2014年5月9日金曜日

5.9(金)聞き慣れたはなし。


「イエス様は、あなたの罪のために十字架で死なれたんです。」

この言葉を見て、あなたは今どんなことを思いましたか?「知ってるよ、もう何回も聞いてるよ」「僕には関係のない話だよ」
あるいは特に何も思いませんでしたか?

十字架。この出来事の意味を、あなたは本当に理解していますか。

イエス様が十字架で死なれる必要は、全くありませんでした。

殺人犯が死刑判決を受けて、裁判官が「いや、わたしが代わりに死にます」と申し出るのと同じです。ふつうに考えたらばかげた話です。

それでも、イエス様が死ぬことを選ばれたのはなぜだと思いますか?

もしイエス様が死ぬことを選ばれなかったとしたら、わたしたちはどうなっていたのでしょうか?逆に、イエス様が死なれたことで、わたしたちはどうなることができるのでしょうか?

「人間の堕落は、全天を悲しみで満たした。神に造られた世界は、罪ののろいでそこなわれ、不幸と死に運命づけられたものの住むところとなった。律法を犯した者には、のがれの道はないように思われた。天使は、賛美の歌をやめた。天の宮廷には、罪が引き起こした破滅を嘆く声が満ちた。

天の栄光に満ちた司令官である神のみ子は、堕落した人類を憐れまれた。彼の心は、失われた世界のわざわいをごらんになって、限りない憐れみの情を感じられた。しかし、神の愛は、すでに、人間を贖う計画をたてていた。破られた神の律法は、罪人の生命を要求した。人間に代わって、その要求に応じられるのは、全宇宙にただ1人しかいなかった。神の律法は、神ご自身と同様に神性であるから、罪の贖いをすることができるのは、神と等しい方だけであった。罪を犯した人間を律法ののろいから贖い、再び、天と調和させることができるものは、キリストのほかになかった。キリストは、罪のとがと恥とをその身に負われるのであった。罪は天父とみ子とを離れさせるほど、聖い神にとっていまわしいものであった。キリストは、堕落した人類を救うために悲惨のどん底におりてこられるのであった。

…人間は罪を犯して堕落したために、自分の力では、清く恵み深いご性質の神と調和することができなくなった。しかし、キリストは、律法の罪の宣告から人間を贖ったあとで、上からの力を人間に与えて、人間の努力とそれを結合させることがおできになるのであった。こうして神に対する悔い改めとキリストを信じる信仰によって、アダムの堕落した子らは、もう一度『神の子』となることができるのであった(1ヨハ3:2)。

…キリストが贖罪の計画を示されたとき、天使たちは喜ぶことができなかった。というのは、人間の救いのために、彼らの愛する司令官が言葉に表せない苦痛をなめなければいけないことを知ったからである。キリストが、天の純潔と平和、歓喜と栄光、そして、永遠の命を去って地に下り、堕落した人々と接し、悲しみと恥と死を経験しなけらばならないことを語られたとき、天使たちは、悲しみと驚きをもって彼の言葉に耳を傾けた。キリストは、罪人の仲保者として、罪の罰をお受けになるのであった。それにもかかわらず、彼を神の子として受け入れる者はわずかであった。」

~E. G. ホワイト 希望への光 pp. 33-34~

「もう何回も聞いてるから分かってるよ。」
「僕には関係のない話だよ。」

本当にそうですか?本当に、あなたはこの出来事のもつ意味を理解していますか?

十字架は、僕たちの無感覚な頭脳と心になんとかして訴えかけようとする、宇宙の王である神さまからの驚くべき愛のメッセージです。

執筆:山地悟
2014/05/09

0 件のコメント:

コメントを投稿