2012年5月7日月曜日

ダニエル書9章ー後半

あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。”
ダニエル書9章24-27節

24節
-「とがを終わらせ、罪に終わりを告げ,不義をあがない、永遠の義をもたらし」というのは、8章14節の「聖所は清められてその正しい状態に復する」ことを言っています。
-「幻と預言者を封じ」というのは、ステパノが石で打たれる事を表しています。ステパノはイエス様が父なる神様の右側に立っている幻を見ました。しかし、人々は怒り狂ってステパノを殺してしまいました。その結果、「幻と預言者を封じ」るという予言が成就したのです。ステパノについては新約聖書の使徒行伝に書かれていますので読んでみて下さい。

“人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
使徒行伝7章54-60節

-「いと聖なる者に油を注ぐ」と言うのは、イエス様がバプテスマを受けた時に天から聖霊が注がれる(ルカによる福音書3章21,22節)事を予言していました。

25節
-「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。」メシヤとは、救い主イエス様のことです。要するに、エルサレムを建て直せとの命令が出てから69週間後=483年後(予言では1日=1年)にイエス様が現れると予言されていたのです。ではいつ、誰がエルサレムに神殿を建て直せと命令したのでしょうか?

“諸王の王アルタシャスタ、天の神の律法の学者である祭司エズラに送る。今、わたしは命を下す。わが国のうちにいるイスラエルの民およびその祭司、レビびとのうち、すべてエルサレムへ行こうと望む者は皆、あなたと共に行くことができる。あなたは、自分の手にあるあなたの神の律法に照して、ユダとエルサレムの事情を調べるために、王および七人の議官によってつかわされるのである。かつあなたは王およびその議官らが、エルサレムにいますイスラエルの神に真心からささげる銀と金を携え、またバビロン全州であなたが獲るすべての金銀、および民と祭司とが、エルサレムにあるその神の宮のために、真心からささげた供え物を携えて行く。”
エズラ記7章12-16節

 エズラ記によりますと、アルタシャスタ王がエズラを通してイスラエルの人たちに神殿を建て直すようにと命じました。エズラ記7章7節では、「アルタシャスタ王の7年」目と書いてあります。歴史を調べてみますと、アルタシャスタ王の7年目と言うのは457B.C.です。457B.C.から69週間(483年)というのは、ちょうど27A.D.です。ルカによる福音書3章によりますと皇帝テベリオ在位の第十五年目に、イエス様はバプテスマを受けました。皇帝テベリオ在位の十五年目を、他の資料で調べるとちょうど27A.D.になります。要するに、ダニエル書9章25節で、イエス様がいつバプテスマを受けるかが正確に予言されていたのです。前にも言いましたが、ダニエル書はだいたい500B.C.から600B.C.頃に書かれています。ですから、イエス様のバプテスマは最低でも500年以上も前に予言されていたのです。人間にできることではありません。

26節
-「その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう」というのは、62週の直後、という正確な時間ではなく、ここでは62週の後のいつかと言う意味です。メシヤが断たれる、要するにイエス様が死なれる正確な時は27節に予言されています。
-「ただし自分のためにではありません」というのは、メシヤが他の人たちのために死んだという意味です。
-「またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう」というのは、エルサレムと神殿が70A.D.にローマによって滅ぼされることを予言しています。
-「洪水のように臨む」というのは、もとの言語では、「ものすごく大変な時期」という意味で書かれています。
-「そしてその終わりまで戦争が続き、荒廃は定められています」というのは、エルサレムがとことん荒れ果てるまで戦争は続くと言う意味です。

 ダニエル書9章26節を大きく分けると二つの予言があります。一つ目は、62週の後、メシヤ(イエス様)が他の人たちのために死ぬということです。二つ目は、エルサレムと神殿が滅ぼされるときは洪水のように大変な時期で、エルサレムと神殿が徹底的に荒らされるまで、ローマ国は戦争を続けるということです。

27節
 27節の予言はびっくりです。イエス様(メシヤ)が地球へ来る500年以上も前に、正確に、十字架で死ぬ年が予言されていたのです。もうすでに69週間の予言は説明したので、27節に出てくる70週目の1週間の予言を説明します。
-「彼は一週間の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。」彼というのはイエス様の事で、契約は罪の許しと天国での永遠の命という希望の約束のことです。
-「そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。」その週とは、70週目のことです。週の半ばは3.5日なので、3年半です。27A.D.にあったイエス様のバプテスマから3年半となると、31A.D.になります。そして、31A.D.がちょうど、イエス・キリストが十字架で亡くなられた時なのです。(バプテスマから十字架までが3年半であったというのは、ヨハネの福音書に記録されている過ぎ越しの祭りを数えればわかります。)
-「犠牲と供え物とを廃するでしょう」と言うのは、イエス様が十字架で全人類の罪の犠牲として亡くなられると同時に、神殿で捧げられていた犠牲の供え物は無用になったということなのです。なぜなら、イエス様こそが完全なる犠牲、神の子羊だったからです。よって神殿で行われていた子羊を捧げる儀式は必要無くなったのです。

“その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」”
ヨハネによる福音書1章29節

「また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終わりが、その荒す者の上に注がれるのです」。これは、イエス様を救い主であられるメシヤと理解していながらも拒否したユダヤ人たちの悲しい定めです。





















ちなみに、神殿を建て直す命令(457BC)から2300年と言うと(1843+1)1844年になります。ですから、ダニエル書8章14節に書かれていた聖所の清めは1844年に始まったのです。1844年以来、イエス様は天国の至聖所で、我々の永遠の命のために必死に執り成しておられるのです。そして、天国の至聖所での執り成しが終わった時、イエス様は雲に乗って天使たちと共に地球へ戻ってこられるのです。イエス様はもうすぐ帰ってこられます。天国は近いのです。

これでダニエル書9章の説明は終わりました。予言を通してイエス・キリストの素晴らしさをもっと理解する手助けを、この記事によってできたのならば、何よりもうれしいです。これからも、日々お祈りをして、聖書を勉強しましょう。一日も早く、あなたがイエス・キリストの想像以上の素晴らしさを心から理解できる日が来るのを毎日祈り、待ち望んでいます。

作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真
05/07/2012




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