わたしは、翌朝にはもっと良い日がやってくることを望みながらその夜眠りにつきましたが、それは間違いでした。日に日に事は悪化していきました。ある日、わたしが座って何かを読んでいると、わたしの隣にいた囚人が他の囚人と喧嘩しはじめました。怒りのあまりどうすればいいのか分からなくなった彼は、都合よく隣にいたわたしの顔をパンチすることに決めたようでした。彼が拳をあげてわたしの顔をパンチしようとしたその瞬間、神様が仲介してくださり看守がわたしの名前を呼んだのでした。看守はわたしの両親と弟が訪問に来ていると言いました。わたしはその時「自分の家族の前で泣いてはいけない」と心に決めていました。なぜなら家族にとって、わたしが刑務所にいることはすでに辛いことだったからです。しかしわたしは家族の前でぼろぼろに泣き崩れてしまいそうな気もしました。わたしは神様にお祈りしていました。「主よ、どうぞ彼らの前で泣かないように助けて下さい。わたしは彼らの人生をこれ以上つらいものにしたくありません。」と。
ところがわたしが面談室に入り、ガラス越しに両親と弟が訪問してきてくれたのを見た途端、わたしは泣き崩れてしまいました。わたしは5分間しかその部屋にいることが許されていませんでした。わたしの家族は2時間ほどかけてわたしに会いに来てくれていたのですが、その5分間わたしはひと言も話すことができませんでした。彼らが「どうしたのSung Hoon?」と言っていましたが、わたしはただ首を振って泣き続けていました。なぜだと思いますか?それは、自分のことを覚えて、大切に思っていてくれる誰かがいたからです。そして、自分のことを知って愛していてくれる誰かがいたからです。わたしのことを思って訪問してくれた人を見ただけで、わたしの心はちぎれそうでした。わたしはそのとき家族や友達の大切さを知りました。当たり前だと思ってしまうのは簡単なことですね。
どうしてわたしはこの証を伝えているのでしょうか?2つ目の法則を見てみましょう。「どうやったらどんな状況でも神様の掟に忠実であることができるのでしょう?」2つ目の法則は「苦難は、イエス様に従うと決意したときに与えられる賞である」ということです。テモテへの手紙第二3:12を開いてください。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」と書いてあります。どれだけの人が迫害を受けるのですか?「皆」です。ここには「ある人は迫害を受けます」とは書いていません。聖書は、一人の例外もなしにみんな迫害を受けると書いてあるのです。痛みと苦しみはクリスチャンの信仰生活のさだめです。わたしたちは痛みと苦しみを避けてクリスチャンであることはできないのです。わたしたちは、多くの人々が間違った動機でクリスチャンになる時代に生きています。しかし聖書はとても明確に、わたしたちが歩んでいる道は簡単な道ではないと伝えています。苦しみや痛みが必ず訪れます。試練がやってきます。
では、なぜ神様はクリスチャンが苦しみを経験することを許されるのでしょうか?苦難は神様の御計画の中で大切な役割を果たしています。苦難はわたしたちの信仰とイエス様に従う動機を確かめます。例えばすべてのことが上手くいっているとき、良い成績をとって良い仕事に就いて、かっこいい車に乗って、素敵な家族がいて、良い友達がいて、そんな時に神様をほめたたえ、クリスチャンでいて良かったと思うことは簡単です。しかし、もしある日突然起きて電話でこんなニュースを伝えられたらどうでしょう?「あなたのお兄さんが、(もしくは両親)が自動車事故で亡くなりました。」と。また健康診断で病院に行くとがんを発見され、もう短い間しか生きられないと突然医師に告げられたらどうでしょう?試練や苦難が立ち向かってくるとき、そのときにわたしたちの信仰は本当に試されるのです。どんな人でも物事が上手く運んでいるときは神様をほめたたえること、もしくはほめたたえるふりができるでしょう。しかし本当に問うべき事は「すべてが間違った方向へ向かっているように思えるとき、あなたはそれでも神様に従いたいと思いますか?そして神様を同じように愛せますか?」ということです。
各時代の希望224ページには「天が人類に与えることができるすべての贈り物の中でも、苦しみを通してのキリストとの交わりは最高の名誉である。」最高の名誉は何ですか?苦しみの中でのキリストとの交わりです。わたしたちにはたった一度のチャンスが今生きている人生によって与えられています。たった一度です。天使すらわたしたちに与えられているチャンスを持っていないのです。ほとんどの人が神様に反抗している中、そして罪の色に塗られている世界の中で、立ち上がって苦しみを受けてでも神様に忠実であること。それができるのはたった一度、この人生においてしかできないことです。天使でさえ、神様のために立ち上がるという特権を持っていないのです。しかしわたしたちはその特権を持っています。特に若い人たちに言います。わたしたちは選ぶことができます。神様は何も押し付けようとしません。しかしあなたはこの与えられた人生の中で、すべての状況において神様に忠実であることを選ぶことができるのです。そしてこの人生以外で、わたしたちは二度とチャンスが与えられないのです。この罪深い環境の中で神様に忠実であること、そしてイエス・キリストが苦しまれた同じような苦しみを経験することはわたしたちの特権であります。
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