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2014年3月1日土曜日

呼吸

呼吸、していますか?僕たちの周りには空気があって、それを吸って吐くことによって僕たちは生きています。

ところである人が、「空気はあると信じているよ」と言ったとしましょう。ところが呼吸をしなかったならば、その人はどうなってしまうでしょうか?お亡くなりになりますよね。

あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 ヤコブの手紙2:19

「神様はいると信じているよ」と言って何もしないのは、「空気はあると信じているよ」と言って呼吸をしないのも同然です。どちらも辿り着くところは死です。ではどうすればいいのでしょうか?

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」  マタイによる福音書22:37-40

神様と隣人を全力で愛する。それが僕たちの呼吸なのです。呼吸、していますか?


2014年1月26日日曜日

見いだしうるときに、近くにいますうちに

「神様か…。いつかはちゃんと向き合いたい。今はできないけれど、きっとまたお祈りして、聖書を読んで、教会に行けたらいいな。」そう思うことはないでしょか?

僕は中学校の時に聞いたこのお話が、いまだに忘れられません。

青年の父はお酒好きでした。青年はアドベンチストになった後、父と聖書研究を始めました。その中で、お酒は断つべきであるということを父は学びました。そこで父は、「今晩でお酒は最後にする」と言い、外に飲みに行きました。父は帰ってきませんでした。酔っぱらって歩いているところを車にはねられて、亡くなられたのでした。

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
イザヤ書55:6

僕たちは一秒先の未来すら知りません。それなのに、どうして「いつかは…」と言えるでしょう。いま僕があなたに言えることは、いまがその時だということです。

神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち返るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち返るならば
豊かに赦してくださる。
イザヤ書55:7

結局僕たちは、主を尋ね求め、呼び求め、立ち返ることしかできないのです。その時に、主は「豊かに赦してくださ」います。いつか僕たちがましな人間になったからではなく、主が「憐れんでくださ」るからです。さぁ、主に立ち返りましょう。

2013年11月3日日曜日

「いつやるか?今でしょ」

「今日は無理。明日にしよう。」

そう言って宿題や勉強を後回しにした経験は、誰にでもあるのではないでしょうか?僕もしょっちゅうそんな感じです。そして翌日、後悔するのです。「ほんの少しだけでも昨日のうちにやっておけばよかったなぁ…」と、悲嘆にくれるのです。

かの予備校講師はこう仰いました。
「いつやるか?今でしょ」
そうです。今やるしかないのです。後でいくら頑張ったところで、今から頑張ったものには敵わないのです。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
コヘレトの言葉12:1

「今は大学で一杯いっぱいだから、就職したら教会に戻ろう。」
「今は忙しいから、いつか暇がある時に聖書を読もう。」
「今は人付き合いで酒を飲まないといけないけど、いずれはやめよう。」

果たして、就職したら一杯いっぱいではなくなるのでしょか?いつか暇がある時なんて来るのでしょうか?いずれ人付き合いはなくなるのでしょうか?

神様を後回しにしてはいけません。今日の自分がしていないことを、明日の自分がする保証なんてどこにも無いからです。神様が必要なのは、来るかも知れぬ未来のあなたではなく、今のあなたです。今こそ、あなたが神様に心を留めるときなのです。

「いつやるか?今でしょ」



2013年9月26日木曜日

心を打ち明ける

あなたはどの様な時に友だちと話しますか?

嬉しい時、悲しい時、普通の時、はたまた何も無い時でも、友達とは話すのではないでしょうか?

「祈りとは、友だちに語るように、心を神に打ち明けることであります」(キリストへの道93)。

大変な時、「神様助けて!」と祈って、実際に神様が助けてくれたら、その後祈らなくなることがあります。悲しい時は祈っても、嬉しい時はあまり祈らず、まして何もない時は祈ることがないという経験はないでしょうか?

祈るということは、僕たちが友だちにするように、神様に純粋に語らうことなのです。何も特別なことが無くても、神様に心を開いて話すことが祈りなのです。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 ヨハネの黙示録3:20

神様は今、僕たちの心の戸をノックしています。僕たちと本当の友だちになりたいからです。しかし、心を開くか否かは僕たちが決めることです。

今、戸を開き、いつくしみ深き友なるイエス様と語ってみたらいかがですか?


2013年7月6日土曜日

輝き出よ

僕も西野君と同じ場所で文書伝道をしており、その中で経験したことを書きます。

あの時ぼくは、坊主でいかつく、刺青だらけのごつい上半身に何も着ていないおじさんに会いました。その人に、「この本はああでこうで…」と説明すると、「No, No.」といって相手にしてくれません。聞けば、彼はクリスチャンで、しかもお金もあるそうなのですが、「興味がないから」と一点張りです。僕もかなりしつこく食い下がったのですが、もう駄目だと思い結局その場を去りました。その周辺の家を全てまわり、次の場所へと移動するために車に乗り込むと、さっきのおじさんがこっちへ来いと手招きしているのが見えました。「何だろう?」と思いながら走り寄って、「どうしたのですか?」と尋ねると、彼は、「主にNoと言ってしまったような気がした。」と言いました。それから僕にお金を渡し、「キリストへの道」を手に取って家に戻って行きました。

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」コリントの信徒への手紙 二 4:6-7

土の器に過ぎない僕を通して、神様は光り輝いてくださいました。それを見たおじさんは、僕に対してではなく、神様に対してNoと言ってしまったのだと悟ったのです。

神様が僕たちの内におられる時、人々はそれを見ます。この世に属する人々にはない光を見るのです。今、あなたの内にその光は宿っていますか?

品末拓真

2013年5月25日土曜日

世の光


近頃、高校時代の友達に会う機会が何度かありました。彼らから見ると、僕=神学科生=真面目なクリスチャンです。そこで僕は自分の行いの影響力について考えさせられました。

僕たちは毎日、人々に囲まれて生きています。そして、僕たち(クリスチャン一人ひとり)の言動一つ一つが、人々の持つ「クリスチャン」というイメージを形成していくのです。

イエス様はこう呼びかけておられます。

「…あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」マタイによる福音書5:16

罪深く、弱い僕たちですけれども、世の光であられるイエス様(ヨハネ8:12)が僕たちの内から滲み出て、僕たちを世の光としてくださいますよう祈り求めます。

写真:彼らは相も変わらず男前です。


2013年4月23日火曜日

結婚

結婚…いつの日かしたいものです。
あなたは相手のことをよく知らないのに結婚できますか?僕には無理です。やはり相手のことをよく知ってから結婚したいです。結婚しなければ見えない部分もたくさんあるのでしょうが、だからと言って知らない人と生活を共にしたいとは思いません。ちゃんと時間を共有して、お互いの素を分かり合っていなければ、結婚などそうそう上手くいかないのではないでしょうか。
聖書ではイエス様を夫、教会を妻に例えることがあります(エフェソ5:23)。わたしたちは、夫であるイエス様をどれほど知っていますか?それ以前に、イエス様に興味を持っていますか?自分の夫を知ろうと時間をとっていますか?よく考えてみてください。知らない方と永遠を共に過ごしたいなんてどうして言えましょう。僕たちは何よりもまず、イエス様がどういう方なのか知り、関係を深めるべきではないでしょうか。
イエス様はもうすぐわたしたち花嫁を迎えに来ます。永遠に共に暮らすためです。あなたは本当にその準備ができていますか?
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタイによる福音書25:13

写真:見てください。この幸せな顔を。二人が結婚しなければ僕も妹もこの世にはいません。


(4/22にhttps://www.facebook.com/adventistyouthjpに投稿されたものです。)

2013年3月29日金曜日

神様は何を喜ばれるのか

アドベンチストは何かと決まり事が多いと思われることがあります。なぜ僕たちは安息日を守ったり、たばこやお酒をしなかったり、菜食を勧めたりするのでしょうか?僕たちがそれらをすることによって、果たして神様は喜ばれるのでしょうか?

「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽す献げ物ではない。」 ホセア書6:6

確かに神様は僕たちに安息日を守り、また自分や他人の体を害するなとお命じになりました。しかし、神様が本当にお喜びになるのは神様を知ることと愛なので す。それは安息日を破ったり、酒たばこをしたりしてもいいと言っているのではありません。僕たちが神様を知らず愛をもたないのならば、正しいことをしても 神様は喜ばれないという事です。

安息日を守ることがただの習慣になってはいませんか?教会員の目が気になるからという理由で酒たばこを避けていませんか?むしろ神様と隣人を愛し、神様を知れば知るほど、自然と安息日を守る意味も分かれば、酒たばこも止めたくなるでしょう。

あなたは神様(愛)を知ることにどれほどの時間を費やしていますか?



 執筆者:品末拓真

(これは3/25にhttp://www.facebook.com/adventistyouthjpに掲載されたものです。)

2013年3月6日水曜日

不安に押しつぶされそうなとき



先日、今学期残りの予定を全てカレンダーに書き出していました。宿題や行事等が主でしたが、書き終えるだけで、これから先のことに思いやられ疲れてしまいました。「やらなければいけない事は沢山あるし、決めなければいけない事も沢山ある。どうすればいいのだろう?」そう考えるだけで、「全くやっていける気がしない」と気が参ってしまいました。しかしそれと同時に、「僕は本当に神様に信頼しているだろうか?」という疑問が生じました。自分が何をすれば上手くいくのかとずっと考え、しかしどれも上手くいかなさそうに思え落ち込んでいたからです。自分では手に負えないものを自分でどうにかしようとしても、結局はどうにもなりません。その手に負えないものを思うたび不安にさいなまれるだけです。フィリピの信徒への手紙4章6,7節にはこう書かれています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」僕は自分の全てを神様に捧げたつもりでしたが、まだ自分で自分の人生をコントロールしようとしていたのだと気づきました。そして、神様に全ての不安を打ち明けたとき、「神様なら余裕で何とかしてくれるだろう」と確かに心に平和が訪れました。神様はその独り子を賜ったほどに僕を、あなたを愛されています(ヨハネによる福音書3章16節)。この愛の神様に助けを求めるとき、神様は必ず道を開いてくださいます。(コリントの信徒への手紙一10章13節)。自分の力で解決しようなどと思わず、信仰をもって神様と共に歩んでいきたいです。
この地球の創造者が僕の悩みに耳を傾けてくれる。感謝。


「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネによる福音書3章16節

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
コリントの信徒への手紙一10章13節

著者:品末拓真

2013年2月26日火曜日



「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」 ローマの信徒への手紙5:8

一人の青年がいました。皆が彼を好青年だと思っていました。しかし、彼は自分よりも弱いと思う奴を軽蔑し、人目のつかない所でいたぶって優越感に浸りました。自分よりも強いと思う奴には媚びておいて、どのようにして陥れようか画策しました。彼は衝動的に繰り返し姦淫しました。彼は自分の願望を妨げる人がいれば、友達でさえ殺しました。けれども周囲は彼を善人だと思っていました。なぜなら彼は、それらを上手に闇に葬り去ったからです。疑われそうになっても、口車に乗せて丸め込みました。

しかし、彼の悪事が明るみに出る時が来ました。いつまでも隠せるわけがありません。彼は死刑に定められました。当然の報いです。彼の父は非常に悲しみましたが、反論の余地がありませんでした。そこで父は嘆願しました。「私を殺していいから、息子にもう一度チャンスをください!」

その理解し難い程の愛から、要求はのまれました。そして彼の代わりに父は罪を着せられ、殺されました。彼は自由になり、選択肢が与えられました。今までしてきたことを再び明るみに出るまで続けるか、父の愛に生きるかです。

彼は僕で、父は神様です。神様は、どうしようもなく罪深い僕のために命を捨てました。僕を愛していたからです。神様が僕を愛しているのは、僕が神様のために良いことをするからではありません。神様が愛だからです。このような愛が他にあるでしょうか?僕は神様の愛に生きています。神様の愛に激しく心を打たれたからです。神様はあなたを死ぬほど愛しています。あなたはそれにどう答えますか?


執筆者:品末拓真

(これは2/25にhttp://www.facebook.com/adventistyouthjpに掲載されたものです。)

2013年2月3日日曜日

コミュニケーション


コミュニケーションって本当に重要だと思います。誰かと関係を築き、それを深めるためにコミュニケーションは必須です。それは家族、友達、恋人関係からも明らかです。コミュニケーションが足らなくなってくると徐々に関係に溝ができてきます。だから忙しかろうとなんだろうと、そういう人々と時間をとって話すことは大事にしたいですよね。


この間コミュニティー・サービス・デー(近隣の人々に奉仕しましょうの日)という行事がありました。様々な奉仕活動があったのですが、僕はテネシー川三峡を保護している団体のお手伝いに行ってきました。そして、そこの職員のおじさんと二人で川沿いのゴミを拾いながら歩きました。そのおじさんは自然が大好き且つ物知りで、木の種類や、以前ここは畑だったとか、この小屋の釘は全てお手製であるとか、リスの狩り方と調理方法等々教えてくれました。そんな中、「お前は狩りに行ったことがあるか?」と聞かれたので、「ないです。興味がないもので…」と答えると、おじさんはこのようなことを言いました。「私にもお前と同い年の息子がいて、一緒に狩りに行くことがある。一緒に釣りに行ったり、自然を散策したりもする。でもそれらのことをする一番の目的は、息子に近況報告をし、息子の近況報告を聞き、息子に悩みを打ち明け、息子の悩みに耳を傾け、私の気持ちを息子と共有し、息子の気持ちを私も共有する時間を持つためなのだよ。」


僕たちは神様とどれだけ気持ちを共有しているでしょうか。神様とじっくり会話をするためにどれだけの時間をとっているでしょうか。僕たちの従うイエス様も、神様と会話する時間を大切にしておられました。


「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」 マルコによる福音書1:35


今日時間を決めて、神様と話してみましょう。自分を着飾って特別なことを言う必要はありません。どうでもいいと思うようなことも、全てありのまま話しましょう。そして神様の声に耳を傾けてみましょう。自分の気持ちを神様と共有し、神様の気持ちを自分も共有する。それでもっともっと神様と仲良くなりたいです。


写真:矢印の先の頭は僕の頭。写真を撮っている人がたぶんそのおじさん。

2013年1月4日金曜日

未来が見えず、辛くても


2012年を振り返ってみると、将来についてたくさん考えさせられたなと思います。多くの人に、「大学を卒業してどうするの?」と聞かれ、年を重ねるたびに自分の未来について悩む機会が増えたように感じます。

現在ぼくは大学で神学を勉強しており、上手くいけば2015年に卒業できます。しかし、明日何が起こるかもわからないのに、そんな遠い未来のことなんて全く想像できません。「牧師になるんだよね?」とよく言われますが、今の自分では「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」としか言いようがありません。

将来について考えるとき、僕の中で不安が大きく膨らみます。何も見えないからです。僕がいくら悩んだところで、未来は見えません。箴言20:22に「人の一歩一歩を定めるのは主である。 人は自らの道について何を理解していようか。」とあるとおりです。結局僕には将来何が起こるかわからないのです。

しかし、そのような僕に希望を与えてくれる言葉があります。イエス様は言われました。「然り、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

僕が将来について一つだけ確信を持って言えることは、イエス様が来られるという事です。しかも「すぐに」です。そしてその後、イエス様と歩み続けてきた人は「目の涙をことごとくぬぐい取って」もらい、死も悲しみも嘆きも労苦もなくなるのです(黙示録21:4)。なんと希望に満ちた約束でしょう。僕の目指す将来はそこにあります。だから、それまでの将来は見えなくても、もう大丈夫です。

この世には苦しいことがあります(ヨハネ16:33)。将来が分からなくて本当に辛いときもあります。しかし、自分に頼らずイエス様に頼り、常にイエス様を覚えて人生を歩むとき、イエス様は僕たちの人生の道筋をまっすぐにしてくださいます(箴言3:5と6)。「主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。」(詩編25:4)と日々祈りながら、イエス様の来られる日を待ち望み続けたいです。

「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 
ヨハネの黙示録22:20と21

写真:僕のかけがえのない友達。祈っています。絶対に天国で会おう。


執筆者:品末拓真

(これは12/31にhttp://www.facebook.com/adventistyouthjpに掲載されたものです。)

お祈りは聞かれるの?


「ずっと祈っているのに聞かれない」と思う時、とても辛いですよね。

昨年僕は日本で車の教習所に通っていました。試験場受験だったため、1回で合格するのは難しいと言われました。僕は仮免許の試験に1回、2回…5回落ちました。教習を始めてから5回目までに3か月も経っており(合宿なら本免許を6回もらえている)、僕はそのとき神様にブチ切れました。

「合格させてください。」と毎晩祈ってきたのに、神様が仮免許一つくれなかったからです。僕はその頃学校に行っておらず、教習と試験が僕の生活の全部でした。全てを否定されたようで、文字通り泣くほど辛かったです。そして僕は神様にとことん文句をぶちまけました。

次の日、何ら特別な事は起きませんでしたが、聖霊の導きにより信仰の弱さを痛感し、僕は心から悔い改めました。しばらくして6回目の試験を受け、落ちました。悲しかったですが、以前ほど気になりませんでした。もし免許をもらえなかったとしても、それが神様の望みならいいやと思えたからです。


7回目の試験日の朝、何となく聖書を開くと「神に従う人は七度倒れても起き上がる」(箴言24:16)という聖句が目につきました。そして僕は見事にその日の試験(7回目)に落ち、8回目で合格したのでした。

僕は今でも、なぜ仮免許の試験に7回も落ちたのかわかりません。しかしこの経験を通して、神様に人生を委ねる、ということが少しわかりました。神様は祈りを聞かれるお方です(詩編65:3)が、それは僕たちの願いをそのまま叶えてくれるという事ではありません。神様は僕たちの祈りに必ず耳を傾け、そして最善の道を備えてくれます(詩編37:23)。

それは自分の思っていたものとは違うかもしれませんが、神様の計画よりも良いものを誰が思いつくでしょうか?自分の思う通り(それがどんなによく見えても)にならなくても、「神様と歩いているから大丈夫」と主に完全に信頼して生きたいです。

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
箴言3:5と6


写真:開始から約半年でゲット。心なしかやつれて見えるが、大変喜んでいる。

執筆者:品末拓真


(これは12/3にhttp://www.facebook.com/adventistyouthjpに掲載されたものです。)

ゴールのある人生


競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
コリントの信徒への手紙1・9:25
 
最近全く運動をしていなかったので、先日久々に走ってみました。最初は気持ちよく走っていたのですが、途中から段々ときつくなり、「ここで止まって休もうか」と考え始めました。しかし、前に進まなければ絶対に寮に帰れないので、寮に着くことだけを考えながら前進し続けました。

やっと寮に着いた時、「はぁー」と最高に爽快なため息をつき、「この瞬間のために走ってきたんだ!」と思いました。

僕たちの人生と走ることにはたくさんの共通点があります。中でも大きいのは、ゴールではないでしょうか。ゴールがなく、それでも走り続けるのは何と辛いことでしょう。同様にゴールのない、目的のない人生はとても辛いです。ある人は、いい大学、就職、結婚、生活の安定等々、自分でゴールを定めます。


しかし、人にはいずれ死が訪れるのに、どんなにお金を稼ごうと、良い家に住んでいようと、最後の時にそれが何になるというのでしょう。朽ちる冠のために生きる人生は何と空しく、朽ちない冠のために生きる人生は何と報いが大きいでしょうか。

僕たちには明確なゴールが与えられており、それは何とも比べものにならないほど素晴らしいものです。僕たちはそれに向かってひたすら足を前に出し続けるのです。周りのものに目をとらわれそうになったり、先が見えなくて不安になったりする時もあります。それは、イエス・キリストから目を逸らす時です。

どんな時でもイエスを見つめ、ゴールに向かって前進するとき、僕たちは本当に意味のある人生を歩むことができるのです。

執筆者:品末拓真

(これは11/5にhttp://www.facebook.com/adventistyouthjpに掲載されたものです。)


2012年12月17日月曜日

コツコツと



 期末テスト週になるとため息の数が増えるのは、きっと僕だけじゃないはず。休みが間近に迫っているにもかかわらず、とても鬱々とした気分になります。そして、「一週間前から勉強しておけばよかったな」とか「学期始めから毎日コツコツと勉強しておけば…」なんてことを思います。
 そんな中、やはり多くのものは日々の積み重ねによるものだと気づかされました。勉強、スポーツ、音楽、仕事、聖書通読、人間関係など、どれもいきなり上手いことやるなんて中々できません。例えゲームにしたって、突然レベル100に上げることなど普通はできません。
 では、あなたと神様との関係はどうでしょうか?急に親密な関係になれると思いますか?例えば、あなたに新しく恋人ができたとします。初めは相手にぞっこん惚れていて、全てが良く見えます。でも時間が経つにつれて、少しずつ相手の嫌なところが見えてきたりします。それでも本当の愛と忍耐のあるカップルはそれを乗り越えて、さらに深い関係を築いていくことができるでしょう。
 僕の場合、神様と時間を過ごすほど、神様の嫌なところではなく自分の嫌なところが見えてきました。偉大なる神様の前に立つと、自らの弱い部分が浮き彫りにされるのです。それは痛く辛いものです。しかしそんな自分のために命を捨て、この不完全な僕を完全にしてくれる神様を再認識するとき、もっと神様と仲良くなりたいと思います。
 「もう少しの間自分の好きなことをやって、再臨が近くなったら神様のもとに戻ってくればいいや」と思う人がいるかもしれません。でも、いざという時に神様との関係を築ける保証はあるのでしょうか?2000年前から世の終わりは近いと言われています(*マタイ3:2)。今日は、その頃よりどれだけ近いでしょう。しかしいつ世の終わりが来るか僕たちにはわかりません(*マタイ24:36)。それは抜き打ちテストのようなものです。「神様は意地悪だ」と思いますか?そんなことはありません。もしもテストの日時を知っていたら、ギリギリまで何もせず、最後の短時間で苦しみながら何とかしようとするかもしれません。しかし、正確な日時を知らず、でも近いうちに来ると知っていれば、いつ来ても良いように今から準備を始めないでしょうか?
 神様はあなたと今、関係を築きたいと思っています(*黙示録3:20)。あなたのために命を捨てたほど、愛しておられるからです(*ヨハネ3:16)。今日から毎日、少しずつでも神様と過ごす時間をとってみてはいかがでしょうか。

「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」
ペトロの手紙 一 1:13

*マタイによる福音書3:2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
*マタイによる福音書24:36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である。」
*ヨハネの黙示録3:20「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう。」
*マタイによる福音書3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

著者:品末 拓真
編集者:森 春香

2012年12月9日日曜日

何のために生きよう

皆さんは東北大震災を覚えていますか?僕はその時横浜の家にいたのですが、今までに感じたことのない大きな揺れにとても怖くなったのを覚えています。

この震災で多くの人が職を失い、家を失い、家族を失い、自らの命を失いました。僕は今でも心が痛みますが、それと同時に人間のもろさとこの世の空しさについて考えさせられます。

僕たちはいつ死ぬかもわからないのに、死などきっと遠い将来のことだと考えます。津波で簡単に取り去られるようなものを手に入れるために必死で努力します。そしてこのような出来事を体験した時、本当に大切なものはお金では買えないのだと気づかされます。

わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
コリントの信徒への手紙 二 4:17,18

あなたは今、何のために生きていますか?何を一番にしていますか?それはあっけなく消え去るものでしょうか?それとも永遠に続くものでしょうか?

僕たちにはそれを選択する権利が与えられています。僕は見えないものを選びます。あなたはどちらを選びますか?


執筆者:品末拓真


(これは10/8にhttp://www.facebook.com/adventistyouthjp掲載されたものです。)