あなたの心には穴が開いていますか?それを今までどうやって埋めてきましたか?わたしにも心の穴があります。例えばわたしがピアノで一生懸命になっていたときにコンチェルトコンペティションに応募したけど落ちたときに空いた穴、英語が上手くしゃべれなくて払いのけられたときに空いた穴、なんだか勉強に気をとられすぎて気づいたらバランスがとれていない生活をしていたとき孤独感のなか空いた穴、高校のジムナスティックのチームに挑戦したけど一年目は補欠で全く相手にしてもらえなかったときに空いた穴、何をしたいかよく分からないけどはやく進路を決めなければというプレッシャーの中で空いた穴、テスト前に人の3倍ぐらい時間をかけて勉強したのに人の半分ぐらいの点数しかとれなかったときに空いた穴。留学していて「あぁ~ただ家族と集まって夜ご飯を食べられたらな」と家が恋しくなって空いた穴。引っ越しや新しい環境、将来が不安定に見えるとき、『自分なんてどうせ…』と自分がちっぽけに見えるとき、本当は寂しいけどうまく表現できなくて空回りしたり、一人で悩んだり、人間関係上手くいかなかったり、大切な人を失ったり、自分の思い描いていたことと違うことがおきてしまったとき、わたしたちの心には大きな穴が開いていくのではないでしょうか?つまりこころは傷ついているのでしょう。
わたしたちはその穴を埋めようと必死で周りにあるものを手当たり次第試す傾向があると思います。それは食べ物かもしれません、お酒かもしれません、運動かもしれません。流行りの服やバッグ、靴、お化粧品などかもしれません。かっこいい車やバイクかもしれません。もしくは噂話や自慢話、人の悪口、かっこつけてふくらませたでまかせの話かもしれません。もしくは教会に来るような人でしたら善い人に見られようと必死でいい人ぶったり、信仰深い人と思われたい、そうでありたいと必死で偽善者のように見てもらおうとやたら長いお祈りをしたり、奉仕活動をしてみたり。好かれようとお世辞を言ったり愛想笑いをしたり。どんなものであれ、なにか自分に安心感を与えてくれるものを日々わたしたちは求めるでしょう。しかし、そういうものはわたしたちを満たすことが果たしてできるのでしょうか?
私の場合は一日中たくさん予定を作って忙しくすることで自分を満たそうとしたり、食べてストレスを解消しようとしたりする傾向があります。そんな中でわたしが経験したことを今回は書きたいと思います。
わたしはサザンアドベンチスト大学に行っていたとき1年目本当に勉強ばかりしていました。12-16単位分のクラスを同じ学費でとれるのですが、とれるだけクラスをとらないと損という考え方もありましたが、わたしの場合はやたら焦っていたので3年目以外は毎学期16単位とっていました。そして音楽部でバイトもしていたのでなんだかめまぐるしい生活を送っていました。高校と比べて大学は勉強する量がかなり多くて最初は時間の管理が上手くできずに友達と過ごす時間もかなり減らしていました。気づいたら孤独感に襲われて、自分は何に追われてこんなに勉強しているのだろうと思いました。勉強を楽しんでしていないし、テストで上手くやらなくてはというプレッシャーばかりに気を取られて勉強しなくてはと寸暇を惜しんで教科書を開いて情報を詰め込もうとして、目の前にいる友達の話を聞いていなかったとそういうことをしていました。形だけの挨拶「あっ元気?わたしも元気だよ」といかにも大丈夫ですというような雰囲気をだして短く会話を済ませようとしていました。勉強すること、そしてクラスでいい成績をとることがわたしの最大の目的でした。とてもつらかったですし楽しくありませんでした。そんななかでわたしの心には大きな穴があいていましたが、何しろ勉強第一の生活でしたから、それをさらに勉強することで埋めようとし、自分の心にかまっている時間はないと忙しく駆け回っていました。わたしはノースカロライナ州の小さい高校から行ったので3000人以上も生徒がいるサザンアドベンチスト大学では私にとって人がたくさんいて、しかも知らない人ばっかりでどうすればいいか分からないという状況で、自分の居場所を探すのにも時間がかかりました。そんななかでわたしが手をだしたのはチョコレートです。昔からチョコは好きでしたが、サザンではなにか嫌な気分になったとき、落ち込んだときなどにまるで中毒のようにチョコを大量に食べていました。チョコは一瞬だけなにか安心感を与えてくれたからです。口に入れたときに広がるチョコの甘さは食べているときだけ嫌なことを忘れさせてくれる、そういうものでした。しかし、食べ終わると現実に戻ってきてしまうからまた食べる。そんなことを繰り返して気持ち悪くなるほどチョコを一度に食べてしまってお腹が痛くなって後悔する、そんなことを続けていました。あぁこのままじゃ体によくない、としばらくやめてもまた食べてしまう、そんな生活に疲れていました。どこかで「チョコは本当には自分の心を満たしてくれない」と知っていました。でもとても手軽に手に入るのでついチョコに平安を求めるというか、変な響きですけれどもそういう生活をしていました。
サザン3年目にまだチョコに頼っていたとき、ある日わたしはカート君という友達と話していたら、カート君は「今から神学部のセミナーに行くんだー」と言っていたのであとで「どんな話だった?」と聞くと「どうやって中毒に打ち勝つかっていうテーマだったよ。」と言いました。「聞いた中で何が一番印象的だった?」と聞くと彼は「たんぽぽは花だけ摘んでも根っこが残っていればまた花は咲く。中毒も症状だけ直そうとしても本当の問題と向き合ってそこを神様に直してもらわないと治らないんだよ。」と言ったのです。そしてさらにカート君は、「たとえば君がチョコレート中毒だったら持っているチョコをすべて捨てるだけじゃ解決されないのだよ」と付け足したのです。わたしはびっくりしました!なぜならそのころ、わたしは持っていたチョコを一緒にアパートに住んでいた人たちに「チョコやめようと思うから食べたければどうぞ」と上げていたからです。そしてカート君には別にチョコが好きだとかそういう話は一切したことがなかったからです。それなのに「どうしてそんなことをこのタイミングで言ったの?」とびっくりしてしまいました。そこで「チョコは自分を満たしてくれない。自分の問題を解決してくれないのにどうして繰り返しそこに戻っていくのか」というわたしのやっていた問題を神様はカート君を通してわたしに明確に示されたのです。そのことが実感できました。
エレミヤ書2章11-13節にはこう書いてあります。
「一体、どこの国が神々を取り替えたことがあろうか しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を助けにならないものと取り替えた。天よ、驚け、このことを大いに、震えおののけ、と主は言われる。まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを。」
まず聖句の前半に注目してみましょう。一体だれが本当の神様とまったく助けにならないものと取り替えますか?たとえばみなさんお店で何かを買ってそれが役に立たなかったらもっと良いものを求めてお店に取り替えてもらうでしょう。しかし、だれも「この素晴らしくよくむける皮むき器をまったく切れないさびさびの鈍った刃の皮むき器と交換してください」とは言わないでしょう。なぜならすでに自分が持っている皮むき器がよく切れると実際にジャガイモの皮をむいてみて実感し、その価値がよく分かっているからです。あなたは神様がすべての栄光を受けるべきかたであると信じますか?今も神様は生きておられ、神様があなたのことを目的を持って造られ、今日も何か神様の大きな計画の一部となるためにあなたを生かしておられることを信じますか?そのことを毎日経験していますか?神様をほめたたえますか?神様をあなたの心の中に受け入れますか?
次に13節の「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜を。」というところに注目してみましょう。ここには水溜めを「掘った」と書いてあります。掘ったということはきっと前にはなかったのでしょう。神様と一緒にいるとき、神様は生ける水の源ですから、わたしたちの中にはいつも水が流れていて、しかもあふれ出ていたはずです。神様と一緒にいるとき、聖霊にわたしたちの心は満たされて、そしてわたしたちにとどまらずあふれでていたはずです。水の源から離れたときに初めて水溜めというものが必要になってくるのでしょう。神様はいつもわたしたちと一緒にいたいのです。この水溜めというのは今の時代で近いものといえば冷蔵庫かもしれません。わたしたちはお店に毎日行かなくてもいいようにお買いものに行って、野菜や果物を買って冷蔵庫に入れておきます。しかし、神様はわたしたちといつも一緒にいたいのです。神様は『わたしは完璧な水溜をあげよう。しばらくわたしから離れても全く問題がないようにあなたのこわれた水溜めを直してあげよう』とは言っておられないです。本当の問題は水溜が壊れていることではなくて水溜めを掘ったことだと思います。神様から離れてもちょっとの間はほかのもので満たしておけるような水溜めを掘ってためておこう…神様に直接行かなくてもチョコレートで一瞬幸せになれるように水溜を掘っておこう…この壊れた水溜めがどうして満たしてくれないのだろう、今度はもうちょっと違うどろっとしたものを壊れた水溜めにいれれば長持ちするだろうか…そういうことを考えるのではなくて、満たされていない心の穴をどうやったら満たせるかということに意識を向けるのではなくて、神様を見ましょう。神様といることを求めましょう。
エレミヤ書3:22には「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」と書かれています。
神様から離れて他のものに頼っていることに気づいたのなら、そこで神様を見ましょう。今までそういう生活をしてきたのにいきなり無理だと思いますか?エゼキエル書には「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」と約束されています。神様は必ず助けてくださいます。神様と一緒にいることを毎日選び続けるのです。誘惑にあったとき、そこで誘惑に負けずに神様を求める強さをお祈りして神様に求めましょう。
そしてこの水溜めのことは他人との関係にも言えると思います。あなたは「あら、あなたの壊れた水溜めにはなんだか汚い不健康なものが入っているのね、わたしの壊れた水溜めにはおいしい六甲山の水がはいっているのよ」といばることはできないと思います。他人と比べて自分は壊れた水溜めを掘ったけれど、いいものが入っているからあの人よりはましといばることはできません。例えば、あの人はお酒を飲むけどわたしは水を飲んでいるわ、だからいい人だわとは言えません。壊れた水溜めを見て、もしくはその中身をみて満足してはいけません。あなたがどんなに苦労していいものを壊れた水溜めにためているかというのは大切ではないのです。大切なのは、神様が生ける水の源であるということです。
みんなで神様と一緒にいることを求めましょう。お互いけなしあうのではなくて、神様と一緒にいるように励まし合おう。聖霊を求めて心の中にいてくれるようにお願いしましょう。
イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネによる福音書4:13、14
著者:森春香
2013年7月14日
0 件のコメント:
コメントを投稿