「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタ7:12)
これこそ、人を愛するということだ。とイエス様は言われました。
このことばを行うためには、一つの大前提があるのに気付きますか?
それは「自分がこの人の立場だったら、何をしてほしいか」ということを知らなければいけないということです。
ただ自分が自分の立場でしてほしいことを、かれこれかまわず人に対してすることは、単なる自己満足、またはありがた迷惑で終わってしまうことが少なくありません。
その人のことを本当の意味で知ろうとすることなくただうわべだけで同情するのは、思いがけず、その人にとって残酷な行為となってしまうこともあるのです。
人を愛するためには、自分の思いや楽しみを犠牲にしてまでも、その人と一つになろうとする覚悟が必要なのです。
その上で初めて、「人にしてもらいたいと思うことを何でも、あなたも人にする」ことができるのです。
イエス様がわたしたちに示してくださった愛は、そういう愛でした。
わたしたちの神様は、快適な天の王座に座ってわたしたちの苦しみを見下ろしながら、ただ「がんばってねー」と声をかけているような方ではありません。
「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
彼は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」
「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍」ばれました。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることができるのです。」(フィリ2:7; ヘブ4:14; 12:2;
2:18)
「キリストの律法」に従う人は、「何とかして何人かでも救うため」、「すべての人に対してすべてのものに」なろうとする人です(Ⅰコリ9:21-22)。
人の幸せのために、自分の思いや楽しみ、あるいは命そのものを犠牲にしても、その人と一つになろうとする覚悟のある人です。
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