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2014年5月23日金曜日

5.22(金)新しいいましめ?


「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
ヨハネ1334

なぜイエス様は、互いに愛し合うことを「新しいいましめ」と言ったのでしょうか?
「愛する」ということが、神さまにとって新しいものだったからですか?
それとも、それが実はわたしたちにとって、全く新しいものだからですか?

今のあなたにとって、「愛する」とはどういうことですか?
それは、イエス様の言われた「愛する」ということと、どのように違うでしょうか?

「弟子たちにとって、このいましめは新しいものであった。彼らは、キリストが彼らを愛されたように互いに愛していなかったからである。新しい考えと動機が彼らを支配されなければならないということ、新しい原則を彼らが実行しなければならないということ、主の生涯と死を通して彼らが愛について新しい観念を受け入れるということを、キリストはお知りになった。

 互いに愛し合いなさいという命令は、主の自己犠牲の光に照らしてみる時、新しい意味を持っていた。恵みの全体の働きは、愛と克己と自己犠牲的努力のたえまない1つの奉仕である。キリストが地上に滞在しておられた一刻一刻に神の愛はおさえることのできない流れとなってキリストから流れていた。キリストのみたまを吹き込まれる者はみなキリストが愛されたように愛するのである。キリストを動かした原則がお互いの間における彼らの態度の動機となるのである。

 この愛は彼らが弟子であることの証拠である。『互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう』とイエスは言われた(ヨハネ1335)。人が強制や利己心によってではなく、愛によってむすばれる時、彼らは人間の力にまさる力が働いていることを示すのである。この一致がある時、それは神のみかたちが人のうちに回復され、新しい生命の原則がうえつけられた証拠である。それはまた超自然的な悪の力に抵抗するのに神の性質には力があるということ、神の恵みは生れつきの心に固有の利己心を征服するということを示している。」

「神に対する最高の愛、互いの無我の愛、これこそ、天父がさずけて下さる最上の贈り物である。この愛は衝動ではなく、きよい原則、永遠の力である。献身していない心は愛を起こすことも、生じることもできない。イエスに支配されている心にだけ愛は見いだされる。『わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである』。神の恵みによって新たにされた心にとって、愛は行動の主原則である。愛は性質を修正し、衝動を支配し、感情を制御し、愛情を高める。心に抱かれたこの愛は、人生を麗しくし、清澄にする感化を周囲に与える。」

~E. G. ホワイト 希望への光 p. 1033, 1566~

執筆:山地悟
2014/05/23

2014年5月22日木曜日

5.22(木)この人、大丈夫?


ある日、お父さんが何の説明もなく
刑務所上がりの殺人犯を家に連れてきて、こう言ったとしたらどうでしょう。

「大丈夫、この人はもう更生したから。これからは家族として一緒に暮らそう。」

いやいや、ちょっと待ってよ。
と、なりませんか?

いくらお父さんが「この人は大丈夫」と言ったって、
実際に一緒に暮らすとなったら、少なくとも、そこまでいう根拠をはっきり示してほしいですよね。

イエス様がこの地上に再び来られる前に、「裁きの時」がやってくると聖書はいいます(ダニ710;黙147)。すべての人がそれぞれの行いに応じて裁かれます(マタ1627;ヤコ212)。しかも、その裁きをなさるのは、他ならぬイエス様御自身なのです(使1731;Ⅱコリ510)。

あれ?僕たちはイエス様への信仰によって救われるのに、なぜ裁かれる必要があるんだ?
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」というイエス様の言葉はどうなるんだ(ヨハ1247)?

実は、それこそがポイントなんです。
イエス様のなされる裁きは、僕たちを裁くための裁きではなくて、僕たちを救うための裁きなのです。

どういうことでしょうか?

ある日、イエス様が何の説明もなく
ついさっきまで堕落した世界に住む罪人であったあなたを、突然天に連れてきてこう言ったとしたらどうでしょう。

「大丈夫、この人はもう悔い改めたから。これからは家族として一緒に暮らそう。」

いやいや、ちょっと待ってください。
と、天使たちは思わないでしょうか。

イエス様は今、わたしたちを天に連れ帰るための最後の働きをしています。
天使たちと父なる神さまの前で、信じる人たちのことを「自分の仲間である」と言い表してくださっているのです(マタ1032;ルカ128)。

確かに、この人は罪を犯した。しかし、この人は心から悔い改め、わたしを信じ、受け入れたのだ。だから、わたしもこの人を自分の子供として受け入れた。

この人は罪深かったが、わたしの正しさを与えた(ロマ32324)。
この人は弱かったが、わたしの力を与えた(Ⅱコリ129)。
この人は汚れていたが、わたしの清さを与えた(黙714)。
この人は愛の掟を守れなかったが、わたしの心を与えたのだ(エレ313334)。

自分の十字架の血を指し示しながら、全宇宙を前にして、その裁きの座において、イエス様はご自分を信じる人々のために宣言してくださるのです(コロ120)。

「だから、この人は永遠の命をうけるのにふさわしい人だ。わたしが、この人を救い出したのだ!」(ゼカ314

裁きの時はすでに来ています。あなたは今も、「おびただしい証人の群れに囲まれて」いるのです(ヘブ121)。

あなたは今日、イエス様への信仰を言い表していますか(ヤコ217)。
あなたがイエス様の救いを受け入れたこと、イエス様が来られるのを待ち望んでいることを、自分の言葉と行動によって言い表しているでしょうか(1ヨハ33)。

イエス様は今のあなたを見て、「この人はわたしの救いを受け入れた!」と、全宇宙の前で言い表すことができるでしょうか?

執筆:山地悟
2014/05/22

2014年5月21日水曜日

5.21(水)自分なら絶対にしないのに。


「タレントの○○が覚醒剤所持で逮捕」
「父親が小学生女児を暴行して殺害」

こんな悲しいニュースの数々を見て、あなたは何を思いますか?

あるいはもっと身近に、
自分勝手な事ばかり言ってくる母親。
突然引きこもりになってしまった友人。

そんな彼らをみても、同じようなことを思うかもしれません。

どうしてそんなことができるんだろう...
自分だったら絶対にそんなことしないのに。

本当に、絶対にしないのでしょうか?
その人と全く同じ人生を歩み、全く同じ状況に置かれたとして、自分が同じあやまちを犯すはずがないとどうして言えるでしょうか?

「人を偏り見るのはよくない。だれでも一片のパンのために罪を犯しうる。」(箴28:21

このことばは、罪を正当化しようとするわけでも、あなたを責めようとするわけでもありません。
ただわたしたちは、あやまちを犯してしまう人を見るたびに思い出さねばならないことがあるのです。

自分もその人と変わらない、いつ同じあやまちを犯すか分からない、弱い人間なのだということ。

そして、自分がその人の立場にいたらほしいと望むであろうすべてのことを、あなたもその人にしてあげなければいけないのです。

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
互いに重荷を負いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラ6:1-2

悪と不正に満ちあふれるわたしたちの姿を見て、
罪に汚れたことのないイエス様はどう思うことでしょう。

どうしてこんなことできるんだろう...
自分なら絶対にしないのに。

と、もしイエス様がわたしたちと同じような態度をもっておられたとしたら。
救われる人はただの一人もいなかったでしょう。

イエス様が、過ちの中にあるわたしたちと忍耐強く向き合い、憐れんでくださらなかったなら、罪と弱さの中にある私たちがしてほしいと望むすべてのことをしてくださらなかったら、
わたしたちには、何の望みもなかったのです。

しかし、キリストは忍耐強く、憐れみ深く、あなたのことを愛してくださいます。どんな過ちを犯そうと、決してあなたを見捨てることはないのです(イザ54:6-10; 55:7)。

その同じ忍耐強さ、憐れみ深さ、そして愛をすべての人に示すことによって、わたしたちは「キリストの律法を全うすることになるのです。」

2014年5月20日火曜日

5.20(火)黄金律


「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタ7:12

これこそ、人を愛するということだ。とイエス様は言われました。

このことばを行うためには、一つの大前提があるのに気付きますか?

それは「自分がこの人の立場だったら、何をしてほしいか」ということを知らなければいけないということです。

ただ自分が自分の立場でしてほしいことを、かれこれかまわず人に対してすることは、単なる自己満足、またはありがた迷惑で終わってしまうことが少なくありません。

その人のことを本当の意味で知ろうとすることなくただうわべだけで同情するのは、思いがけず、その人にとって残酷な行為となってしまうこともあるのです。

人を愛するためには、自分の思いや楽しみを犠牲にしてまでも、その人と一つになろうとする覚悟が必要なのです。

その上で初めて、「人にしてもらいたいと思うことを何でも、あなたも人にする」ことができるのです。

イエス様がわたしたちに示してくださった愛は、そういう愛でした。

わたしたちの神様は、快適な天の王座に座ってわたしたちの苦しみを見下ろしながら、ただ「がんばってねー」と声をかけているような方ではありません。

「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
彼は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」
「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍」ばれました。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることができるのです。」(フィリ2:7; ヘブ4:14; 12:2; 2:18

「キリストの律法」に従う人は、「何とかして何人かでも救うため」、「すべての人に対してすべてのものに」なろうとする人です(Ⅰコリ921-22)。

人の幸せのために、自分の思いや楽しみ、あるいは命そのものを犠牲にしても、その人と一つになろうとする覚悟のある人です。