ある日、お父さんが何の説明もなく
刑務所上がりの殺人犯を家に連れてきて、こう言ったとしたらどうでしょう。
「大丈夫、この人はもう更生したから。これからは家族として一緒に暮らそう。」
いやいや、ちょっと待ってよ。
と、なりませんか?
いくらお父さんが「この人は大丈夫」と言ったって、
実際に一緒に暮らすとなったら、少なくとも、そこまでいう根拠をはっきり示してほしいですよね。
イエス様がこの地上に再び来られる前に、「裁きの時」がやってくると聖書はいいます(ダニ7:10;黙14:7)。すべての人がそれぞれの行いに応じて裁かれます(マタ16:27;ヤコ2:12)。しかも、その裁きをなさるのは、他ならぬイエス様御自身なのです(使17:31;Ⅱコリ5:10)。
あれ?僕たちはイエス様への信仰によって救われるのに、なぜ裁かれる必要があるんだ?
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」というイエス様の言葉はどうなるんだ(ヨハ12:47)?
実は、それこそがポイントなんです。
イエス様のなされる裁きは、僕たちを裁くための裁きではなくて、僕たちを救うための裁きなのです。
どういうことでしょうか?
ある日、イエス様が何の説明もなく
ついさっきまで堕落した世界に住む罪人であったあなたを、突然天に連れてきてこう言ったとしたらどうでしょう。
「大丈夫、この人はもう悔い改めたから。これからは家族として一緒に暮らそう。」
いやいや、ちょっと待ってください。
と、天使たちは思わないでしょうか。
イエス様は今、わたしたちを天に連れ帰るための最後の働きをしています。
天使たちと父なる神さまの前で、信じる人たちのことを「自分の仲間である」と言い表してくださっているのです(マタ10:32;ルカ12:8)。
確かに、この人は罪を犯した。しかし、この人は心から悔い改め、わたしを信じ、受け入れたのだ。だから、わたしもこの人を自分の子供として受け入れた。
この人は罪深かったが、わたしの正しさを与えた(ロマ3:23−24)。
この人は弱かったが、わたしの力を与えた(Ⅱコリ12:9)。
この人は汚れていたが、わたしの清さを与えた(黙7:14)。
この人は愛の掟を守れなかったが、わたしの心を与えたのだ(エレ31:33−34)。
自分の十字架の血を指し示しながら、全宇宙を前にして、その裁きの座において、イエス様はご自分を信じる人々のために宣言してくださるのです(コロ1:20)。
「だから、この人は永遠の命をうけるのにふさわしい人だ。わたしが、この人を救い出したのだ!」(ゼカ3:1−4)
裁きの時はすでに来ています。あなたは今も、「おびただしい証人の群れに囲まれて」いるのです(ヘブ12:1)。
あなたは今日、イエス様への信仰を言い表していますか(ヤコ2:17)。
あなたがイエス様の救いを受け入れたこと、イエス様が来られるのを待ち望んでいることを、自分の言葉と行動によって言い表しているでしょうか(1ヨハ3:3)。
イエス様は今のあなたを見て、「この人はわたしの救いを受け入れた!」と、全宇宙の前で言い表すことができるでしょうか?
執筆:山地悟
2014/05/22
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