2014年5月22日木曜日

5.22(木)この人、大丈夫?


ある日、お父さんが何の説明もなく
刑務所上がりの殺人犯を家に連れてきて、こう言ったとしたらどうでしょう。

「大丈夫、この人はもう更生したから。これからは家族として一緒に暮らそう。」

いやいや、ちょっと待ってよ。
と、なりませんか?

いくらお父さんが「この人は大丈夫」と言ったって、
実際に一緒に暮らすとなったら、少なくとも、そこまでいう根拠をはっきり示してほしいですよね。

イエス様がこの地上に再び来られる前に、「裁きの時」がやってくると聖書はいいます(ダニ710;黙147)。すべての人がそれぞれの行いに応じて裁かれます(マタ1627;ヤコ212)。しかも、その裁きをなさるのは、他ならぬイエス様御自身なのです(使1731;Ⅱコリ510)。

あれ?僕たちはイエス様への信仰によって救われるのに、なぜ裁かれる必要があるんだ?
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」というイエス様の言葉はどうなるんだ(ヨハ1247)?

実は、それこそがポイントなんです。
イエス様のなされる裁きは、僕たちを裁くための裁きではなくて、僕たちを救うための裁きなのです。

どういうことでしょうか?

ある日、イエス様が何の説明もなく
ついさっきまで堕落した世界に住む罪人であったあなたを、突然天に連れてきてこう言ったとしたらどうでしょう。

「大丈夫、この人はもう悔い改めたから。これからは家族として一緒に暮らそう。」

いやいや、ちょっと待ってください。
と、天使たちは思わないでしょうか。

イエス様は今、わたしたちを天に連れ帰るための最後の働きをしています。
天使たちと父なる神さまの前で、信じる人たちのことを「自分の仲間である」と言い表してくださっているのです(マタ1032;ルカ128)。

確かに、この人は罪を犯した。しかし、この人は心から悔い改め、わたしを信じ、受け入れたのだ。だから、わたしもこの人を自分の子供として受け入れた。

この人は罪深かったが、わたしの正しさを与えた(ロマ32324)。
この人は弱かったが、わたしの力を与えた(Ⅱコリ129)。
この人は汚れていたが、わたしの清さを与えた(黙714)。
この人は愛の掟を守れなかったが、わたしの心を与えたのだ(エレ313334)。

自分の十字架の血を指し示しながら、全宇宙を前にして、その裁きの座において、イエス様はご自分を信じる人々のために宣言してくださるのです(コロ120)。

「だから、この人は永遠の命をうけるのにふさわしい人だ。わたしが、この人を救い出したのだ!」(ゼカ314

裁きの時はすでに来ています。あなたは今も、「おびただしい証人の群れに囲まれて」いるのです(ヘブ121)。

あなたは今日、イエス様への信仰を言い表していますか(ヤコ217)。
あなたがイエス様の救いを受け入れたこと、イエス様が来られるのを待ち望んでいることを、自分の言葉と行動によって言い表しているでしょうか(1ヨハ33)。

イエス様は今のあなたを見て、「この人はわたしの救いを受け入れた!」と、全宇宙の前で言い表すことができるでしょうか?

執筆:山地悟
2014/05/22

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