2012年5月10日木曜日

釣りとクリスチャンの人生にある意外な共通点。

 僕は魚が好きで、よく大学の近くにある川や湖へ釣りに行くことがあります。釣りを始めたきっかけは「魚を近くで見たい」という小さなものでしたが、経験を重ねていく中であることに気づきました。それは僕たちクリスチャンの生活と、釣りの間には意外な共通点があるというものでした。

 一つ目は物事を分析し、判断するということです。僕がする釣りはルアーフィッシングといい、疑似餌をまるで生きている小魚のように動かし、それを餌だと思った魚を騙して釣るというものです。ですから自分の実力によって釣果は左右されます。釣り場に行く前にすること、それは釣り場の環境や地形などを知ることです。その釣り場の魚は何を食べているか、水中温度はどのくらいか、気圧の変化はあるか、どこに魚がいるか、どんな色に反応するか….などがあります。このようにまず情報収集をインターネットや知人などからすることが大切です。これらをすることによって、効率のよい釣りができ、確実に魚を捕まえることが出来ます。この釣りにおいての分析と判断をクリスチャンの生活に当てはめると、それは聖書を日々勉強し、答えを見つけるためにお祈りする事になります。私達は聖書を研究することによって、何が正しくて、何が悪いのかを知ることが出来ます。神様が私達に神様の弟子として何を求めておられるかということも、聖書によって学ぶことが出来ます。第二のテモテの手紙 3:14−16には、このように述べられています。
  
自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
 
 私たちは聖書を勉強する事によって、どのように救われるのかを知り、人々にその知識を教えらえるようになるのです。何も情報を知らないで釣り場に行って効率よく釣りが出来ないように、クリスチャンも聖書研究なしで神様に正しく従うことや、人々に伝道することは出来ません。まず大きな魚(救い)を手にするには、魚や釣り場(聖書が伝えている事)を知る事です。
 釣りを始めて、魚が釣れたらとても楽しいものです。しかし、そう簡単に上手くいくことはほとんどありません。せっかく色々な情報を集めたのに、なかなか釣れない。この状況に陥ったとき、釣り人は二つの内どちらかの行動をとります。一つは「釣りをやめる」で、もう一つは「忍耐して、釣りを続ける」です。釣りのプロの人たちが必ず選ぶのは2つ目の「忍耐」です。彼らは自分の技術をあげるために、たくさん忍耐して諦めずに釣りを続けてきました。 どんなに聖書を勉強して何が正しいかを知っていても、私達は罪人で弱く、神様が教えられていることをするのは難しいです。かなり難しいです。そういう時に現実から逃げて、自分を変える事を諦める人もいれば、逆に最後まで諦めず、神様に頼ることで自分を変えていただく人も居ます。

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブの手紙1:2−4

霊の父(主)はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。ヘブライ人への手紙12:10−11

 周りの人はたくさん魚を釣っていたのに、自分だけ一匹も釣れなかったという経験をした事があります。でもその釣りの後、自分はなぜ釣れなかったのかもう一度研究して、自分の足りない部分を学ぶ事が出来ました。もし私達が聖書に教えられている事をうまく実行できないときは、もう一度聖書を勉強して、なぜ出来ないのかを調べる必要があります。そして、神様の力を信じて忍耐することがクリスチャンとして成長することにつながるのです。
 ある人はこう思うはずです。なぜ忍耐できるのか。ルアーフィッシングにおいて忍耐できる人は、自分の実力を信じている人、魚が捕れると最後まで信じている人です。それができるのは、その人がものすごく釣りを愛しているからです。同じように、忍耐できるクリスチャンはどんなに大きな試練にあっても、神様を心から信じ、乗り越えられる事を信じています。それは、彼らが心から神様を愛しているからです。 ただし、釣り人とクリスチャンの違うところは、釣り人は自分自身を信じますが、クリスチャンは神様を信じるというところです。成熟したクリスチャンは、どの様な逆境においても神様を信じ、忍耐することで救われるということを信じています。

の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」ヘブライ人への手紙10:36
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マタイによる福音書24:13

 可能性を疑い、魚が捕れないと思う人に魚が捕れるわけがありません。同じように、神様の存在を疑う人に、神様からの恵みを感じることは出来ません。クリスチャンとして成長するためには、まず心から神様がいることを信じ、神様を愛することです。なぜなら、それが信仰の大前提だからです。

最後にひとつの聖句、マタイによる福音書4:19を紹介したいと思います。

イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。

 イエス様を信じ、愛することにより、イエス様はあなたを罪という底なし沼から引き上げてくださいます 。そしてあなたがイエス様の弟子となったのなら、あなたがかつていた底なし沼で溺れかけて苦しんでいる人たちに、イェス・キリストと共に手を差しだして、彼らを引き上げ、救うことができるのです。魚が釣れただけでもとても嬉しいのに、いままで神様を知らなかった人が罪から引き上げられたら、もの凄く嬉しいはずです。みなさんは人間をとる漁師になりたいですか?
作者:西野貴基
編集者:品末拓真
05/10/2012



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