句が特に頭に浮かんできました。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず
炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」イザヤ書43:1-3

この聖書の約束を思い出しているうちに、恐れが消えました。そして完全な平和がわたしの心にありました。わたしは少しだけ興奮しました。神様がわたしにどんなことを備えておられるのか、経験するのを待つことができませんでした。
そんな喜びと興奮も束の間のことでした。刑務所ではもともと着ていた衣服はすべてはぎ取られ、囚人服を着せられます。わたしの囚人服は大きくて、ズボンは手で押さえていないと下がってしまうほどでした。靴はとても小さくて履くことができませんでした。自分の番号を持って写真を撮られたあと1時間ほどのオリエンテーションがあり、そのあと番人がきてこれから滞在する建物へ連れて行くためにわたしのところへやってきました。その建物に初めて入ったときのことを今でもよく覚えています。わたしは、韓国中で最も古くてひどい刑務所に入れられました。この刑務所は世界第二次世界大戦の時に日本人によって建てられたものでした。その刑務所は、わたしが想像できる限りの最悪な状況をはるかに超えて最悪でした。暗くて湿気た建物の中を歩いていると、わたしはそこに漂っている特有の臭いに吐き気がしました。両脇には鉄格子があり、その間からは人々が手を伸ばしていて、大声で叫び、暴言を吐き、喧嘩をしていました。
わたしは隅の方まで連れてこられ、分厚い鉄格子のドアが開けられ、自分が滞在すべき牢屋に入れられました。わたしがその牢屋の中を見た瞬間、全身の細胞一つ一つがそこに入ることを拒否しているのを感じました。この牢屋の中で1年間半も過ごすなんて考えられないと思いました。そこにはベッドやマットレスなどは何もなく、ただ床に人々が横たわっていて、とても狭い所でした。辛うじてわたしたち7人の囚人が横になれるスペースがあるかないかというほどの大きさでした。
その牢屋にわたしが到着した日、そこにいた同居人すべてが、それぞれ何らかの形でクリスチャンに対して苦い経験を持っていたことが分かりました。そのため、彼らはわたしがクリスチャンであると分かると、わたしに辛く当たり始め、わたしがすること一つ一つにけちをつけ、罵るようになりました。例えば、わたしが牢屋に入ってすぐ後、ある人が「床を掃け。」と言うのでわたしはできるかぎりきれいに掃きました。しかし、少しでも塵が残っているのを見つけるとわたしを罵り、ついでに神を罵倒し、というような状況でした。続いて「隅っこに座ってろ」と言われるので彼らの言う通り静かに座っていると、隣にいた囚人のパンチが突然飛んできて、危うくよけなければなりませんでした。その人はわたしを罵りながら、「そこは俺の場所だからどけ」と言ってきました。わたしは立ち上がり、牢屋の真ん中でどうすればいいか分からず立っていました。他の囚人が来て、「囚人服を脱いで壁にかけろ」というのでその通りにすると、また他の囚人がきて怒り散らし「何をやってるんだ」と壁にかかったわたしの囚人服を投げ飛ばし…と、そんなことが次々と起こりました。ある時は、わたしが牢屋の隅を掃除しようとしていると誰かがわたしの名前を呼んで罵っているのが聞こえたので、今度は自分は何をしたんだと思うと、その囚人は「お前の影が俺の顔にかかってるのがむかつく」と言ってきました。これらの話から、この囚人たちがどんな人たちだったか想像していただけるでしょう。
その日は金曜日で、日が沈み夜が訪れました。テレビなどがついていてとてもうるさい夜でした。わたしはどうにかして睡眠をとろうとしていました。ところが牢屋の電気は囚人たちがお互いに殺し合ったり、自殺しないかどうか見張るために24時間ずっとついていて、消すことができませんでした。わたしはほんの少しでも光や音がある中では眠れない人で、どうすればいいかわかりませんでした。もちろん牢屋にはなにもありません。部屋の隅にとても古い毛布のきれが一枚だけありました。どれほどの間そこにあったのでしょう。他の囚人が使っていいと言うので、わたしは臭くて汚かったその毛布を自分の顔にかけ、なんとか寝つこうとしていました。

そうして牢屋で横たわりながら、わたしはイエス・キリストの事を考えました。天国の豊かさ、心地よさ、栄光を離れたイエス様はどうだったのだろう。イエス様は宇宙の王だったのです。何千万もの天使に礼拝されていたのです。そんなイエス様にとって、この汚くて暗い、罪深い世界にきて十字架で死ぬということはどんなものだったんだろう?しかもただわたしのために?わたしの罪のために?そう考えたとき、わたしの目からは涙が流れてきました。そしてわたしは神様の愛を今までにないほど深く感じました。毛布の下で、わたしは神様に感謝しました。「神様、わたしをこの試練に遭うことを許してくださってありがとうございます。これは特権です。このような体験をしながらも、あなたの愛を周りの人にどうにか伝えることができるようにわたしを助けて下さい。わたしをあなたの御心を行う手段としてお使いください。」と祈りました。

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