僕は今カリフォルニアでYouth Rushという青年のための文書伝道のプログラムに参加しています。たくさんの人々にイェス様についての本を紹介し、共に祈り、神様の愛を伝える事は、僕を精神的にも信仰的にも成長させています。今回は、今までの4週間で一番印象に残っている経験をお話したいと思います。
その時も僕はいつものように扉を叩いていました。扉を叩きながら僕は、「神様、どうか自分を用いてください。」と祈りました。すると、悲しい顔をした50代後半くらいの女性が家から出てきました。僕が本を紹介しようとすると、彼女は静かにこう言いました。「昨日主人が亡くなったから、あなたを助けることはできないわ。」突然のことで、僕は何と声をかけてあげればいいのかわかりませんでした。でも気づいたら、僕は無意識の内にこう言っていました。「あなたのためにお祈りしてもいいですか?」そのとき僕は心のなかで「あれ、今なんて言った?」と自分に問いかけたのを覚えています。彼女は驚いた表情でしたが、「お願いします。」と言いました。
彼女の右手を握ってお祈りした後、彼女は僕にこう言いました。「素晴らしいお祈りをありがとう。主人がいなくなってとても寂しかったけど、あなたがお祈りしてくれたおかげで、私にはまだイエス様がいるということが分かったわ。ところでそれは何の本?見せてくれる?」僕は彼女に"Peace above the Storm"という本を差し出しました。その本を見た瞬間、彼女は家の中から20ドル持ってきました。本は一冊10ドルなので、僕は"Lessons of Love"という本も彼女に渡しました。彼女は本を抱えながら、とても嬉しそうにしていました。そして「来てくれて本当にありがとう。感謝しています。」という言葉を残し、家の中に戻っていきました。
大切な人を失って落ち込んでいた人が、たったの2分で幸せそうに微笑むなんて無理だと思っていました。主人を失った女性を慰めたのは自分ではありません。イェス様が自分を通してあの女性を慰め、勇気づけ、そして天国という希望を与えたのです。この経験から、僕はこの聖句を掲げます。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピの信徒への手紙2:13。
神様はこんな自分を用いられるだろうかと、疑問に思う人もいるかもしれません。僕もそうでした。でも、神様は僕達一人一人を色々な方法で用いたいと望んでおられます。全力を尽して神様の愛、救いの希望を人々に伝える時、神様は御心のままに僕たちを用いてくださいます。一人でも多くの人が神様に用いられるようお祈りしています。
西野貴基
2013年7月5日金曜日
2013年5月12日日曜日
卒業
先週の日曜日、サザンアドベンチスト大学の卒業式に出席しました。たくさんの仲のいい友達の晴れ姿を見ていたら、嬉しさと寂さが混ざってとても不思議な気分になりました。そして、もう二度と会えない友達もいるのかと思うと正直悲しくなりました。そんな事を考えながらなんとなく聖書を開いてみたら、この聖句に目がとまったので皆さんに紹介したいと思います。
「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」ローマの信徒への手紙10:13
私たちは人生のどこかで必ず仲間との別れを経験します。明日再会できるかもしれないし、もしかしたら一生会えないかもしれません。でもひとつだけ、私たちが知っている事があります。それは、イエス様がわたしたちの救い主であると信じ、イエス様を唯一の希望として呼びもとめるならば、天国で仲間とも必ず再会できるということです。まだ卒業式での別れの寂しさは少し残っていますが、仲間と共にイエス様を呼び求め続けたいです。そしていつの日かこの地球での人生を卒業して、誰とも別れることのない天国へ行くのを楽しみにしています。
「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」ローマの信徒への手紙10:13
私たちは人生のどこかで必ず仲間との別れを経験します。明日再会できるかもしれないし、もしかしたら一生会えないかもしれません。でもひとつだけ、私たちが知っている事があります。それは、イエス様がわたしたちの救い主であると信じ、イエス様を唯一の希望として呼びもとめるならば、天国で仲間とも必ず再会できるということです。まだ卒業式での別れの寂しさは少し残っていますが、仲間と共にイエス様を呼び求め続けたいです。そしていつの日かこの地球での人生を卒業して、誰とも別れることのない天国へ行くのを楽しみにしています。
(左から2番目と3番目の友達が卒業しました。また近いうち、もしくは天国で会えるのを楽しみにしています。)
西野貴基
2013年2月27日水曜日
ミニコンサート:アウトライン
この前ミニコンサートの動画をあげましたが、そのアウトラインを載せたいと思います。
1.
Life’s Too
Short
皆さん人生楽しんでいますか?
平均寿命 日本人 男性 79. 3歳
女性 85. 9歳
アメリカ人 男性 75. 9歳
女性 80. 5歳
よく考えてみたら人生短いものです。
でも聖書の中にはこんな事が書かれています。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで永遠の命を得るためである。」ヨハネ 3:16
ただ信じるだけです。私達は神様の独り子、イェス様を心から信じることによって死んでからよみがえり、神様、イェス様が住んでおられる天国に行って、そこで永遠に生きる事ができるのです。
2.
Lady Bird
アメリカに初めて来たとき、僕は英語が上手く喋れず、友達との会話がスムーズに出来なくて落ち込んでいた時期がありました。相手が何を言っているのか分からないこと、英語発音が悪くて相手にちゃんと自分の気持ちを伝えることが出来ないことばかりでした。でも、うまく会話が出来ない自分に友達は優しく接してくれました。その温かい優しさに僕は励まされ、感動していました。なんでみんな言葉があまり通じない自分に優しくしてくれるのだろう?と考えた時、僕は彼らの中にある共通点を見つけました。それは「みんな神様を信じている」ということでした。ヨハネによる福音書14:21でイェス様はこのように書かれています。「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」この聖句に書かれているように、イェス様を信じる人は、彼に愛され、さらにイェス様がするように彼の愛を他の人に伝える事ができます。今考えてみるとイェス様は僕と仲良くしてくれていた友達の優しさを通して「大丈夫、英語はこれからだよ。」と励ましてくれていたのだなと思います。
3.
Good Dog
僕は小さい頃、近所に「サブちゃん」というビーグル?の犬がいました。僕は毎日幼稚園から帰ってくると彼と一緒に遊んで、楽しい時間を過ごしていました。どんなに意地悪をしてもそんな事すぐに忘れてしっぽを振りながら近寄ってくるサブちゃんがとても大好きでした。また、年が同じだった事もあって彼は僕の親友でした。でも大きくなるにつれて、彼の家に行く事も少なくなり、さらに中学校は寮の学校だったのでサブちゃんと遊ぶことはなくなってしまいました。中学校3年の何かの休みに僕はサブちゃんに2年振りに会うことになりました。もう忘れているだろうと不安に思っていたのですが、サブちゃんは「待っていたよ!」と言っているかのように力一杯しっぽを振って近寄ってきました。それを見て「あぁ、この子は自分としばらく遊んでいなかったら悲しかったなんて全然思っていない。ずっと僕がくるのを待っていたのだ、なのに自分は…」と嬉しい反面申し訳ない気持ちでした。別れ際、僕はサブちゃんを見ながら「次、寮から帰って来たら遊ぼう」と心に決めました。でもそれは僕が見たサブちゃん最後の姿でした。彼は僕が寮にいる間に息を引き取ったのです。その知らせを聞いた時から僕はサブちゃんのように純粋な心を持つように努力しています。マタイ15:27の中には、このような事が書かれています。「しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」どんなに小さな恵みでも心から感謝できるようなクリスチャンに僕はなりたいです。
4.
Devotion
留学してからしばらくすると、アメリカで出会った信仰的な友達の影響もあり、僕はもっと神様の事、聖書の事を知りたいという気持ちが大きくなっていました。大学にいる日本人で聖書研究や、大学で神学のクラスを受けたりして聖書の知識がどんどん増えていきました。知識が増えていく一方で僕は自分の中にある悪い所がどんどん見えてきて、そんな自分を変えたい、完璧なクリスチャンになりたいとも思うようになってきました。でも そう上手くいくことなんて全くありませんでした。なにか罪を犯してしまう度に、「あぁ自分が情けない、こんな自分を神様はいいクリスチャンだと思っているはずはない。」と思うようになってきました。そんなときに僕はこのような聖句を見つました。マラキ 3:7−8の中にはこうあります。「まことに、主であるわたしは変わる事がない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。あなたたちは先祖の時代から私の掟を離れ、それを守らなかった。立ち返れ、わたしに。そうすればわたしもあなたたちに立ち帰ると主は言われる。」わたしたち人間はローマの信徒への手紙7章に書いてあるように罪に売り渡されているので、どんなに努力を尽くしても罪を犯してしまいます。でもそのとき、神様に心から許しを求めれば神様は必ず赦してくださいます。神様が私達を見捨てることが無いからです。このとき僕は「神様は弱い部分を含めて、こんな弱い自分を受け入れてくださっている。」という事に気かされ、感動しました。この経験を通して僕は「Devotion」という曲を書きました。僕はこの曲を通してみなさんに伝えたいのは「あなたが望まないで犯した罪のことで神様に申し訳ないと思っていても、許しを求めれば神様はあなたを許し、ありのままのあなたを受け入れてくれる。ありのままのあなたで神様に献身しなさい。そうすれば神様はよろこんでくださる。」という事です。
5. I Knew It Was You
僕は中学、高校にいたときにある一つの音楽グループを持っていました。それは僕を含め4人で構成されていて、僕はギターを担当していました。礼拝の特別賛美でよく演奏していて、とても賛美している事が楽しかったです。でもあるとき僕は自分のメンバーのみんなが心から楽しく音楽をしていないという事に気づきました。なんで楽しんでいないのだろうと最初は思っていましたが、時間が経つにつれてなんで自分はこんなに技術をあげて神様を心から賛美しようと頑張っているのになんでみんなは何もしてないという考えに変わっていました。自分が正しいことをしているのにみんなは自分についてこないなどとも考える事もありました。そしてあるときちょっとした事から言い合いになり、メンバーから「努力する姿勢は尊敬する。でも何も考えずに 目立ちたがる君のギタースタイルがずっと嫌だった」と言われました。それを聞いた時、自分の今まで正しいと思ってやって来た事が全て否定されたような気がしてものすごくショックを受けました。全ては自分のせいだったとも悟りました。話し合いの結果、僕の音楽グループは活動停止となりました。その夜、「なぜあなたはなんでこんなひどい事を僕にするの?」と怒りをぶつけながらお祈りをしたことは今でも覚えています。本当に悲しかったです。でも僕はこの経験を通して「他の楽器がどう演奏して聞いて、それに自分の音を会わせる」という 音楽をする上で一番大切な事を学びました。前の自分は本当に自分の事だけ考えて演奏にベストを尽くしていました。でも今は他の音を聞きながらベストを尽くしています。もしあの経験が無ければ音楽を愛するものとしてここまで成長できなかったと思います。今では僕に覚悟を決めて僕に本音をぶつけてくれたメンバー達には感謝しています。エレミヤ書29:11にはこのような事が書かれています。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」苦しんでいたときは分かりませんでしたが、神様はあの音楽グループでの試練を通して神様を賛美するものとして僕を成長させくれたと僕は信じています。本当に感謝しています。
6.
Amazing
Grace
コリントの信徒への手紙12:9にこのような事が書かれています。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と主は言われる。」最後になりますが僕がみなさんに心に留めて欲しいのは、永遠の命を与えてくださるのも、信仰によってイェス様のようになれるのも 、純粋に神様を信じる心を与えてくださるのも、望まないで犯した罪を赦してくださるのも、私達をクリスチャンとして成長させるために私たちに試練をあたえてくださるのも全部神様の愛と恵みによるものなのです。私たちは弱い人間ですが、そのなかで神様は私達を用いて私達が出来る以上のことをしてくださいます。そのことをぜひいつでも覚えていてください。
2013年1月26日土曜日
ミニコンサート
1月28日にMKOのメンバーの一人である西野貴基君がミニコンサートを開き、録画しました。
1. "Life's Too Short" by Stephen Bennett
2. "Lady Bird" by Stephen Bennett
3. "Good Dog" by Stephen Bennett
4. "Devotion"
5. "I Knew It Was You" by Stephen Bennett
6. "Amazing Grace"- Tommy Emmanuel's Arrangement
2012年5月10日木曜日
釣りとクリスチャンの人生にある意外な共通点。
僕は魚が好きで、よく大学の近くにある川や湖へ釣りに行くことがあります。釣りを始めたきっかけは「魚を近くで見たい」という小さなものでしたが、経験を重ねていく中であることに気づきました。それは僕たちクリスチャンの生活と、釣りの間には意外な共通点があるというものでした。
私たちは聖書を勉強する事によって、どのように救われるのかを知り、人々にその知識を教えらえるようになるのです。何も情報を知らないで釣り場に行って効率よく釣りが出来ないように、クリスチャンも聖書研究なしで神様に正しく従うことや、人々に伝道することは出来ません。まず大きな魚(救い)を手にするには、魚や釣り場(聖書が伝えている事)を知る事です。
一つ目は物事を分析し、判断するということです。僕がする釣りはルアーフィッシングといい、疑似餌をまるで生きている小魚のように動かし、それを餌だと思った魚を騙して釣るというものです。ですから自分の実力によって釣果は左右されます。釣り場に行く前にすること、それは釣り場の環境や地形などを知ることです。その釣り場の魚は何を食べているか、水中温度はどのくらいか、気圧の変化はあるか、どこに魚がいるか、どんな色に反応するか….などがあります。このようにまず情報収集をインターネットや知人などからすることが大切です。これらをすることによって、効率のよい釣りができ、確実に魚を捕まえることが出来ます。この釣りにおいての分析と判断をクリスチャンの生活に当てはめると、それは聖書を日々勉強し、答えを見つけるためにお祈りする事になります。私達は聖書を研究することによって、何が正しくて、何が悪いのかを知ることが出来ます。神様が私達に神様の弟子として何を求めておられるかということも、聖書によって学ぶことが出来ます。第二のテモテの手紙 3:14−16には、このように述べられています。
「自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」
私たちは聖書を勉強する事によって、どのように救われるのかを知り、人々にその知識を教えらえるようになるのです。何も情報を知らないで釣り場に行って効率よく釣りが出来ないように、クリスチャンも聖書研究なしで神様に正しく従うことや、人々に伝道することは出来ません。まず大きな魚(救い)を手にするには、魚や釣り場(聖書が伝えている事)を知る事です。
釣りを始めて、魚が釣れたらとても楽しいものです。しかし、そう簡単に上手くいくことはほとんどありません。せっかく色々な情報を集めたのに、なかなか釣れない。この状況に陥ったとき、釣り人は二つの内どちらかの行動をとります。一つは「釣りをやめる」で、もう一つは「忍耐して、釣りを続ける」です。釣りのプロの人たちが必ず選ぶのは2つ目の「忍耐」です。彼らは自分の技術をあげるために、たくさん忍耐して諦めずに釣りを続けてきました。 どんなに聖書を勉強して何が正しいかを知っていても、私達は罪人で弱く、神様が教えられていることをするのは難しいです。かなり難しいです。そういう時に現実から逃げて、自分を変える事を諦める人もいれば、逆に最後まで諦めず、神様に頼ることで自分を変えていただく人も居ます。
「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブの手紙1:2−4
「霊の父(主)はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」ヘブライ人への手紙12:10−11
周りの人はたくさん魚を釣っていたのに、自分だけ一匹も釣れなかったという経験をした事があります。でもその釣りの後、自分はなぜ釣れなかったのかもう一度研究して、自分の足りない部分を学ぶ事が出来ました。もし私達が聖書に教えられている事をうまく実行できないときは、もう一度聖書を勉強して、なぜ出来ないのかを調べる必要があります。そして、神様の力を信じて忍耐することがクリスチャンとして成長することにつながるのです。
「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブの手紙1:2−4
「霊の父(主)はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」ヘブライ人への手紙12:10−11
周りの人はたくさん魚を釣っていたのに、自分だけ一匹も釣れなかったという経験をした事があります。でもその釣りの後、自分はなぜ釣れなかったのかもう一度研究して、自分の足りない部分を学ぶ事が出来ました。もし私達が聖書に教えられている事をうまく実行できないときは、もう一度聖書を勉強して、なぜ出来ないのかを調べる必要があります。そして、神様の力を信じて忍耐することがクリスチャンとして成長することにつながるのです。
ある人はこう思うはずです。なぜ忍耐できるのか。ルアーフィッシングにおいて忍耐できる人は、自分の実力を信じている人、魚が捕れると最後まで信じている人です。それができるのは、その人がものすごく釣りを愛しているからです。同じように、忍耐できるクリスチャンはどんなに大きな試練にあっても、神様を心から信じ、乗り越えられる事を信じています。それは、彼らが心から神様を愛しているからです。 ただし、釣り人とクリスチャンの違うところは、釣り人は自分自身を信じますが、クリスチャンは神様を信じるというところです。成熟したクリスチャンは、どの様な逆境においても神様を信じ、忍耐することで救われるということを信じています。
「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」ヘブライ人への手紙10:36
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マタイによる福音書24:13
可能性を疑い、魚が捕れないと思う人に魚が捕れるわけがありません。同じように、神様の存在を疑う人に、神様からの恵みを感じることは出来ません。クリスチャンとして成長するためには、まず心から神様がいることを信じ、神様を愛することです。なぜなら、それが信仰の大前提だからです。
最後にひとつの聖句、マタイによる福音書4:19を紹介したいと思います。
「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」
イエス様を信じ、愛することにより、イエス様はあなたを罪という底なし沼から引き上げてくださいます 。そしてあなたがイエス様の弟子となったのなら、あなたがかつていた底なし沼で溺れかけて苦しんでいる人たちに、イェス・キリストと共に手を差しだして、彼らを引き上げ、救うことができるのです。魚が釣れただけでもとても嬉しいのに、いままで神様を知らなかった人が罪から引き上げられたら、もの凄く嬉しいはずです。みなさんは人間をとる漁師になりたいですか?
「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」ヘブライ人への手紙10:36
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マタイによる福音書24:13
可能性を疑い、魚が捕れないと思う人に魚が捕れるわけがありません。同じように、神様の存在を疑う人に、神様からの恵みを感じることは出来ません。クリスチャンとして成長するためには、まず心から神様がいることを信じ、神様を愛することです。なぜなら、それが信仰の大前提だからです。
最後にひとつの聖句、マタイによる福音書4:19を紹介したいと思います。
「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」
イエス様を信じ、愛することにより、イエス様はあなたを罪という底なし沼から引き上げてくださいます 。そしてあなたがイエス様の弟子となったのなら、あなたがかつていた底なし沼で溺れかけて苦しんでいる人たちに、イェス・キリストと共に手を差しだして、彼らを引き上げ、救うことができるのです。魚が釣れただけでもとても嬉しいのに、いままで神様を知らなかった人が罪から引き上げられたら、もの凄く嬉しいはずです。みなさんは人間をとる漁師になりたいですか?
作者:西野貴基
2012年2月18日土曜日
サタンに勝つ
サタンの誘惑に負けない方法。誰でも教会に通っている人なら、この事を考えたことがあると思います。そんな方法はあるのか、と疑問に思う人もいるでしょう。むしろ、罪を犯したくないのに、誘惑に惑わされて罪を犯してしまうので、その方法を知りたいという人もいるでしょう。
人類最初のアダムとエバはサタンの誘惑によって、神様が食べてはいけないと言われた果実を食べ、この地球に神様と私たちを引き離してしまう罪(イザヤ59:2)を地球に持ち込んでしまいました。アダムとエバが最初の罪を犯したように、私たちは今でもサタンの誘惑に負け、罪を犯してしまうことがあります。最初の人類に罪を犯させることが出来たサタンに勝つ方法はあるのでしょうか? ヤコブの手紙4:7にこのような聖句があります。「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げていきます。」私たちが神に従い、「隠れが」(詩編32:7)に守られながら、神様とともにサタンに反抗するとき、サタンは私たちから逃げていきます。神様の前でサタンは無力だからです。逆に言うと、自分だけの力ではサタンに勝つ事はできません。エレン・ホワイトは「各時代の希望」の中でこのように記しています「われわれは自分自身を誘惑者サタンの力から救うことはできない。
神様に従い、神様と共にサタンに反抗すると、サタンは逃げていくという事は分かりました。ここで、もう一つ質問が浮かんでくるはずです。なぜ私達の力だけではサタンに勝つ事は出来ないのでしょうか?それは、私達人間は、もともと肉の人であり、罪に売り渡されているからです。(ローマ7:14)つまり神様なしでは私たちは、肉の欲を満たす為に、罪を犯すように出来ています。そこをサタンは上手く利用するのです。
ガラテヤの信徒への手紙5:20、21には肉の業が明らかにされています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」しかし神様に従い、聖霊が私達の心の中に入る時、肉の業とは全く違う事をするのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これを禁じる掟はありません。」ガラテヤの信徒への手紙5:22、23。サタンに勝つこと、それは自分の力だけでは出来ません。私たちは惨めな罪人だからです。逆に「神様、私はどんな事があってもあなたに従います。そしてサタンの誘惑からお守りください。また、聖霊を私の心に送り、罪を犯さないようにしてください。」と祈る時、私たち神様によって罪を克服し、神様と共にサタンに勝つ事が出来ます。次回は、もっと詳しく神様と共にサタンに打ち勝つ方法を話したいと思います。みなさんが神様と共に人生を歩んでいく事ができるようお祈りしていす。
2012年2月12日
西野貴基
私の隣人とは誰ですか?
彼(律法学者)は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イェスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命(永遠の命)が与えられる。」しかし彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。ルカ10:27−29
もしあなたがクリスチャンだったら教会で「隣人を愛しなさい」というフレーズを何回も聞いた事があると思います。いつも聞き流していまそうですが実際あなたにとって隣人とはどのような人かと考えたことはありますか?友達が隣人でしょうか?それとも家族、もしくはクリスチャン?もしくはイェス様の事を知らない人も隣人なのでしょうか?イェス様はその質問に対して分かりやすく「善きサマリア人」というたとえ話を用いて答えています。
皆さんご存知のようにこれはある人がエルサレムからエリコへ向かう途中が強盗に遭遇し半殺しにされます。私たち(旅人)は人生(エルサレムからエリコへの道)を歩む中、強盗(サタン)に色んな方法によって傷つけられます。時にはその傷から立ち直れない事もあります。しばらく時間が経って旅人が道に横たわっていると、祭司とレビ人が通りかかります。当時、祭司は教会を上に立つリーダーであり、聖書の言葉を日頃から読み、人々に説いていました。同じように、レビ人は神殿で儀式に携わる神殿のアシスタントで毎日聖書の言葉を聞いていました。しかし神の御言葉を毎日読んで、神殿に貢献していたのにも関わらず彼らはユダヤ人かサマリア人かも確かめず道の反対側を通り過ごしてしまいます。彼らは聖書に書いてある隣人を愛しなさいという事を日々の生活の中で実行しなかったのです。
最後にサマリア人が旅人にもとにやってきました。サマリアはエルサレムの北に位置しイスラエルの一つの町でした。しかしアッシリアの王によってサマリアは占領され、王はそこにいたイスラエル人を連行し、イスラエル人の代わりに異邦人たちを連れて来てサマリアに住ませました。移された当時の異邦人は神様を信じるとともに、移される前に行っていた宗教の風習にしたがって彼らの神々をも信じていたそうです。(列王記下17章)このような歴史的背景もありサマリア人はユダヤ人に混血、信仰から外れたものとして軽蔑、差別され、お互いに挨拶を交わさないほど対立していました。そんな状況のなかで、たとえ話の中のサマリア人は倒れている旅人を見つけると憐れに思い、その人を助け介抱したのです。彼はユダヤ人かサマリア人かも気にせず愛をもってこの旅人を助け、宿に連れてその人のためにお金も払いました。
たとえ話をはなした後、イェス様は律法学者に「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったかと思うか。」と言うと、律法学者は「その人を助けた人です。」と答えました。彼もサマリア人を嫌っていたので「サマリア人」とは言いませんでしたが、彼は誰が彼にとって隣人かを理解しました。そしてイェスは彼に「行ってあなたも同じようにしなさい。」と言われたのです。私たちの隣人とは誰でしょう。それは 友達、家族、教会の人だけではありません。同じ人種、歴史的背景、環境を持っている人たちだけでもありません。このたとえ話が私達に教えているのは隣人とはサタンによって苦しめられ助けも求めている全ての人達の事なのです。これは人種、宗教、歴史、文化、クリスチャンかそうでないかなどに関係するものではありません。だから私たちは,この人が教会に来ていないから自分の隣人ではない、昔こんな悪い罪を犯したから自分の隣人ではないなどとは言えないのです。
この善きサマリア人はイェス様のことも象徴しています。彼はサタンによって傷付けられた私たちの心を癒し、永遠に死ぬはずだった私達の代わりに死んで、罪から救ってくれました。もし私達がクリスチャンなら、倒れている隣人の道の反対側を通るべきではありません。逆にこのサマリア人、イェス様のように立ち止まって私達の隣人を助けるべきです。第一ヨハネ4:20には「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」とあります。もし私達が祭司やレビ人のように勝手に隣人を、聖書の言葉を読んでもその通り実行せず、イェス様のようになろうとしないのなら私達はクリスチャンとは言えません。しかし「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちのうちにとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされるのです。」第一ヨハネ4:12。全ての人がお互いを隣人として互いに愛するという事、それは決して簡単に起こる事ではありません。でもそれが実現したとき神様は私たちの心の中にいます。日本にいるみなさんに神様の豊な祝福がありますように。
2012年2月4日
西野貴基
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