「タレントの○○が覚醒剤所持で逮捕」
「父親が小学生女児を暴行して殺害」
こんな悲しいニュースの数々を見て、あなたは何を思いますか?
あるいはもっと身近に、
自分勝手な事ばかり言ってくる母親。
突然引きこもりになってしまった友人。
そんな彼らをみても、同じようなことを思うかもしれません。
どうしてそんなことができるんだろう...
自分だったら絶対にそんなことしないのに。
本当に、絶対にしないのでしょうか?
その人と全く同じ人生を歩み、全く同じ状況に置かれたとして、自分が同じあやまちを犯すはずがないとどうして言えるでしょうか?
「人を偏り見るのはよくない。だれでも一片のパンのために罪を犯しうる。」(箴28:21)
このことばは、罪を正当化しようとするわけでも、あなたを責めようとするわけでもありません。
ただわたしたちは、あやまちを犯してしまう人を見るたびに思い出さねばならないことがあるのです。
自分もその人と変わらない、いつ同じあやまちを犯すか分からない、弱い人間なのだということ。
そして、自分がその人の立場にいたらほしいと望むであろうすべてのことを、あなたもその人にしてあげなければいけないのです。
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
互いに重荷を負いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラ6:1-2)
悪と不正に満ちあふれるわたしたちの姿を見て、
罪に汚れたことのないイエス様はどう思うことでしょう。
どうしてこんなことできるんだろう...
自分なら絶対にしないのに。
と、もしイエス様がわたしたちと同じような態度をもっておられたとしたら。
救われる人はただの一人もいなかったでしょう。
イエス様が、過ちの中にあるわたしたちと忍耐強く向き合い、憐れんでくださらなかったなら、罪と弱さの中にある私たちがしてほしいと望むすべてのことをしてくださらなかったら、
わたしたちには、何の望みもなかったのです。
しかし、キリストは忍耐強く、憐れみ深く、あなたのことを愛してくださいます。どんな過ちを犯そうと、決してあなたを見捨てることはないのです(イザ54:6-10; 55:7)。
その同じ忍耐強さ、憐れみ深さ、そして愛をすべての人に示すことによって、わたしたちは「キリストの律法を全うすることになるのです。」
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