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2014年3月27日木曜日

この道であってる?4

さて、一日中迷い続けていたわたしたちでしたが、今度は山をぐんぐんと下っていきました。景色はだいぶ変わり、雪山から緑のジャングルのような光景になりました。そこを抜けて少し開けたところに出てくると、山のふもとには小さな町が広がっていました。わたしたちは「あー良かった!!」とほっとしました。もうすぐこの冒険も終わりだと分かったからです。しばらく歩いていると、犬の散歩をしている女の人がわたしたちに向かって歩いて来るのが見えました。下山中わたしたちは人ひとり見かけなかったので、頂上で会った登山グループ以来初めて人に会いました。わたしたちはとても嬉しくなり「出口まであとどのぐらいですか?」とその女の人に聞きくと、「あと30分ぐらいですよ」と教えてくれました。わたしたちはどんなに嬉しかったでしょう!しばらくすると、わたしたちは山道からついに公道に出てきました。案内センターがあったのですが閉まっていたので、わたしたちはそこあった看板を見ました。そこにはMt.Baldyの地図がありました。わたしたちはその地図を見て、自分たちがどれぐらい駐車場から離れているのかを確認しました。駐車場までは歩いて上り坂3マイル(5km)ほどでした。わたしたちは何度も迷ったためにすでに25kmほど歩いていて、もう歩きたくないと体が叫んでいました。「だれか車で送ってくれる人いないかな」などと話していましたが、わたしたちは歩くことにしました。

すぐ近くに小さなガラス細工のお店があったので、そこでこの道であっているかどうか確かめようと言い、そのお店にわたしたちは寄りました。わたしたちが「この道だ!」と思った道は間違っていたことが多いということをその日身に染みて分かっていたのと、もうこれ以上迷って歩く体力はないと思ったからです。そのお店には親切な女の人がいて「あら、あなたたち迷ったの?Mt. Baldyを登山して違う出口から出てくる人よくいるのよね!困ったわ。今地図見せてあげるからこっちに来て」と言いました。地図を見て「わたしたちはこの駐車場から作業用の道路を通り、スキーリフトの上まで来て、少し間違った道を進んで戻って、ブラックダイアモンドのスロープを登ってDevil’s Backboneを通って頂上に行った」とその女の人に説明しました。するとその女の人は「Devil’s Backboneを通ったの??わたしはこの山の町に何年も住んでいるけど、雪が積もっているとき、風が強い日、あと、つるつる滑るような日はDevil’s Backboneを通るのは誰にもおすすめしないわ!」と言いました。そして「毎年冬にあそこで誰か亡くなるのよ」と付け足したのです。冬にきちんと装備していない登山者が、足を踏み外して滑り落ちて亡くなるのだそうです。わたしたちはびっくりして顔を見合わせました。「今あなたがいるのはここで、駐車場まではまああと5kmほどね、まあ歩けない距離じゃないわよ。ヒッチハイクというのも一つの方法ね。山の人たちはお互い助け合う精神があるから助けてくれる人はいるけれど、リスクがあるからわたしはなんとも言えないわ。あなたたちで決めて。」とその人は言いました。わたしたちはその女の人に感謝してお店を出て、車道の脇を歩きはじめました。Lisaが「Devil’s Backboneがそんなところだったなんて知らなかった!神様に守られて生きて帰ってこれてよかった!!」言いました。わたしたちは神様に感謝しました。

さて、ヒッチハイクはどうかとその女の人に提案される前に、CamrieLisaは冗談で「ヒッチハイクして、車で送ってくれる人はいないかな」と言っていました。わたしは全く知らない人の車には乗らないほうがいいと思っていました。ヒッチハイクというのは車道の脇で親指をあげてサインを出して、車が止まってくれたら目的地を伝えて送ってもらうというものです。わたしはどんなに疲れてもこのまま歩いて行きたいと思っていましたが、Camrieはヒッチハイクの提案に乗り気のようでした。しばらく上り坂を歩いていると後ろから車がやってくるのが聞こえたので、Camrieは「みんな親指をあげて!」と言いましたが、Lisaとわたしはあまり乗り気ではなくて「うんーーーあげない」と言ってあげませんでした。しかし歩いている間に何台も車が通り過ぎていて、「親指あげていても、まあだれも止まらないだろう」と思ったわたしは、Camrieと一緒に親指をあげ始めました。そしたらLisaも次第に親指をあげ始め、わたしたちは3人でヒッチハイクサインを出していました。

しばらく車が来なくなりましたが、目的の駐車場まではまだまだのようでした。そこでわたしたちは「ブーーーーーーン」というバイクのような音が遠くからやってくるのに気が付きました。「バイクかな?バイクじゃあヒッチハイクできないね」と言って、わたしとLisaは親指をあげていませんでした。しかし、どうやらCamrieは親指をあげ続けていたようでした。すると「ブーーーン」というエンジン音は近づいてきて速度を落とし、わたしたちの隣で止まったのです!「あぁ止まってしまった!」とわたしは思いました。そしてどんなバイクが止まったのかと見てみると、それは小さな古い赤い車でした。その車に乗っていたおじさんは車の窓を開けて「君たちどこにいくの?」と声をかけてきました。そのおじさんはデンタルフロスをくわえていて、髪の毛はぼさぼさで、とても明るいおじさんでしたが異様に明るすぎるような気がして、わたしは「この人の車には乗らない」と思いました。しかしわざわざ止まってくれたのに無視するのも悪いということで、Lisaはその人に話始めました。「わたしたちは駐車場に向かって歩いています」と言うと、「連れて行ってあげるよ!」と言うので、少しためらったLisaは「車に3人分のスペースはありますか?」と聞きました。するとおじさんは「どんなスペースでもあるよ!」と言うので、どういう意味かと思って車の後部座席を覗いてみると、なんと運転席と助手席以外には座席がなくて後ろには梯子や工具、クッションなどがごちゃごちゃと積まれていて、おまけにガソリンのタンクもあり、とてもガソリン臭いのでした。Camrieは「ありがとうございます!」と言って車の後ろに乗り始めたので、LisaとわたしはこのままではCamrieがさらわれると思い、3人でいた方がましだということでわたしたちもこの車に乗りました。車の中でそのおじさんは、彼がどういう人なのかわたしたちに伝えたかったようで「僕は昔スキーリフトの整備をしていたんだ。それから山のふもとにあるバーで働いていた。わはは!それで自分の電話番号をバーにくる女の人に配っていた。わはは!」と言ってきました。それを聞くとわたしたちは顔を見合わせて、果たしてこのおじさんの車に乗っていて大丈夫なのか、ちゃんと駐車場で降ろしてくれるのかと心配になってきました。なにがおもしろいのかそのおじさんは頻繁に「わはは!」と大声で笑っていました。とても不安でしたが、車の窓越しに見ていると駐車場までは思ったよりも長い道のりで急な上り坂だったので、このおじさんが車で送ってくれていることに感謝しました。

さて、駐車場が見えてきたのでわたしたちは「この駐車場です」とそのおじさんに伝えると、「おっけー!」と言い、車を止めて駐車場で3人ともちゃんと降ろしてくれました。おじさんにお礼を言うと「僕の名前はジョン。じゃあね!」と言い、また「ブーーーン」とすごい音をたてておじさんは去っていきました。わたしたちはほっとして笑い始めました。Camrieは「ヒッチハイクなんて人生で一度もしないと思っていた!!」と言いました。たった一日の間に、こんなにたくさん想定外の事が起きたという事実をまだ信じられないでいました。Lisaは「今日の冒険はヒッチハイクによって完成されたね!」と言いました。わたしたちはLisaの車に乗って家に帰りました。

帰り道、わたしたちは今日の出来事を振り返って「朝にジェネッサを車に乗せて電話するのを手伝って、今日の終わりに今度は自分たちがジョンというおじさんに車に乗せてもらって、不思議だね」と言いました。わたしたちは何度も神様に感謝しました。神様はジョンのような人をわたしたちに送ってくださることによって、わたしに大切な教訓を教えてくださいました。どんな姿でも、どんな人生を送ってきていても、もしその人が神様の御声に聞き従うのなら、神様はその人を御自分の御業を果たすためにお使いになることができるということです。ジョンは髪の毛がぼさぼさで、デンタルフロスをくわえていて、ガソリン臭い車に乗っていましたが、疲れ果てたわたしたちをただ助けようとしてくれた親切な人でした。もちろんヒッチハイクを勧めているわけではありません。わたしが注目したいポイントは、わたしたちは「今日神様はわたしになんと言っておられるだろうか」と毎日質問することが必要だということです。神様は何か資格がある者を遣わすのではなくて、神様に従いたいと思っている人を遣わすのです。もしジョンが「あぁこの子たちを助けたいけど自分の車はガソリン臭いから今は助けられない、車がきれいになってから助けよう。」と思って通り過ぎていたらどうなっていたでしょう?しかし彼はわたしたちの必要を見て、自分のことを構わず助けてくれました。わたしたちはジョンから学ぶことがあると思います。神様はわたしたちの心に毎日語りかけておられます。その御声に今日聞き従うか、もしくは「もっと準備ができたら神様に従おう」と後回しするかわたしたちには選択が与えられています。
聖書にはこう書かれています。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ローマ信徒への手紙12:2


神様に「今日わたしが何をするべきか教えてください。」とお祈りしましょう。それは自分の弱さと向き合うことかもしれなせん。人を赦すことかもしれません。目の前にいる人の話を真剣に聞くことかもしれません。神様はわたしたちの品性を粘土のように練って、最高の作品に仕上げたいと願っておられます。そしてそれは毎日行われるプロセスで、わたしたちが協力しなければできない作業なのです。神様は毎日わたしたちの心に語りかけておられます。その御声を聞いて行うとき、神様は神様の御業を行うための力をわたしたちに与え、助けて下さいます。「こんなに神様から離れてしまった、自分は神様のもとにくるのにふさわしくない」と思わないでください。神様はあなたをあきらめません。もし自分のするべきこと、また直すべきことが示されたのなら今日それと向き合い、神様の御助けによって成長していってください。それは常に心地よいことではありませんが、天国に行って、神様に助けられて歩んできた人生を振り返るとき、一人ひとりユニークで素晴らしいストーリーが出来上がっているはずです。 
(終わり)








著者:森春香
編集者:品末拓真

2014年3月10日月曜日

この道であってる?3



さて、わたしたちは
Devil’s Backboneを通り、さらに頂上をめざして登って行きました。周りの木々や植物にはたくさんの雪が吹き付けて凍っていて、なんとも不思議な光景が広がっていました。Lisaが「うわぁー!カリフラワーの木だ!」と言うので見てみると、雪でデコレーションされたこんな木がありました。
想像を超えた雪の量とアドベンチャーに、わたしの中ではわくわくした気分と、果たして自分の体力はもつのだろうか、という不安な気持ちが混ざっていました。

 Lisa Camrieは、頻繁にハイキングや登山にいく人たちだったので、とても速いペースでぐんぐんと雪山を登って行きました。わたしはもう、一歩一歩自分で足をひきずっていかないと進めないほどでしたので、一番後ろで短い休憩をちょこちょことりながら歩いていました。するとCamrieが「春香どうしてるー?大丈夫―??」と、たまに振り向いて声をかけてくれました。わたしは「もうあきらめたいー!」と言いたいところでしたが、そういう選択肢はないと分かっていたので、「今そこにいくよ~」と自分に言い聞かせるかのように返事をしました。

 だんだん霧も濃くなって、積もった雪が風で巻き上げられていました。わたしは、「そういえば、雪山で登山するのは危ないって聞いたことあったな。なのになんで今自分は雪山を登っているんだろう」などと考え始めました。ですが、今そういうことを考えても意味がないと分かったので、「登りはじめたんだからもう後戻りはできない、最後まで頑張ろう!」と決心しました。そんな決心も数秒の効果しかなく、すぐに、あきらめたい別の自分がでてきました。まさに心のなかにいる二人の自分の戦いでした。一人は「ここで立ち止まって、あきらめて好きなだけ休憩してしまえ」、もう一人は「ここで長く立ち止まると疲れで動けなくなってしまうかもしれないから、一歩ずつでも進んでいこう」と言っていました。わたしは「神様、力を与えてください」と何度もお祈りしました。それと同時に「もうだめだ」とか「ここでもしわたしたち3人のうちの誰かが倒れたら、どうやって山を下りるんだろう」という考えも頭の中を飛び交っていました。そんななかでLisaは、「一歩ずつでも進んでいけばいつかはたどり着くよ」と言ってくれました。その言葉を励みに登っていき、わたしたちはついに頂上にたどり着きました


 頂上にはわたしたち3人のほかに、7人ほどのグループが休憩をとっていました。頂上から景色を見渡すと、わたしたちは雲の上にいました。とても寒かったので、写真を撮ってすぐに下山することにしました。手は寒さで感覚を失い、わたしたちもかなり疲れてきていたので、できるだけ早く下りようということになりました。来た道とは違う道を通れば、ループのようになっていてもとの駐車場に戻れるはずだと知っていたわたしたちは、念のため、この道であっているかどうか頂上にいた人たちに確かめました。ぱっと振り向くと、すでにCamrieLisaは走って山を下り始めていたので、わたしも慌てて走って彼女たちについていきました。どこからそんな体力が出てくるのだろうと思いながらついて行くと、突然彼女たちが止まったので「どうしたの?」と聞きました。すると彼女たちは、「道が消えた!」と言いました。「また迷ってしまったー!今日何回目だろう」と、わたしたちはもう一回頂上に戻って、この道で本当にあっているのか確かめることにしました。再び頂上へ戻り、そこにいた人たちに「この道であっているんですよね?」と聞くと「そうだよ」と言われたので、この道でいいのだという確信を得てまた走って下って行きました。
 道はすっかり雪で覆われていました。本当にここは道なのだろうかというところを何箇所か通り、しばらく下っていったのですが、やはりわたしたちは何かおかしいことに気がつきました。もとに来た道とは違うと言っても、今進んでいる道がまったく反対方向に突き進んでいて、ループになっているとはとても思えなかったのです。わたしたちは立ち止まり、どうしようかと相談しました。わたしたちには3つの選択肢がありました。まず一つ目は、このままこの道をどこに行くか分からないけれど下り続ける。二つ目は、来た道を戻って再び頂上へ行き、そこから来た道を引き返す。三つ目は、山を横切って道なき道を行き、ショートカットして元の道へ戻れることを願う。どれもあまり望ましい選択肢ではなかったので、わたしたち3人はしばらく黙っていました。Camrieが「みんなお祈りしようよ」と言ったので、わたしたちは神様にこうお祈りしました。「神様、わたしたちは今どうやってこの山から下りたらいいか分かりません。わたしたちを導いて、暖かい所へたどりつけるようにしてください。」
 お祈りしたあと、わたしたちはまた相談しました。Lisaは「頂上は寒すぎたからもう戻りたくない。」と言い、また山の間を横切るのは迷ったら危ないからやめておこう、ということになりました。もしこのままこの道を下って山を下りさえすれば、確実にもとの駐車場には戻らないだろうけど、とりあえず助けは求められるだろう、ということで、わたしたちは今進んでいた道を続けて進むことにしました。わたしたちはそれぞれしばらく黙って山を下りていました。どこへ行っているのかもわからずに歩いていたからです。しばらく下っていくとだんだん雪の量が減っていき、暖かくなってきました。途中でLisaのお母さんに電話がつながったので状況を説明すると、Lisaのお母さんはインターネットでMt.Baldyの地図を見て、どの道をわたしたちが歩いているのか調べてくれました。しかし、Devil’s Backboneとわたしたちが本来くだるべきだった道以外に道はないと言われました。「山のレンジャーに助けを求めたほうがいいんじゃないの?」と言われましたが、わたしたちは3人ともまだ歩けていたし、日が暮れるまで最低4時間はあり、どこに行くかはわからないけれども一応道を歩いていたので「大丈夫だよ」と言いました。
 Lisaのお母さんにわたしたちの状況を伝えられて、すこし緊張がほぐれたわたしたちは、またしゃべりはじめました。「まったく変な日だ!こんなアドベンチャーは予定外だったね。」Lisaが「今日の経験にタイトルをつけるとしたら何?」と聞いてきたので考えていると、Camrieが「今日一日中わたしたちが自分たちに聞き返した質問は『この道であってる?』」だったと思う」と言いました。それを聞いたわたしたちは笑い始めました。なぜなら、その質問の答えはいつも「No!」で、わたしたちが選んだ道はとことん間違っていたからです。「この経験を振り返った時には、なにかよい思い出が出来上がってるはずだよ」と言って、わたしたちは歩き続けました。

 この経験の最中、わたしに個人的に問いかけてきた質問は「今遭難して死ぬことになったらなにか後悔するだろうか」ということでした。そこで浮かび上がったのは、「自分と神様の関係はどうだろう?」「もうちょっと家族と話をしておけばよかった」「家にもう一度帰りたい」というようなことで、「あの宿題を終わらせておけばよかった」とか「勉強会に行けなかった」などという後悔は全く頭に浮かんできませんでした。そんななかで、いかにわたしの日常生活が、わたしにとって本当に大切なものよりも、やらなければいけない課題やテスト勉強などに時間を奪われていたかということに気が付きました。もしかして死ぬかもしれないと思ったときに、もっと勉強しておけばよかったとは思わないのです。むしろ、今死んだら天国にいけないかもしれない、なにか告白していない罪があったかな、などそういうことを心配しました。なぜわたしたちはそのように日々考えないのでしょうか?生きられるのが当たり前のように感じ、明日も必ずくるとどこかでわたしは思ってしまいます。しかし本当はそうではないのです。わたしたちは限られた時間を生きているのです。イエス様の再臨は近いのです。毎日わたしたちは、神様を選ぶか悪魔を選ぶか、どちらかの選択をとっているのです。そしてその選択がわたしたちの習慣となり、人格を決めていくのです。

 今日、神様は「わたしにつながっていなさい。」とわたしたちに呼びかけておられます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」ヨハネによる福音書15:4 神様にお祈りして聖霊を受け入れましょう。そして、神様がわたしたちの人生に関わってくださり、わたしたちが聖霊の実を結ぶことができるようにお願いしましょう。


続く




著者:森春香
編集者:山地悟

2014年3月9日日曜日

この道であってる?2

   さて、わたしたちは車に乗って、標高6000ft地点にあるMt.Baldyの登山口へと向かって行きました。Camrieは「まったく変な日だね。Kalebは時間通り起きられなくて、ジェネッサにあって、岩が道路に落ちていて。。ここで引き戻したほうがいいかもね」と冗談で言っていました。しかし、わたしたちはそのまま山を登ることにしました。

 駐車場に車を止めて、わたしたちは山道へ入って行きました。ハイキングの始まりです。わたしたちはその日、お昼の12時から午後2時まである勉強会に参加する予定でした。Lisaは「このBaldy Bowlという道が一番短い道のはずだから、この道を行って帰ってくれば、今はまだ朝の7時半だし、お昼までには問題なく学校に戻れるはずだからね」と言っていました。わたしたち3人は「思っていたより寒いね」といいながら歩き始めました。そのBaldy Bowlという道へ行くには、ある地点で左への分かれ道をとらなくてはいけませんでした。しばらくしてLisaが「みんな、どこか左に分かれる道見た?」と聞いたのですが、Camrieもわたしも「そんな道はなかったよ」と言ったので、そのまままっすぐ歩いていました。またしばらくすると、Lisaが「こんな道あったかなぁ??」と言い始めたので、今歩いている道はどうやらBaldy Bowlではなさそうだということが分かってきました。しかし、わたしたちは「まあ、この道も山の上のほうに続いているみたいだから大丈夫だよ」と言い、そのまま登り続けることにしました。
 しばらく歩いていると、岩の上に雪がついているのが見え始め、だんだん地面に積もっている雪の量も増えてきました―木の枝には雪が吹き付けて凍っていたりと、とても美しい情景が見られました。わたしたちは「南カリフォルニアで雪を見られるなんて思っていなかった!!」と、写真を撮って喜んでいました。わたしたちが登っていたMt.Baldyという山は、実はスキー場でもあり、スキーリフトやキャビンもありました。しかしこのシーズンは雪がたくさん積もらなかったようで、閉鎖していました。わたしたちはスキーリフトの上まで到達しました。そこには、一面雪で真っ白な広場が広がっていました。そこでわたしたちは、どこにたどり着いたのか確かめるために、広場をすこし探索しました。そこにこんな看板が立っていました。この山道には目印となるものや案内の看板がまったくなく、それはわたしたちがその日初めてみた看板でした。
この看板によれば、わたしたちは頂上から3.2マイル、またDevil’s Backboneという道まで1.2マイルの地点にいました。この場所には3つの道がありました。写真に写っている看板の矢印が指している右と左の道のほかに、写真には写っていないもうひとつの道がありました。しかし、この看板の矢印は明らかに左の道を指していたので、わたしたちは頂上を目指して左の道へ進んで行きました。
 しばらくすると、わたしたちは頂上に向かっているはずなのに、なぜかずっと下り道を歩いていることに気づきました。きっとまた登り道になるはずだと思っていたのですが、下りが続いてすでに1マイルは歩いていたので、Lisaが「ちょっと走って先のほう見てくるから、二人は歩いていて」と言いました。少しするとLisaが引き返してきて、「このままずっと下り道で、Devil’s Backboneっていう道もなかったよ」と言ったので、わたしたちはもう一度さっきの看板のところまで戻りました。そして、わたしたちは「この矢印はわたしたちがさっき行った道を完全に示していたよね!!でも違った」と言い、また「今日は予定と違ったことが起き続けているね」などと話しました。看板の前で、わたしたちは「もし12時の勉強会に本当に行きたいのなら今引き返すべきだけど、急いで頂上を目指して走って帰ってくれば、1時ごろには勉強会にたどり着けるかもしれない。でも、もしこれ以上登れないって思ったらいつでも言ってね」、と話しました。そこでCamrieがOK!じゃあ、せっかくここまで登ってきたし、頂上目指していけるところまで行こう!」と言ったので、わたしたちはきっと頂上に向かっていると思われる道を登りはじめました。
 しばらく登っていくとカーブがあり、そこをぐるっと曲がると、わたしたちの目の前にはとてつもなく急な坂が待っていました。
わたしはそれを見た途端「あぁ引き返したい。。。」と思いましたが、LisaCamrieはかなりの体力があって、「まあこれ登ってみよっかー!」などと明るく言っていました。彼女たちが登って行くので、わたしも登らなくてはおいていかれると思い、一緒に登っていきました。わたしたちは、「こんなに急な坂だからDevil’s Backbone(悪魔の背骨)っていう道なんだね」と話しました。ところが、やっとのことこの坂の一番上に到達するとそこには看板があり、どうやらわたしたちが登ってきたのはブラックダイヤモンドのスキースロープだったらしいということが分かりました。そして、わたしたちが今から登る道が本物のDevil’s Backboneだったのです。みると今登ってきた坂よりなだらかでした。Camrie は「これが悪魔の背骨なら、わたしたちがさっき登ってきたのは悪魔の火刑柱だね」と言って笑っていました。

 ここまでのことを振り返ってみてまず思ったことは、看板というものは信頼できると思っていたけれど、間違っていることもあるのだなということでした。しかし、わたしたちはどこにいるのか長い間分からず、何か方向を示してくれるものを探していたために、看板を見たときそれが正しいと信じ込み、見事に間違った道へ進んでいったのでした。こういうことは人生にもあります。到着地点が見られない、自分がどこを歩んでいるか分からないと不安になったとき、都合よくふと現れた看板を信じてだまされてしまうのです。サタンだって嘘の看板を立てることができます。サタンはとても賢いですから、神様のような業をもって人をだますでしょう。サタンの狙いは、わたしたちが神様以外のものや人に向かって行くことです。神様以外ならなんでもいいのです。それはたとえ自分の思い描いた理想の生活をすることでもいいのです。必ずしも悪く見えなくてもいいのです。だからわたしたちは単に結果を見て、それが良い決断だったかどうか判断することはできないでしょう。それよりも神様に向かって成長しているかどうかを考えなくてはなりません。

「そこで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳なものたちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。」ペトロの手紙第二 3:17

またテサロニケ信徒への手紙第一5:19-22には
「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」と書かれています。

わたしたちには聖霊が約束されています。毎日「聖霊をわたしの心に送ってください」と神様にお祈りしましょう。イエス様は聖霊についてこういっておられます。
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」ヨハネによる福音書16:13

聖霊を心のなかに受け入れて、神様が本当はわたしたちにどういうことを望んでおられるのか、またサタンがどうやってそれを邪魔しようとしているのかという真理を知り、あらゆる悪いものから遠ざかり、イエス様の恵みと知識において成長していきましょう。

(続く)




著者:森春香
編集者:山地悟

2014年2月16日日曜日

この道であってる? 1



今年の1月31日に起きた出来事を、何回かに分けてお話したいと思います。

その前日の30日のことです。わたしの友達でありクラスメートであるCamrieが「春香、明日Lisaとハイキングに行くけど、行きたい?」と誘ってくれたので、わたしは軽い気持ちで「行きたい!」と答えました。わたしたちは3人とも理学療法士になるための勉強をしており、その金曜日(31日)は学校がお休みでした。Lisaの友達のKalebがちょうど軍隊からお休みで帰ってきていて、「Kalebはこのハイキングを始めから終わりまで走りとおしたいって言っているから、かなりきついハイキングになることを覚悟しておいてね。それでも本当に来たかったら来てね」と言われました。わたしは何を考えていたのか「まあ大丈夫だろう」という変な自信を持っており、どこに行くのかも知らずにハイキングに行くことにしました。

その日は朝5時出発でした。わたしはCamrieのアパートに行き、LisaKalebを待っていました。Lisaが携帯で「Kalebがうちに来るはずなんだけど、連絡がつかないから5時半まで待ってみよう」とメールしてきました。電話をかけても、そのままボイスメールになってしまうようでした。「寝過ごしたのかな」とか「携帯の充電が夜中に切れちゃって、目覚ましが鳴らなかったのかな」とか色々考えていたのですが、結局つながらず、3人でハイキングに行くことにしました。CamrieとわたしはLisaを待っている間、これからハイキングに行くところの写真をパソコンで見てみることにしました。するとその山の頂上付近には雪が積もっており、「え~?そんなに寒いところなの?」などと話していました。後になって振り返ってみると、彼女たちが言っていた「ハイキング」はわたしにとっての「本格的な登山」でした。これから登る山はMt. BaldyもしくはSan Antonioという名前で、標高は1,0064 ft、約3067 mということが分かりました。それから、頂上に行く手前にはDevil’s Backbone(直訳すると「悪魔の背骨」)という道があるということも分かりました。しかしわたしたちは、Lisaが前にもこの山を登ったことがあって、道をよく知っているから大丈夫だろうと思っていました。

さてわたしたちはLisaの運転する車に乗ってMt.Baldyに向かいました。途中で携帯の電波が悪くなったりしたのですが、Kalebと電話がつながり「今起きたけどすぐ行くから先に登ってて」と言われました。彼は山を駆け上り下りしたいと言っていた張本人だったので、わたしたち3人が先に歩き始めてもきっと追いつけるだろうと想定していました。曲がりくねった山道をドライブしてしばらくすると、まだ夜明け前で暗かったのですが、一台の車がライトをつけて反対向きに止まっているのが見えました。「あれ?何かおかしいな」と思い、Lisaが速度を落としました。すると女の人が手を大きく振りながらわたしたちに向かって走ってきました!どうしたのかと聞いてみると、「山の上の方から下って来たんだけど、道路に落ちていた大きな岩が見えなくてぶつかってしまった。車からオイルが漏れていたので、このまま運転し続けるのは危ないと思い、消防署の前に止まったけど誰もいなくて、携帯も電池切れで困っていた。」と説明してくれました。彼女の車を見てみると、前のパーツがはがれて確かにオイルも漏れていました。まず、彼女の携帯をLisaの車につなげて充電することにしました。その間お話をしていると、その女の人はジェネッサと言い、彼女は友達の家から職場に行く途中だったということが分かりました。彼女が岩にぶつかったのは15分ほど前の話でした。ジェネッサが「頭のおかしい女の人がいるって思った?」と聞いてきました。暗い所に一人でいて、携帯もつながらなかったので、怖くて気が動転していたのだと言いました。もしわたしが同じ状況に遭ったら、それはもちろんパニック状態になっていただろうと思います。彼女の電話がすこし充電できたところで電話をかけてみたのですが、電波が悪くてつながりません。そこでジェネッサは「もう仕事に行かないといけないし、車もまだ一応走れるからこのまま山を下っていこうと思う」と言ったのですが、車のダメージがあまりにもひどく見えたので、「あなたを電波の届くところまで連れて行くので、そこでトリプルエー(ロードサービスの会社)に電話してみたらどうですか?」とわたしたちは言いました。ジェネッサが「じゃあ、そうしてみるわ」と言ったので、わたしたちはジェネッサを乗せて山を少し下り、トリプルエーに電話しました。牽引してくれるよう頼んで、30分ぐらいでトリプルエーの人たちが来てくれることになりました。ジェネッサが「あなたたちのハイキングを台無しにしたくないわ。わたしはもう大丈夫だから行って。」と言ったので、わたしたちも「それではお気をつけて」と彼女を車のもとで降ろし、また目的地へ向かいました。「ジェネッサはどういう岩にぶつかったんだろうね」と話していると、大きな岩がごろごろと路上に落ちているところに来ました。もうそのころには明るくなってきていたので、わたしたちは徐行しながらその岩を避けて進むことができました。「まったく、今日は朝から変なことが立て続けに起こるね!でもKalebが起きなくて30分アパートで待っていたから、こうやってジェネッサに会えたんだね。きっと神様がジェネッサに会わせるためにこうなさったんだね。」とCamrieは言いました。しかし、わたしたちの冒険はまだ始まったばかりでした。

この一日を振り返ってみると、まだお話していないことも含めて、わたしたちの計画どおりにいったことは何一つありませんでした。そこでこの聖句が思い浮かびました。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く越えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いはあなたたちの思いを、高く越えている。」イザヤ書55:8-9


まずわたしたちは4人で山を登るはずでしたが、Kalebが寝過ごしたために30分出発を遅らせました。そして途中でジェネッサに出会いました。もし彼女に会わなかったら、岩が落ちていたことも知らずに普通のスピードで走り、きっとわたしたちも岩にぶつかっていたことでしょう。しかしジェネッサに会って、岩が落ちていたことを知り、また日が昇ってきたことで、わたしたちは岩をはっきり見分けて無事に通過することができました。また、この暗闇に注目してみると、おもしろい教訓が得られます。わたしたちの人生が道路だとします。そこにごろごろと落ちていた岩は、サタンがわたしたちに仕掛けた罠です。もしライトをつけずに走っていたら、岩が見えずにぶつかってしまいます。それはサタンの罠にひっかかってしまうということです。サタンの罠をさけるためにはライト、光が必要です。その光とは何でしょう?「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」と詩篇119編105節には書いてあります。神様の御言葉がわたしたちの道を照らす光なのです。ところが、もし光をつけていたとしても、スピードを出しすぎたらすぐにハンドルをきれないかもしれません。わたしたちの人生はとても忙しいです。学校、試験、行事、仕事、家族、子育て、看病、さまざまなものがわたしたちの人生を加速させています。サタンの罠にかからないためにも、光である神様の御言葉を学び、人生の速度を落として神様との時間をつくっていきましょう。(続く)






著者:森春香
編集:品末拓真

2014年1月26日日曜日

御言葉を行う

どうやったら御言葉を読んで忘れてしまうのではなくて、行う人となれるのでしょうか?これはわたしがたまに考えることですが、昨日こんなことを牧師さんから聞きました。

御言葉を行うためにはまず御言葉を読むことが必要です。そしてノートに4つのことを書きだします。
1.読んだ聖句のまとめを自分の言葉で書く。
2.神様は自分に何を伝えておられるのかを書く。
3.それに対する自分の感想を書く。
4.今日、自分は何をするべきか考えて書き、実践する。

ということです。聖書を読む前にはお祈りをして聖霊が送られてよく理解できるようにお願いしましょう。

この4つのステップをわたしも今日試してみます。












2014年1月26日
(森春香)

2013年9月15日日曜日

今日の痛み止め:罪深い習慣と中毒

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
創世記1:27

神は愛です。愛は与えることを望みます。神様は与えることを望みます。神様にかたどって創造されたわたしたち人間は、神様を愛することを望み、神様から愛されることを望むように造られたのです。人間的な条件付きの「愛」ではなく、本当の愛です。

この世の中には神様の本当の愛を知らずに、もしくは忘れてしまい苦しんでいる人がたくさんいます。

さて、創世記3:4にて、エデンの園で蛇となって現れたサタンがエバを誘惑します。サタンの目的はエバが神様の愛を疑うこと、神様の愛が嘘であると信じさせることでした。つまり、神様の品性を疑わせることで、エバの神様への愛を挑戦したのでした。サタンは神様よりも優れたものとなることができないと分かっていたので、神様についてエバに嘘をつくことで自分を良く見せようとしたのです。

サタンは、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と言いました。これは、神様が言われたこと(「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」創世記2:16)と辻褄が合いません。しかし、エバはサタンの言葉を信じることを選びました。その時、エバの心には穴があき、傷がついてしまいました。神様の愛の言葉は嘘だったと信じ、裏切られた気持ちになったからです。

そこでエバは、その心の穴を埋めるために善悪を知る木の実を食べました。ただお腹が空いていたから食べたわけではありません。サタンに騙されて、神様を疑ったときに感じた痛みを紛らわすために食べたのです。

わたしたちも、エバと同じようなことをしてはいないでしょうか?わたしたちも、サタンの嘘を信じて傷ついていないでしょうか?そして、その痛みを一時的に紛らわしたり、忘れされてくれたりするようなものにすがってはいないでしょうか?それはもしかするとショッピングかもしれませんし、食べ物、スポーツ、ビデオゲーム、ポルノ、映画、小説などかもしれません。「世間一般的に悪くないもの」にすがっても、責める人はいません。なぜなら、周りから見てそれは罪深いものではないからです。しかし、例えば、痛みを忘れるために仕事や教会奉仕にすがり、仕事や教会奉仕の中毒になることだって可能なのです。それは果たして、アルコールやたばこ、ドラッグ中毒よりもましと言えるのでしょうか?大して変わらないのではないでしょうか?

何が中毒の本当の原因なのでしょう?その原因は、無条件の愛が欠けているということです。たとえ自力で一つの中毒から脱せたとしても、何にすがっても満たされないがために、またすぐ他の中毒にはまってしまうでしょう。中毒は、神様の愛が必要なサインなのです。

神様の癒しの計画は創世記3:15に書かれています。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」

「お前」はサタン、「女」はエバ、「彼」はイエス様を示しています。「彼はお前の頭を砕き」というのは、イエス様がサタンの頭、つまり考え方や思想を砕くということです。イエス様は、人間の中にある神様への疑いというサタンの考えを砕きます。それによって、人間は神様を本当に知ることができるのです。イエス様は、十字架上にて本当の愛をはっきりと示され、サタンの思想を砕かれました。イエス様は既にサタンに勝利されているのです。その勝利に与るかどうかは、あなたの選択です。

あなたにはとても価値があります。カルバリーを見てください。イエス様は十字架に架かることを選び、血と汗と涙を流して死なれ、そして復活することによって無限の代価を支払い、あなたへの愛を公に示されたのです。信じられますか?ですからイエス様は、あなたがあなた自身をイエス様によって価値のある者として受け入れることを求めておられます。

自分でサタンに立ち向かうことに疲れていますか?あなたの心は傷ついていますか?神様に今日癒されたいと思いませんか?神様は今日あなたを癒すことができます。今日、神様のもとに来ること、神様を信じることを選んでください。

森春香

2013年7月14日日曜日

心の穴

あなたの心には穴が開いていますか?それを今までどうやって埋めてきましたか?わたしにも心の穴があります。例えばわたしがピアノで一生懸命になっていたときにコンチェルトコンペティションに応募したけど落ちたときに空いた穴、英語が上手くしゃべれなくて払いのけられたときに空いた穴、なんだか勉強に気をとられすぎて気づいたらバランスがとれていない生活をしていたとき孤独感のなか空いた穴、高校のジムナスティックのチームに挑戦したけど一年目は補欠で全く相手にしてもらえなかったときに空いた穴、何をしたいかよく分からないけどはやく進路を決めなければというプレッシャーの中で空いた穴、テスト前に人の3倍ぐらい時間をかけて勉強したのに人の半分ぐらいの点数しかとれなかったときに空いた穴。留学していて「あぁ~ただ家族と集まって夜ご飯を食べられたらな」と家が恋しくなって空いた穴。引っ越しや新しい環境、将来が不安定に見えるとき、『自分なんてどうせ』と自分がちっぽけに見えるとき、本当は寂しいけどうまく表現できなくて空回りしたり、一人で悩んだり、人間関係上手くいかなかったり、大切な人を失ったり、自分の思い描いていたことと違うことがおきてしまったとき、わたしたちの心には大きな穴が開いていくのではないでしょうか?つまりこころは傷ついているのでしょう。

わたしたちはその穴を埋めようと必死で周りにあるものを手当たり次第試す傾向があると思います。それは食べ物かもしれません、お酒かもしれません、運動かもしれません。流行りの服やバッグ、靴、お化粧品などかもしれません。かっこいい車やバイクかもしれません。もしくは噂話や自慢話、人の悪口、かっこつけてふくらませたでまかせの話かもしれません。もしくは教会に来るような人でしたら善い人に見られようと必死でいい人ぶったり、信仰深い人と思われたい、そうでありたいと必死で偽善者のように見てもらおうとやたら長いお祈りをしたり、奉仕活動をしてみたり。好かれようとお世辞を言ったり愛想笑いをしたり。どんなものであれ、なにか自分に安心感を与えてくれるものを日々わたしたちは求めるでしょう。しかし、そういうものはわたしたちを満たすことが果たしてできるのでしょうか?

私の場合は一日中たくさん予定を作って忙しくすることで自分を満たそうとしたり、食べてストレスを解消しようとしたりする傾向があります。そんな中でわたしが経験したことを今回は書きたいと思います。

わたしはサザンアドベンチスト大学に行っていたとき1年目本当に勉強ばかりしていました。12-16単位分のクラスを同じ学費でとれるのですが、とれるだけクラスをとらないと損という考え方もありましたが、わたしの場合はやたら焦っていたので3年目以外は毎学期16単位とっていました。そして音楽部でバイトもしていたのでなんだかめまぐるしい生活を送っていました。高校と比べて大学は勉強する量がかなり多くて最初は時間の管理が上手くできずに友達と過ごす時間もかなり減らしていました。気づいたら孤独感に襲われて、自分は何に追われてこんなに勉強しているのだろうと思いました。勉強を楽しんでしていないし、テストで上手くやらなくてはというプレッシャーばかりに気を取られて勉強しなくてはと寸暇を惜しんで教科書を開いて情報を詰め込もうとして、目の前にいる友達の話を聞いていなかったとそういうことをしていました。形だけの挨拶「あっ元気?わたしも元気だよ」といかにも大丈夫ですというような雰囲気をだして短く会話を済ませようとしていました。勉強すること、そしてクラスでいい成績をとることがわたしの最大の目的でした。とてもつらかったですし楽しくありませんでした。そんななかでわたしの心には大きな穴があいていましたが、何しろ勉強第一の生活でしたから、それをさらに勉強することで埋めようとし、自分の心にかまっている時間はないと忙しく駆け回っていました。わたしはノースカロライナ州の小さい高校から行ったので3000人以上も生徒がいるサザンアドベンチスト大学では私にとって人がたくさんいて、しかも知らない人ばっかりでどうすればいいか分からないという状況で、自分の居場所を探すのにも時間がかかりました。そんななかでわたしが手をだしたのはチョコレートです。昔からチョコは好きでしたが、サザンではなにか嫌な気分になったとき、落ち込んだときなどにまるで中毒のようにチョコを大量に食べていました。チョコは一瞬だけなにか安心感を与えてくれたからです。口に入れたときに広がるチョコの甘さは食べているときだけ嫌なことを忘れさせてくれる、そういうものでした。しかし、食べ終わると現実に戻ってきてしまうからまた食べる。そんなことを繰り返して気持ち悪くなるほどチョコを一度に食べてしまってお腹が痛くなって後悔する、そんなことを続けていました。あぁこのままじゃ体によくない、としばらくやめてもまた食べてしまう、そんな生活に疲れていました。どこかで「チョコは本当には自分の心を満たしてくれない」と知っていました。でもとても手軽に手に入るのでついチョコに平安を求めるというか、変な響きですけれどもそういう生活をしていました。
サザン3年目にまだチョコに頼っていたとき、ある日わたしはカート君という友達と話していたら、カート君は「今から神学部のセミナーに行くんだー」と言っていたのであとで「どんな話だった?」と聞くと「どうやって中毒に打ち勝つかっていうテーマだったよ。」と言いました。「聞いた中で何が一番印象的だった?」と聞くと彼は「たんぽぽは花だけ摘んでも根っこが残っていればまた花は咲く。中毒も症状だけ直そうとしても本当の問題と向き合ってそこを神様に直してもらわないと治らないんだよ。」と言ったのです。そしてさらにカート君は、「たとえば君がチョコレート中毒だったら持っているチョコをすべて捨てるだけじゃ解決されないのだよ」と付け足したのです。わたしはびっくりしました!なぜならそのころ、わたしは持っていたチョコを一緒にアパートに住んでいた人たちに「チョコやめようと思うから食べたければどうぞ」と上げていたからです。そしてカート君には別にチョコが好きだとかそういう話は一切したことがなかったからです。それなのに「どうしてそんなことをこのタイミングで言ったの?」とびっくりしてしまいました。そこで「チョコは自分を満たしてくれない。自分の問題を解決してくれないのにどうして繰り返しそこに戻っていくのか」というわたしのやっていた問題を神様はカート君を通してわたしに明確に示されたのです。そのことが実感できました。

エレミヤ書2章11-13節にはこう書いてあります。

「一体、どこの国が神々を取り替えたことがあろうか しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を助けにならないものと取り替えた。天よ、驚け、このことを大いに、震えおののけ、と主は言われる。まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを。」

まず聖句の前半に注目してみましょう。一体だれが本当の神様とまったく助けにならないものと取り替えますか?たとえばみなさんお店で何かを買ってそれが役に立たなかったらもっと良いものを求めてお店に取り替えてもらうでしょう。しかし、だれも「この素晴らしくよくむける皮むき器をまったく切れないさびさびの鈍った刃の皮むき器と交換してください」とは言わないでしょう。なぜならすでに自分が持っている皮むき器がよく切れると実際にジャガイモの皮をむいてみて実感し、その価値がよく分かっているからです。あなたは神様がすべての栄光を受けるべきかたであると信じますか?今も神様は生きておられ、神様があなたのことを目的を持って造られ、今日も何か神様の大きな計画の一部となるためにあなたを生かしておられることを信じますか?そのことを毎日経験していますか?神様をほめたたえますか?神様をあなたの心の中に受け入れますか?

次に13節の「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜を。」というところに注目してみましょう。ここには水溜めを「掘った」と書いてあります。掘ったということはきっと前にはなかったのでしょう。神様と一緒にいるとき、神様は生ける水の源ですから、わたしたちの中にはいつも水が流れていて、しかもあふれ出ていたはずです。神様と一緒にいるとき、聖霊にわたしたちの心は満たされて、そしてわたしたちにとどまらずあふれでていたはずです。水の源から離れたときに初めて水溜めというものが必要になってくるのでしょう。神様はいつもわたしたちと一緒にいたいのです。この水溜めというのは今の時代で近いものといえば冷蔵庫かもしれません。わたしたちはお店に毎日行かなくてもいいようにお買いものに行って、野菜や果物を買って冷蔵庫に入れておきます。しかし、神様はわたしたちといつも一緒にいたいのです。神様は『わたしは完璧な水溜をあげよう。しばらくわたしから離れても全く問題がないようにあなたのこわれた水溜めを直してあげよう』とは言っておられないです。本当の問題は水溜が壊れていることではなくて水溜めを掘ったことだと思います。神様から離れてもちょっとの間はほかのもので満たしておけるような水溜めを掘ってためておこう神様に直接行かなくてもチョコレートで一瞬幸せになれるように水溜を掘っておこうこの壊れた水溜めがどうして満たしてくれないのだろう、今度はもうちょっと違うどろっとしたものを壊れた水溜めにいれれば長持ちするだろうかそういうことを考えるのではなくて、満たされていない心の穴をどうやったら満たせるかということに意識を向けるのではなくて、神様を見ましょう。神様といることを求めましょう。

エレミヤ書3:22には「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」と書かれています。

神様から離れて他のものに頼っていることに気づいたのなら、そこで神様を見ましょう。今までそういう生活をしてきたのにいきなり無理だと思いますか?エゼキエル書には「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」と約束されています。神様は必ず助けてくださいます。神様と一緒にいることを毎日選び続けるのです。誘惑にあったとき、そこで誘惑に負けずに神様を求める強さをお祈りして神様に求めましょう。

そしてこの水溜めのことは他人との関係にも言えると思います。あなたは「あら、あなたの壊れた水溜めにはなんだか汚い不健康なものが入っているのね、わたしの壊れた水溜めにはおいしい六甲山の水がはいっているのよ」といばることはできないと思います。他人と比べて自分は壊れた水溜めを掘ったけれど、いいものが入っているからあの人よりはましといばることはできません。例えば、あの人はお酒を飲むけどわたしは水を飲んでいるわ、だからいい人だわとは言えません。壊れた水溜めを見て、もしくはその中身をみて満足してはいけません。あなたがどんなに苦労していいものを壊れた水溜めにためているかというのは大切ではないのです。大切なのは、神様が生ける水の源であるということです。

みんなで神様と一緒にいることを求めましょう。お互いけなしあうのではなくて、神様と一緒にいるように励まし合おう。聖霊を求めて心の中にいてくれるようにお願いしましょう。


イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネによる福音書4:13、14



著者:森春香

2013年7月14日

2013年7月7日日曜日

優先順位


「 何よりもまず、神の国と神の義をまず求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
マタイによる福音書6:33

わたしは今カリフォルニア州のローマリンダ大学院で理学療法士の勉強を今年6月から始めました。始めの7週間は解剖学で今は3週目が終わったところです。朝8時から午後5時まで昼休み1時間をはさんでの授業が月曜から水曜、木曜日は朝8時から3時まで、金曜日は試験が朝8時から12時までというスケジュールです。土日はお休みでまた同じことを月曜日から繰り返すという生活をしています。なかなかハードなスケジュールですがとてもやる気のあるクラスメートに囲まれて楽しく勉強しています。学校が始まる前日にオリエンテーションで理学療法部の教授たちが新入生を迎えてくれました。そんな中で一人の先生がこう言いました。「大学院にくると勉強は大学よりももっと大変になります。そんななかで皆さんは勉強のことで頭がいっぱい、時間も足りないという状況に陥るでしょう。しかしそこで大切なものまで削りだして勉強だけに没頭してしまう人がいます。家族との時間を捨て、神様との時間を捨て、気分転換する時間を捨て、友達と話す時間を捨て。。。そうしてしまうと偏った人間になってしまいます。そんなに色々やっている時間はないように見えても、ちょっとずつ神様と過ごす時間、家族と過ごす時間、友達と過ごす時間などを作ることは可能ですしバランスのとれた生活をするためにはそうする必要があると思います。」と。

わたしは自分で実際にこの人の言っていることは本当だと実感させられる出来事を体験していました。ですから今は大学院でも楽しく勉強させてもらっています。その経験はサザンアドベンチスト大学1年目2学期のときにしたものです。わたしはその学期はとれるだけの単位分のクラスをとってバイトの量も先学期より増やしてとても忙しく生活していました。そんななかでわたしと友達4~5人で水曜日の朝の祈祷会にたまに参加していました。完全に寝過ごしてしまう時もあれば勉強しないといけない、と行かないこともありましたがよく友達がしつこく誘ってくれたおかげで度々そこへ行っていました。またその週も水曜日がやってきて朝5時半ごろに「祈祷会行く?」と友達が携帯にメールを送ってきました。その祈祷会は朝6時から7時なのですが、わたしはその日は数学の微分積分のテストの日だったので朝起きて勉強しようと思っていました。そこで「あ~今日はまだテスト勉強をもうちょっとしたい、でも最近神様との時間を持っても勉強のことが気になってすぐに終わらせようとして集中できなかったりしてるなぁ。。。」としばらく葛藤していたのですが、結局その日は祈祷会に行くことにしました。『神様、わたしは今日勉強するよりも、あなたとの時間をつくりたいと思います。』と。そう思ったのは本当でしたが、正直その日は祈祷会に行ってなんだか後悔していました。『1時間も本当は勉強できたのになぁ』と思いました。7時に集会は終わって朝ごはんを食べて授業へ行って、昼ごはんを食べて1時から微分積分のテストでした。50分間のテストが始まって問題を解いていったのですが、どうしても解けない問題が3問もありました。とりあえずやってみて答えが合わないとかそういうのではなく、もはやまず何をすればいいか分からないという状況にあったのが3問もありました。そのテストは全部で7問ぐらいしかなく、1問ずつがとても点数の高い大きな問題で、3問も解けなかったら大変なことになるのはよく分かっていました。それで「あ~今朝勉強さえしていればなぁ。」などと思いながらああでもないこうでもないと粘ること45分、残りあと5分しかありません。これはもう無理だとほぼ諦めていたところいきなり先生が何か言い始めました。「みんな、よく聞いてくれ、僕が見ている限りみんなとても苦労している。僕はこのテスト範囲を良く復習する時間を持たなかったと思うから今日のテストはとりあえず回収するけど、もう一度テストを作り直すからあさっての授業の時間にこのテストを受けなおしたい人は来てください。そのテストと今回のテストの点数を比べて良い方を記録に残します。」と。びっくりしました!この先生は今までそんなことをしたことがありませんでした。同じ先生から3年目にも違う数学の授業を受けましたがそういうことは一切起きませんでした。その日、神様はわたしに個人的に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて加えて与えられる。」と語りかえてくださっているように思えました。

そんな経験から始まり、その後も数々の似たような経験を通して神様はわたしが神様をまず求めるときほかのことは心配しなくてもどうにかしてくださるということを不思議な方法で証明し続けておられます。わたしの勉強量、努力に対して全くふさわしくないほど良い成績を与えてくださってサザンを卒業し今は大学院にいます。しかし、わたしは神様を求めればそういった祝福を与えてくださるからと言った理由で神様を求め続けるということはしたくありません。わたしは学校のテストで良い点数をとれなくても、神様と歩みたいです。なぜなら、もし学校でいい成績がとれてこの世で成功しても神様と離れてしまっていては意味がないと思うからです。神様に行くべき道を示してもらえばそれが遠回りに見えようが、周りにどう思われようが、どんなにこの世で偉くて権力のある人が「それは時間の無駄だ」などと言ってきても、神様の備えられた道はベストな道で天国へ続く道だからです。わたしは目の前にあることにわたしのできる最大の努力を注ぎますが、神様はわたしにまったく違う道を備えてくださっていることだってありえるのです。だから毎日神様に聖霊を注いで心の目を開かせてあなたの道を教えてください、その道を歩ませてくださいとお祈りしていきたいです。神様を求めて日々聖書を勉強し、賛美し、お祈りして神様と歩んでください。それがこの世での最高の生き方だと思います。

2013年7月7日

森春香

2013年6月30日日曜日

ハイキング



目をあげて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。

主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。
あなたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。

詩編121編




昨日Forest Fall というところに友達とハイキングに行きました。学校のキャンパスから離れて自然に入るとなんだか忙しい生活を忘れさせてくれるようでした。連なる山をみて友達のお母さんが詩編121編のはじめ、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」と言いました。すぐ目の前のことばかりに気を取られてしまいますが、神様を見上げて助けを求めていきたいです。




2013年6月23日日曜日

真理って?

「イエスは言われた。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない。」
ヨハネによる福音書14:6

去年の夏わたしはコロンビアに行きました。サザンアドベンチスト大学からShare Himという伝道のプログラムに参加しました。そのプログラムは教会で英語からスペイン語に通訳してくれる人を通して聖書のお話を2週間半ほどするというものでした。そこでスペイン語しゃべれたらいいなと思いサザンから一緒に行った友達たちと短い聖句をスペイン語で練習したりしました。そこで通訳してくれていた人にそのことを伝えると、「ぼくの好きな聖句はこれだよ」『あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』ヨハネによる福音書8:32と言いました。

そのとき、わたしにとってこの聖句は「別に自分にはインパクトがないけどあなたはこれが好きなんだね」という程度で自分に語りかけてくるメッセージというものは分かりませんでした。そして「イエス様は自分のために十字架にかかってくださってそれによって自分は罪から自由になる」ということを言っているんだろうとさらっと表面上は理解していました。夏が終わり、学期が始まりました。

学期中に「あなたのやっていることはからっぽなのか?あなたはどこかで矛盾していますか?」という疑問を投げかけられ、わたしは自分自身の行動を見直し始めました。そしてたくさんの疑問が生まれました。始めは『そんなことない、自分は大丈夫』と言いきかせ、現実と向き合うことを避けたかったのですが、なんだかもやもや、もやもやして、すっきりしません。「神様、意味がわかりません」と言ったり「本当に自分はからっぽなのですか」と訴えたり、考え込んだり、いろんな人に突然質問したりして、アドバイスを求めたりしました。本当に悩みました。ますますこんがらがっていますと、そんななかで「イエス様を見よう」という友達がいました。「イエス様を求めれば自分の罪深いところなんか嫌というほど見えてくる。人に言われなくても分かる。」と。 

そこでわたしはイエス様をよく見ていなかったと分かりました。真実が見えていなかったのです。なぜならイエス様を見ていれば、イエス様は真実であるので真実が分かるはずです。

自分は罪人だけど、そうじゃないように見せようと頑張ったり、自分で罪から解放されようとあれこれ一般的に正しいと見えるようなことをやって、それで満足して、高慢になって、罪人であるということなど忘れてしまっている、そんなところにわたしはいました。とても危険です。自分に救う力があるかのように勘違いしていますね!教会の中にいたってそういうことはいくらでもできると思います。よいと思われるような奉仕を忙しくたくさんしてそれで『自分は良い人だ』、『ちょっとましな罪びとになったかな?』『神様の自分に対する価値がちょっと上がったかな?』など考えます。しかし神様はわたしたちの心のなかを究めておられ、わたしたちを裁かれるのも神様です。

わたしはどちらかというと、イエス様を見るよりも他人をよく見ていました。他人の言うことや反応によく左右され、自分の価値を神様ではなくて、ほかの人間によって上げられたり下げられたりすることを許していました。
しかし、真理、真実は「人間は罪人」ということ。ローマ3:9にも「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘されたように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪のもとにあるのです。」とあります。自分自身のことを罪人だと言っているとわたしはこの聖句を自分の人生に当てはめていませんでした。わたしはもともと罪人です。それは隠したってどれだけつくろったって変わらない、自分では解放できない罪の奴隷となってしまっているという真実。わたしが罪人であるということはイエス様もよ~く知っておられます。しかしそこでは終わりません。神様はわたしたちを愛してくださっていて、とても価値のある尊いものとしてくださっている。それも真実。これは他の人間があなたのことをどう言おうが、どう評価しようが、あなたが成功しようが、失敗しようが変わりません。あなたはこの宇宙の王である神様、この世界を創られたイエス様から見てとても価値があるのです。それは真実。そのイエス様が十字架にかかって罪の代価を払ってくださったので、わたしたちがお願いすれば聖霊の導きによって、罪深い性質から創りかえてくださることがおできになる。それも真実。

これらの真実を知って、そして受け入れてわたしはさまざまな思いや悩み、不安から解放されました。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」というヨハネによる福音書8:32の聖句を実際に体験したときでした
真理を知るには自分の力では無理です。聖霊が悟らせてくれるのです。聖霊がわたしたちを導いて真理を悟らせてくれます。そして真理が示されたときそれを信じるか否定するかはわたしたちの選択です。真理を知ることはかならずしも自分に都合がいいもの、いい気持ちがするものばかりではないかもしれません。だいたい間違いを指摘されていい気分がする人がいるでしょうか? とくに自分自身の存在に関わるようなものなどには敏感になってしまうでしょう。しかし自分自身に期待する必要は全くないのです。自分でなんとかする力があると思えば思うほど高慢になるし、『失敗したらどうしよう、上手くいかなかったらどうしよう』というプレッシャーも増します。

でも「自分は罪人です。」と受け入れてしまえば、そして「罪から解放できるのは自分じゃなくて、イエス様なんです。」って受け入れてしまえばまったく違う人生になるのではないでしょうか?

では、わたしたちがすべきことはなんですか?それはイエス様が与えると約束してくださった聖霊によって示された真実を日々受け止めること。日々の生活のなかで様々な出来事を通して神様は「これがあなたが罪にしがみついている問題だけど、その部分を創りかえてもいいかな?」と心に語りかけられたときに、「はい。創りかえてください」ということです。その声に聞き従うことです。自分がやりたいように行動してその声を遠ざけることだってできます。『自分は罪に浸ったままでいいんだ!』と。でもそうしているうちはわたしたちの心を創りかえてもらうことはできないのです。

どうぞ聖霊を求めて、聖霊の導きにより、イエス様を知って真実を悟ってください。そして罪人である自分のなかにある罪が示されたのなら、そこでその部分を創りかえてくださいと神様があなたの心に働きかけることをゆるし、招き入れてください。



森春香


*これは6月8日安息日にローマリンダ日本人教会で証した原稿です。西野貴基、森春香、品末拓真の3人でヨハネによる福音書14:6の道、真理、命についてそれぞれ話しました。