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2013年9月5日木曜日

腰の曲がった女の人へ (腰の曲がったあなたへ)

(イエスが)安息日に、ある会堂で教えておられると、そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
ルカによる福音書13:10-13

聖書は神様の言葉です。聖書は神様が私達に伝えたいメッセージです。今回はこの短いお話から、素晴らしい教訓を学びたいと思います。18年間も体を伸ばす事のできなかった女性がいました。長年の疲れや労苦から腰を悪くしてしまったのでしょうか?それとも事故で怪我をしてしまったのでしょうか?理由が何にせよ、このお話の主人公は腰の曲がった女の人です。腰が曲がっていると言うのは、大変なことです。上を見ることができないからです。常に下、地面を見ていなければいけません。地面には何がありますか?タバコの吸殻、ガム、空きかん、空きびん、ゴミ、犬の糞…。いつも下ばっかり見ている人生は辛いと思いませんか?18年間も上を向けない人生なんて考えられますか?

あなたは、腰の曲がった女ですか?

過去の辛い経験や、苦悩のゆえにあなたの腰は曲がっていませんか?人生の汚点、失敗、悪いことばかりを見ていませんか?

できることならば、まがった腰をまっすぐにして、上を見ながら生きたいと思いませんか?

たいていのお話には、必ずヒーローがいます。このお話のヒーローはイエス・キリストです。腰の曲がった女に希望を与えたのはイエス様です。女の曲がった腰を真っ直ぐにし、18年ぶりに上を向かせてくださったのは、イエス様です。

あなたも、腰の曲がったまま歩いてないで、イエス様に出会い、治してもらったらどうですか?

たいていのお話には、ヒーローがいるように、ヒーローの墓、悪役もいます。このお話の悪役は悪魔です。悪魔は、病気、事故、けんか、その他様々の問題を常にこの世界に持ってきます。あの腰の曲がった女の人も、悪魔の持ってきた「病気の霊」のせいで、18年間も上を見る事ができなかったのです。

それと同じように、悪魔は、あなたの腰をどうにかして、曲げようとしています。悪魔は、あなたは無価値で、どうしようもない人間で、皆から嫌われていると思わせたいのです。悪魔は、あなたに上を向いてほしくないです。なぜなら、あなたが上を向いたら、あなたは夢と希望に満ちあふれて、偉大な事をするということが分かっているからです。あなたが上を向いたら、天から来る喜びと、愛と、真実に出会ってしまうからです。あなたが上を向いたら、神様があなたを愛しておられるという素晴らしい現実をあなたが知ってしまうからです。

どうか、腰の曲がったままの苦しい人生をこれ以上歩まないでください。イエス様に腰を真っ直ぐにしてもらい、上を見上げて生きていきましょう。天からの夢。天からの喜び。天からの愛。天からの真実。天からの希望。それらのものが来る上を向いて、神様を賛美しながら歩いていきましょう。

見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。
エレミヤ書32:27

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
マタイによる福音書7:7-8

人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。
ルカによる福音書19:10

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
エレミヤ書29:11

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
コリントの信徒への手紙 二 5:17

どうか、腰の真っ直ぐな人になってください。

福田ダニエル

2013年4月14日日曜日

『じーちら』の方式

あなたは自分の過ち、弱さなどに不安を持っていますか?あなたは自分の力不足、愚かなことについて落ち込んでいますか?その問題を解決するには、自分を見過ぎない事です。自分の事ばっかり見ていると否定的になって、がっかりするだけだからです。

自分だけではなく、他の人もあまり見ないようにしましょう。他人ばっかり見ていると、自分はあの人よりも立派で優秀だと勘違いしたり、あの人と比べると自分は落ちこぼれでどうしようもないと錯覚したりしてしまいます

自分も他人も見ない方がいいなら、いったい誰を見るべきなのでしょうか?答えはただ一つ。全世界の創造者であり、救い主であられる神様、主イエス・キリストです。我々が見るべき方はイエス・キリストですの他おりません。たとえあなたがクリスチャンであろうとなかろうと、ぜひ、イエス・キリストを見てください。もしあなたが自分の存在意義や生きる目的に悩んでいるのなら、私達の主イエス・キリストを見てください。

『じーちら』の方式は簡単です。イエス・キリストを『じー』とながめて、自分の事はただ『ちら』と見るだけです。『じー』とイエス・キリストを見つめた後、どうしたらもっとイエス・キリストのようになれるだろうかと自分を『ちら』と見るのです。『じーちら』の方式に従って生きていけば、あなたの人生は常に成長と発見でいっぱいのわくわくしたものになります。では、どうすればイエス・キリストを『じー』と見る事ができるのでしょうか?聖書です。聖書を読んで、勉強すれば、イエス・キリストの事を『じー』と見つめることができるのです。

『わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。』
コリント人への第二の手紙3章18節

福田ダニエル


2012年8月14日火曜日

ヨセフの人生 絵本

創世記にでてくるヨセフのお話を絵本風にしてみました。金曜日のベスパー後、長澤エイミーさん、品末拓真くん、土屋あきさん、西野貴基くん、中原莉沙さんと絵をかきました。
創世記35章23節ー46章30節までです。



ヨセフはヤコブ(父)とラケル(母)の息子で12人兄弟のうちの一人です。
創世記35:23-26

ヨセフは17歳のときにお兄さんたちと羊の群れを飼っていました。お父さんのヤコブはヨセフをどの息子よりもかわいがっていたので裾の長い晴れ着を着せてもらいました。兄弟たちはヨセフのことを憎み穏やかに話すことすらできませんでした。 創世記37:2-5
ある日、ヨセフは夢を見ます。兄たちに「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まってきて、わたしの束にひれ伏しました。」と話しました。また、「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」ともう一つの夢の話もしました。兄たちは「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」「わたしも母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すと言うのか。」とますますヨセフを憎みました。 創世記37:6-11

ある日、様子を見に遠くからやって来るヨセフをみた兄たちはヨセフを殺して穴へ投げ込もうとたくらみました。しかし兄たちの中で、ルベンは「命まで取るのはよそう。」とヨセフをかばって、殺さずに穴へ投げ込むことにしました。ルベンはあとでヨセフを助けようと考えていました。 創世記37:18-22


ルベンがいない間にエジプトへ向かってるイシュマエル人の隊商がギレアドの方かららくだに荷物を積んでやってきました。兄弟のうちのユダがヨセフを殺すかわりにイシュマエル人に売ってしまおうと提案し、銀20枚でヨセフを売り払ってしまいます。 創世記37:24-28

エジプトへ連れて行かれたヨセフはファラオの宮廷の役人、侍従長のエジプト人ポティファルに買い取られます。そこで主がヨセフと共におられたので、主人に気に入られ、家の管理を任され、財産のすべてをヨセフの手に任されました。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていました。主人であるポティファルの妻は毎日ヨセフに言い寄り「わたしの床に入りなさい」などと言い続けましたがヨセフは耳を貸さず、主人に忠実であり続けました。ところがある日、ポティファルの妻に着物を捕まれ言い寄られたのでヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げました。そのヨセフの着物を手にした妻はポティファルに「わたしにいたずらしようとしたのです。」と言いつけ、ヨセフは監獄へ入れられてしまいます。
創世記39:1-20

監獄の中でヨセフは給仕役の長と料理役の長に会います。彼らは同じ夜にそれぞれ夢を見、それぞれ意味が隠されていました。しかし彼らはその夢の意味を解き明かしてくれる人がいないとふさぎこんでいました。 ヨセフは「解きあかしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください。」と言いました。
創世記40:1-9

給仕役の長が自分がみた夢の話をヨセフにしました。「一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。そのぶどうの木には3本のつるがありました。それがみるみるうちに芽をだしたかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさしたぶどうが熟しました。ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯に絞り、その杯をファラオにささげました。」と言うとヨセフは「三本のつるは三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、もとの職務に復帰ささてくださいます。幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしは牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」といいました。
創世記40:9-15

料理役の長も夢を話しました。「編んだ籠が三個わたしの頭の上にありました。いちばん上の籠には料理役がファラオのために調えたいろいろな料理が入っていましたが、鳥がわたしの頭の上の籠からそれを食べているのです。」ヨセフは「三個の籠は三日です。三日たてばファラオがあなたの頭を上げて、切り離し、あなたを木にかけます。そして鳥があなたの肉をついばみます。」と言いました。

三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて祝宴を催しました。そして、家来たちの居並ぶところで給仕役の長と料理役の長の頭を上げて調べ、ヨセフの言うとおり、給仕役の長は職に復帰させられ、料理役の長は木にかけらました。ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さずに、忘れてしまいました。
創世記40:16-23

二年後、ファラオは夢を見ます。ナイル川のほとりにたっていると、突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がってきて草を食べ始め、その後から今度は醜いやせ細った七頭の雌牛が川から上がってきて、そのつややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまったという夢でした。もう一つの夢は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てき、その後から実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、太って、実の入った七つの穂を飲み込んでしまったという夢でした。 ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話しましたが、だれも夢を解き明かすことができませんでした。
創世記41:1-9

給仕役の長がヨセフに自分の夢を解きあかしてもらったことを思い出し、ファラオに伝えます。ファラオのもとに連れてこられたヨセフは夢の解きあかしを神様によって始めます。 つややかな、よく肥えた七頭の雌牛、また太って、実の入った七つの穂はエジプトの七年間の豊作を表わしていて、醜いやせ細った七頭の雌牛と東風で干からびた七つの穂も同じで、これらはエジプトでの七年の飢饉を表わしていました。豊作の七年の間にエジプトの国の食糧を集めさせ、その後の七年間の大飢饉に備えされるため聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせてください、とファラオに伝えます。
創世記41:9-36

ファラオと家来たちは、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と「神がそういうことみなに示されたからにはお前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにいないであろう。」とヨセフをエジプト全国の支配を任せると言い、牢屋からヨセフ出しました。
創世記41:37-52



エジプト全国に七年間の大豊作、そしてその後七年間の大飢饉がおこります。エジプト全国にはどこにでも食物があり、世界各地から穀物を買いくる人々がいました。ヤコブはエジプトに穀物があると知って、息子たちにエジプトに行くようにと言います。 エジプトへやってきた兄たちをみてヨセフは一目で兄たちだと気づきましたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で「お前たちはどこからやって来たのか」と問いかけました。
創世記41:53-42:7




ヨセフは通訳を通して兄たちと話しましたが、「お前たちは回し者だ。」といい三日間兄たちを牢獄に監禁し、「お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。」と言いました。兄弟のなかからシメオンが選ばれ、縛り上げられ、残りの兄たちはカナン地方へと帰ります。ヨセフは兄たちの袋に穀物を詰め、支払った銀をめいめいの袋に返すようにと人々に指示し、そのとおり実行されました。
創世記42:7-28



帰りの途中の宿で兄たちが穀物の入った袋をあけてみると袋の口のところに自分の銀があるのを見つけ驚き「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」と言い恐ろしくなります。父ヤコブのところへ帰り、すべてのことを報告します。
創世記42:28-36

父ヤコブは「お前たちは、わたしたちから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上紅谷民までも取り上げるというのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ。」とベニヤミンを連れてエジプトへ再び行くことをなかなかゆるしませんでした。しかしルベンやユダの説得の下、そしてユダが保障をとるという約束のもとベニヤミンを連れて再びエジプトへ旅にでます。
創世記42:36-43:14

ベニヤミンを連れてもどってきた兄たちをみたヨセフは執事に料理を調えさせます。父親ヤコブのことを尋ね、またベニヤミンを見つめ弟懐かしさに、滑が熱くなり、涙がこぼれそうになったヨセフは急いで席をはずし、奥の部屋で泣きました。そのあと平静を装い「さあ、食事を出しなさい」と言いつけ、兄弟たちを年齢順に座らせたので兄たちは驚いて互いに顔を見合わせました。料理が運ばれ、食事を楽しみました。
創世記43:16-43:34

次の朝、一行は見送りを受け、ろばとともに出発しました。ヨセフの命令により執事がベニヤミンの穀物の袋の口に銀の杯、穀物の代金の銀をいれます。町へ出て、まだ遠くへ行かないうちに執事は彼らを追いかけ、ヨセフに言われた通り「どうして、お前たちは悪をもって善に報いるのだ。あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか。よくもこんな悪いことができたものだ。」と言い、ベニヤミンの袋から銀の杯を発見します。 杯が見つかった袋の持ち主が奴隷にならねばならないと言われ、兄たちは一同ヨセフのもとへ帰りひれ伏します。
創世記44:1-44:14

ヨセフはベニヤミンだけが奴隷になればいいと厳しく言いますが、兄たちは昔自分たちがヨセフを売り払ってしまったこと、父親ヤコブにはこのベニヤミンが家へ帰ってくることがとても大切であることを話します。そしてユダは自分が代わりに奴隷として残るかわりにベニヤミンをどうか父のもとへ帰してほしいと嘆願します。ヨセフは平静を装っていることができなくなり、そばで仕えているものたちに出ていくように伝え、兄弟たちの前で自分の身を明かします。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今はわたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」と言い、兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣きました。そしてカナンの地にいる父ヤコブとその家族をエジプトへ連れてきて、エジプトの最良のものを与えよう、と父親をエジプトの地へ招きました。兄弟たちはヤコブのもとへ帰り、ヨセフのことを話すと、ヤコブは気が遠くなって「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」といいエジプトへ下ります。ゴシェンでヨセフは父ヤコブと再会し首に抱きつきしばらく泣き続け、ヤコブは「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」と言いました。
創世記44:17-46:30



著者:森春香 
編集者:中原莉沙
8/14/2012

2012年5月10日木曜日

聖所って何?

  聖所を理解する事で聖書の予言、教会の使命、神様の計画をもっと理解する事ができます。聖所とは、旧約聖書でイスラエルの民が神様を礼拝し賛美するために使っていた場所です。詩篇に書かれているアサフの歌を少し読んでみましょう。


アサフの歌 “神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。”
詩篇73編1-3節
アサフは悪しき者が栄えるのを見てねたみ、不満でした。
見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。
詩篇73編12節
アサフは、なぜ悪しき者が安らかで幸せそうな人生を送っているのか、と疑問に思ったのです。悪しき者を見てうらやましく思いました。自分も悪いことをして、安らかで豊かな生活がほしいと思ったのでしょう。悪い事をしている人たちが満ち足りた生活をしていたら、それは誰だって不思議に思い、又うらやましく思います。しかしアサフは神の聖所を見て、その考えが変わりました。神の聖所に行き、自分が悪しき者になる必要がないと理解し、納得したのです。
わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
詩篇73編17節
 そうです。アサフは神の聖所を見る事で、悪しき者の終わりを悟ったのです。さらにアサフは、正しく清い道を歩くほうが結果的にはいい未来につながる、と聖所を通して理解しました。
神よ、あなたの道は聖である。われらの神のように大いなる神はだれか。
詩篇7713節 新共同訳聖書 7714
詩篇77章13節を読みますと、『あなたの道は聖である』と書いてあります。しかし、もとの言語(ヘブライ語)で読んでみますと『聖』は『聖所』とも訳せます。要するに、『あなたの道は聖所である』とも言い換えられるのです。大いなる神様の道は聖所なのです。では一体なぜ聖所が神様の道なのでしょうか?聖所はそんなに特別なのでしょうか?出エジプト記に素晴らしい話が書いてあります。モーセとイスラエルの人たちがエジプトを出て荒野をさまよっていた時、神様はこう言いました。
また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。
出エジプト記25章8節
聖所が作られた理由は、神様がイスラエルの民と一緒に住みたかったからなのです。更に出エジプト記を読んでいきますと、イスラエルの民が聖所を神様のために作り、神様が聖所の中で暮らしていたという事がわかります。出エジプト記40章には聖所の中に置いてあった物、そして神様がイスラエルの民とどの様に暮らしていたのかが書いてあります。出エジプト記40章34-38節によりますと、聖所は神様の栄光で満ちており、荒野の中をさまようイスラエルの民は暑い日中は雲に覆われ、冷え込む夜は暖かい火で守られていました。なぜなら、神様が彼らと共に暮らしていたからです。
神様は今日でも、我々と一緒に暮らしたいのです。しかし、聖所は我々の近くにはありませんし、これを読んでいる多くの方はイスラエル人ではありません。でも心配はいりません。イエス・キリストの十字架での犠牲により全人類に、場所や人種に関係なく神様と共に暮らすチャンスが与えられているのです。詩篇77編13節にある通り、聖所は神の道です。聖所の中に置いてある物は一つ一つに深い意味とメッセージがあります。聖所のことをもっと勉強し、理解する事で我々の人生の目的や救いの計画、教会の歴史の流れ、イエス・キリストの人生について分かりやすく、更に詳しく理解する事ができます。ですから、これからいくつかの記事を通して共に聖所について学んでいきたいと思います。聖所シリーズを楽しみにしていてください。それまで日々祈り、楽しみながら聖書研究をして毎日を過ごしていきましょう。
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真 
05/10/2012

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2012年5月9日水曜日

聖所の間取り図

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2012年4月13日金曜日

炎の神様??


ある人たちは地獄と聞いて、罪を犯した人たちが永遠に炎の中で燃やされる事をイメージします。しかし、神様が本当に愛の神様であるのなら、この地球での短い人生で犯した罪の罰として、罪人たちを炎の中で永遠に燃やすことは不公平で極端だと思いませんか?本当に罪人は地獄で永遠に燃やされ続けるのでしょうか。地獄にいる人々が炎に燃やされているのを知っていながら、救われた人々は天国で楽しく生きることなどできるのでしょうか?聖書は地獄について何と教えているのでしょう。

実は聖書によると、罪人たちが永久に燃えることはないのです。罪人たちはいずれ炎に負け、消えてしまうのです。なぜかと言いますと、神様は神様を受け入れた人、つまり義人だけに永遠に生きる権利と力を与えたからです。罪人が永遠に炎に燃やされ生き続けることはないのです。

世の終わりの時に裁判があります。神様が一人一人の人生を見て、天国に入るのにふさわしいかを決めるのです。天国に入る権利はイエス・キリストを信じて、救い主として受け入れる事です。そして、キリストの約束と力によって天国はあなたに現実のものとなるのです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネ3章16節

このようなたとえ話があります。罪はガソリンで、神様は炎です。炎をガソリンに近づけたら、ガソリンに引火します。ガソリンを持ったまま火に近づくのは危険極まりないことです。同じように、罪を持ったままの私たちを神様が完全に抱きしめる事はできないのです。神様はあなたの事を愛しており、すぐにでもあなたのことを抱きしめたいのに、それができないのです。

罪とは、神様と聖書に反する事を行う事です。罪を捨てるのは決して簡単なことではありません。それは自分一人でできることではなく、神様の助けが絶対に必要になります。罪を捨てたいと思うのなら、神様に助けを求めて下さい。神様が助けてくださいます。すぐに罪から離れることはできないかもしれませんが、それでもあきらめずに助けを求め続けるのならば、神様はあなたに罪を捨てる勇気と信仰をくださいます。常に真実のために生きる、という輝かしい人生をあなたに与えて下さるのです。今、ガソリン(罪)を捨てて愛の炎である神様と共に生きる決心をしましょう。

わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。

ヘブル人への手紙12章29節

ガソリン(罪)を捨てると決心したら私たちはどうなるのでしょうか。炎の神様に焼かれずに一緒に暮らす方法は自分も炎の一部になる事です。罪を捨てると決心したのなら、私たちはイエス・キリストの力によって愛と真実のために燃える(生きる)事ができるのです。

あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。

イザヤ書43章2節

ダニエル書3章で、三人の若者は金の像に拝まかった結果、ネブカデネザル王に燃える炉の中へ投げこまれてしまいました。しかし、三人は焼け死ぬどころか火傷一つしませんでした。なぜなら、三人は日々神様と共に人生を歩んでいたからなのです。彼らは既に、神様と一緒に燃えて(生きて)いたのです。もっと詳しい話はダニエル書3章をご自分で読んでみて下さい。

シオンの罪びとは恐れに満たされ、おののきは神を恐れない者を捕えた。「われわれのうち、だれが焼きつくす火の中におることができよう。われわれのうち、だれがとこしえの燃える火の中におることができよう」。正しく歩む者、正直に語る者、しえたげて得た利をいやしめる者、手を振って、まいないを取らない者、耳をふさいで血を流す謀略を聞かない者、目を閉じて悪を見ない者、

イザヤ33章14,15節

イエスキリストをあなたの救い主として心から受け入れ、信じるのならば、私たちは炎に燃やし尽くされる事はないのです。しかし、ガソリン(罪)を持ったままでは、私たちは焼き尽くされてしまいます。先ほど書いたとおり、罪人は永遠に燃やされ続けるのではありません。ガソリン(罪)と共にこの世界から完全に消え去るまで燃えるのです。罪がこの世界から跡形もなく消え去る事が本当の地獄なのです。焼き尽くされずに、炎(神様)と共に永遠に燃え続ける(生き続ける)のはキリストを救い主として受け入れ、真実のために生きる者たちです。神様と共に愛と真実と喜びに永遠に生き続ける場所こそが天国なのです。永遠に炎の中で燃えるのは、罪人ではなくて、義人です。あなたは愛の炎であられる神様と永遠に暮らす準備はできていますか?



04/12/2012

作者:福田ダニエル

編集者:品末拓真



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磁石の神様と私

“次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。”
ローマ3章10,23-24節

磁石にはPositive (+)とNegative(-)が在ります。(+)と(-)がくっ付きます。しかし、(+)と(+)を無理やり押したら一緒になりますが、いずれ反射して離れてしまいます。同じように、神様が(+)だとします。そして、私が(-)だと認めない限り、神様とくっ付きません。私の自分の罪を認め、自分の弱さ、間違い、不完全さを認めて、初めて神様とくっ付く事ができるのです。逆に自分は(+)と言い張っていると神様とはくっ付きません。自分は正しい、大してひどい罪もしてないし、ひかくてきに強いし、神様の助けなしで義人になれると言ってたら、神様とくっ付きません。この磁石の世界も永遠には続きません。いずれは、裁判が起きます。(-)と認める人たちは、神様に完全にくっ付き、支えられ、永遠の命をもらいます。そして、(-)と認めないで、自分は(+)だと言い張って、神様に反射して、抵抗ばっかりするものも居ます。いずれは、この抵抗にも終わりが来ます。抵抗ばっかりして、神様にくっ付かない者は、永久にくっ付かないようになってしまいます。反射してばっかりいると本当に、命の手綱である神様から永久に引き離されて、永久にくっ付くチャンスを失ってしまいます。ですから、今、まだ時間あるときに自分は(-)だと認めて神様にくっ付きましょう。素直に、神様なしでは、幸せに生きていけないと認めましょう。
                キリストが今度地球に帰って来られる時に、最後の裁判が起きます。神様とくっ付くと決めたものは、永遠にくっ付き二度と神様から離される事はありません。喜び、愛、真実、希望、平安、楽しさ、と笑いで満ちあふれた天国での永遠の命です。一人でも多く、神様とくっ付くと決意する人が増えるようにと日々祈っています。共にがんばりましょう。

04-08-2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

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2012年3月30日金曜日

サタンに勝つ Part 2


「あなたの御言葉は、わたしの道の光。私の歩みを照らす灯。」詩編119:105

前回は「自分達だけではサタンの誘惑には勝てないが、神様によって罪を克服し、神様と共にサタンに反抗すれば、サタンは逃げていく」という答えを見つけました。今回は更に詳しく、どうやって神様と共にサタンに打ち勝つかという事をお話していきます。

サタンにどうやって戦うかを学ぶときはマタイ4章1〜11節を読む事をお勧めします。ここではイェス様がサタンに誘惑を受ける場面が記されていて、クリスチャンの方なら何回も読んだ事があるはずです。イェス様はヨルダン川でバプテスマを受けた後、サタンから誘惑を受けるために荒野で40日間断食をしました。
普通に考えると40日間断食するのは不可能です。これは神様による力と助けによって長い期間断食する事が出来た、と聖書の授業で学びました。さて40日間断食した後、イェス様は空腹を覚えられました。身体的に限界に達し、精神が一番弱いときです。するとその機会を待っていたかのように、サタンが登場し、イェス様が地球でするべき事、つまりわたしたちの罪の身代わりなる事、を止める為に誘惑します。しかしイェス様はそんな状況のなかでも3つの誘惑を克服し、サタンに勝利します。

ここでサタンの3つの誘惑とそれらに対するイェス様の3つの応答を分かりやすくまとめてみました。

. 食欲の誘惑
「神の子ならこれらの石をパンになるよう命じたらどうだ。」
               ↓
「『人はパンで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』」

神殿の屋根の端での誘惑
「神の子なら飛び降りてみたらどうだ。『神があなたのために天使達に命じると、あなたの足が石に打ち当たることの無いように、天使たちは足であなたを支える。』            
               ↓
「『あなたの神である主を試してはならない。』と書いてある。」
. 非常に高い山で世の全てと反映ぶりを見せてからの誘惑
「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんなに与えよう。」
               ↓
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』と書いてある。」


こう見てみるとイェス様は本当に強いと感心します。彼だったからこのような言葉によってサタンを打ち負かすことが出来た、と考えることもできます。
しかし、もう一度良く見てください。イェス様のそれぞれ応答の最後に「に書いてある。」というフレーズがあります。実はイェス様によるこれらの応答がどこに書いてあるか今でも見つけることができます。どこでしょう?聖書の申命記です。次のグラフを見てみてください。


「『人はパンで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』」マタイによる福音書4:4
               ↓
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたの先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンで生きるのではなく、人は主の口から出る全すべての言葉によって生きることを知らせるためであった。」申命記8:3

「『あなたの神である主を試してはならない。』と書いてある。」
マタイによる福音書4:7
               ↓
「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してみてはならない。」申命記5:16     
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』と書いてある。」
マタイによる福音書4:10
               ↓
「あなたの神、主を畏れ、主のみに仕え、その御名によって誓いなさい。」
申命記6:13


イェス様はこれらの聖句の意味を知り、覚えていたのでサタンの誘惑にあったときでも罪を犯さず、正しい道を選ぶことが出来たのです。またこの大きな誘惑を乗り越えてから、イェス様は伝道をはじめたのも事実です。私達もイェス様のように聖句の意味を知り、覚えていればサタンの誘惑にあっても、罪を犯すことはありません。なぜなら「あなたの御言葉は、わたしの道の光。私の歩みを照らす灯」だからです(詩編119:105)。

この聖句は暗闇の中にある山道の事を考えると、理解出来ると思います。私達がこの山道を歩くとき、光がないと色々な凸凹に足をつまずけて転んでしまいます。これは私達の人生を歩むなかで、サタンの誘惑にあって罪を犯すという事に当てはまります。反対に光があれば私たち道の凸凹が見えて転ぶことがありません。この光というのは聖書に書かれている言葉一つ一つであり、これらが私たちに真実、正しい道を示しています。聖書の言葉に従えば、正しい判断ができるので、サタンの誘惑があっても罪を犯すことがないのです。サタンの誘惑に勝つ方法、それは神様を頼りにして神様の御言葉、聖書の言葉の意味を知り、覚える事です。そうすれば私たちは正しい事と悪い事を判断できるようになり、神様が私達を守るので、サタンがイェス様から離れ去ったように彼は私達からも離れ去って行くのです。ですから日頃から聖書を勉強し、覚える事は本当に大切なことなのです。

今、何人のクリスチャンが日頃から聖書を勉強して覚えているでしょうか。自分もこの記事を書く前は聖書を毎日読む事は出来ていませんでした。それが原因で正しい判断が出来ずに罪を犯してしまったこともたくさんありました。でもこの記事を書いている間、聖書を読むことの大切さと神様の言葉の強さに気づくことが出来ました。今こそみんなで心を新たにして聖書に立ち返るべきです。クリスチャンとしてサタンの誘惑を乗り越え、神様の愛の世界中の人に伝えましょう。


2012年3月30日 西野貴基





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2012年3月28日水曜日

落胆したペトロの心理

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」ルカによる福音書 22:33,34
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」 ルカによる福音書 22:61,62

      わたしは今学期心理学のクラスをとっているのですが、そこでFrustrationというものを学びました。Frustrationというのは落胆、挫折、失望といった意味で、なにか目標があったのにそれが達成できなかったときの気持ちを表しています。このFrustrationというものを聖書の話に当てはめて考えてみてという課題がでました。そこでわたしが選んだのはイエス様の12弟子のひとりであったペトロの話です。
      ペトロはイエス様の弟子になる前は兄弟のアンデレとガリラヤ湖で漁師をやっていました。そこにイエス様がとおりかかり「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言いました。(マタイによる福音書4:18)そこでペトロとアンデレは漁師の命とも言える網を捨ててイエス様に従いました。イエスの弟子となったペトロはユニークな彼の性格をたびたび見せます。ペトロは12人の弟子のなかでもとくにイエス様と親しい弟子でした。ペトロは「イエス様に従いたい!」という気持ちが強くそれを表現することをおそれませんでした。(マタイによる福音書13:22-33)そしてイエス様が彼の救い主、そしてすべての人の救い主であるということをわかっていました。(マルコによる福音書 8:27-30)ある意味早とちりしがちなペトロですが、イエス様が十字架にかけられる前に弟子たちと食事をしているとき、ペトロは「たとえ牢にいれられても死んでもイエス様、あなたについていきます!」と言いました。ところがイエス様はペトロが三度自分のことを知らないと言うだろうとペトロに伝えます。イエス様の言われたとおり、ペトロはイエス様が捕えられたあと三度も「イエス様を知らない」と言います。そこでペトロは捕えられたイエス様に出会い、イエス様に見つめられます。ペトロはイエス様が前に言った言葉を思い出し、「激しく泣いた。」と聖書に書かれています。
      わたしはこの話を聞くたびに感情が先走ってできもしないことを宣言するペトロという弱いペトロのイメージしかありませんでした。しかし、Frustration、という視点からみたとき、ペトロはイエス様にたとえ死ぬことになってしまっても従いたいという強い目標があり、本当にイエス様のことを愛していたからこその落胆だったのではないかと思いました。もしペトロが口先だけで死をも覚悟してついていきます、と言っていたのなら、たとえその目標が達成できなかったとわかっても、激しく泣いたということはなかったはずです。このペトロの落胆した様子は彼が心からイエスに従いたいと思っていたということを表すのではないでしょうか?
      みなさんはどう思いますか? 

森 春香
2012年3月28日



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2012年3月5日月曜日

塩人間

塩人間 
マタイ5章13節
あなた方は、地の塩である。もし塩の効き目がなくなったら,何によってその味が取り戻されようか。もはや、何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。
INTRO
私たちクリスチャンは、塩人間です。本来のクリスチャンはみんな塩人間として生活するべきなのです。さて、塩人間とは何でしょうか?最近の研究によりますと、塩はなんと14,400以上の使い道があるらしいです。今日は、そのうちの五つの使い道を私たちクリスチャンの生き方と比べてみたいと思います。
BODY
1.塩は、塩っ辛い。(ヨハネ4の14)私たちは、塩っ辛い人生を生きる使命があるのです。それは、私たちの塩っ辛さのあまりに私たちの周りの人たちが皆、私たちの日々の生活を見るだけでのどがからからになることです。しかし、わたしたちは、水ではありません。私たちの主イエスキリストこそが命の水です。塩っ辛い人生を生きてこの世界を命の水、イエスキリストに導きましょう。
2.塩は味がある。この悲しくてむなしい世界に希望、愛、優しさと楽しさで味つけしましょう。本当のクリスチャンは世界一、愛と希望と楽しさであふれる心を持っているはずなのです。あの独特のすばらしいイエスキリストの味でこの世界に愛と希望を伝えましょう。
3.塩は、氷を溶かす。この冷たい世界をキリストの愛と真実で溶かしましょう。人の心の周りに固まっている氷をキリストの愛と真実で優しく溶かしましょう。悲しい現実ですが、私たちの教会の中にも冷たくて、氷のような人がたくさんいます。私たち塩人間としてキリストの力によってお互いの氷のような心を溶かしあいましょう。そうすることで、神の聖霊が居心地よく私たちの心に住めます。
4.塩は、清めのシンボル。日本の伝統ではよくお葬式や誰かが亡くなられた時、家に入る前に塩を頭や肩にまきますよね。実は、ユダヤの習慣でも塩は清めのシンボルとして昔から使われていました。神様は我々クリスチャンを清めの塩としてこの世界へまいているのです。ですから、私たち塩人間として、死から解放されるという希望を伝えていきましょう。世の中の清めの塩になるために、神様は私たちを古い人生から清められました。
5.塩は、一粒一粒、固まりなし。塩同士固まってもあまり効果的じゃありません。逆に塩っ辛すぎて味はまずいし、健康にも悪いです。塩は、広がって味のないところで味付けし、氷のあるところを溶かし、清めの希望をもって前へ突き進むべきなのです。(マタイ24の14)全世界にキリストのみ国の福音を伝えましょう。(マタイ28の18-20)行け!!全世界の人間を命の水の元に連れてゆこう。塩人間として全世界の人ののどをからからにして、命の水、イエスキリストのもとにつれてゆこう。
CONCLUSION
·             私たち、クリスチャンとして、辛くて、味があって、氷を溶かして、清めの希望を持って、広がった塩人間になるのが使命だというのがわかりましたか?
·             この悲しくて、希望のない世界、友達,家族にキリストの力によって喜びと希望を与えたいと思いませんか?
·             あるところに、二つの町がありました。ひとつの町は、塩がたくさんあり、わりと裕福な暮らしをしていました。もうひとつの町も、わりと裕福な暮らしをしていました。しかし、この町は、ひとつ重要なものが足りませんでした、それは、塩です。塩がないために、その町は、時間がたつと同時に、病気が増えていきました。しかし、もうひとつの塩が豊富な町は何もしませんでした。また時間がたつと、塩のない町は、塩のほしさのあまり頭がおかしくなり、ノイローゼになり始めました。しかし、またも、塩が豊富な町は、何もしませんでした。更に時間がたつと、今度は、塩が摂取できないために塩のない町の人々はばたばたと死んでいきました。しかし、それでも、塩が豊富な町は何もしませんでした。そのうち、塩の豊富な町は、塩の使いすぎと食べ過ぎによる病気で、どんどんと死んでいきました。結果的に、塩が広がってないために、二つの町は、どちらも滅んでしてしまいました。
·             あなたはどうですか?この味のない、氷のように固まった世界を溶かして聖霊の力によって味付けしませんか?今こそ塩人間として、クリスチャンとして、人を命の水、イエスキリストのもとに連れていくべきではないでしょうか?
·       もっと効果的な塩人間として用いられるように神様にお祈りしましょう。
アーメン
福田ダニエル
03・04・2012

2012年2月23日木曜日

お伝聖トライアングル

(お)はお祈りの(お)です。(伝)は伝道の(伝)です。(聖)は聖書の(聖)です。
幸せで楽しい人生を生きたいのなら、お祈り、伝道、聖書研究をお勧めします。三角形と同じように一角でもかけたら、ほかの二つもいずれは形を崩し、バランス無くして三角形ではなくなります。
この三つを食事にたとえれば、聖書が食べ物です。そしてお祈りが料理のしたくです。料理は心をこめて、じっくり考えて作ったほうがたいていおいしいものです。同じように、聖書を読む前にはじっくり、心をこめてお祈りしましょう。お祈りなしでは、たいてい聖書研究してもおいしくないし、元気も出ないし、効果的ではありません。ですから聖書を食べる前に、神様が聖書を理解するために知識を与えてくださるように心をこめてお祈をすることが大切です。
さて、食べたすぐ後は、どうしますか?すぐに寝たら牛になる、とよく言いますよね。食べた後、一番いいのは、軽い散歩です。30分ぐらいの散歩すれば、体全体の健康と消化にとてもいいらしいです。同じように、聖書研究をした後は、軽い散歩をお勧めします。どういうことかと言いますと、聖書で学んだ事について考え、学んだ事がどう自分の人生に影響するか、どうやって日々の活動のなかで実行するか、そしてどうやったら学んだ事を周りの人たちのために使えるか考えてみてください。

健康的な人生を生きるには、毎日運動をしなければいけません。食べて寝てばっかりでは太ってしまいます。人間は散歩だけではなくて、汗を流すような運動が毎日必要なのです。ですから聖書研究をした後は汗水たらして伝道をしましょう。聖書で覚えた事を友達、家族、仕事場の人たち、近所の人たちに伝えてみてください。正式な聖書研究やお説教でなくても大丈夫です。友達として簡単に聖書や、イエス様、天国、また救いについて語るのも伝道です。伝道することで、自分が学んだ聖書の知識が体の中で消化され体の一部となるでしょう。
お祈り、伝道、聖書研究。これからおでんや三角形のものを見るたびにこの話を思いだしてください。
もっと深く。。。
A. お祈り
伝道なしでは、お祈りの本当の力と必要さを理解する事は出来ません。聖書研究なしでは、神様の声を聞くのが難しくなります。お祈りだけでは、同じお祈りの繰り返しになって、自分のことばっかり祈ってしまいます。お祈りは、具体的、個人的にほかの人の事を考えながらお祈りすれば、やりがいが出ます。

B. 伝道
お祈りなしで伝道するのは、準備体操なしでマラソンを走るようなものです。体中筋肉痛になります。また体を壊してしまうかもしれません。伝道ばかりやりますとおなかがすきすぎて体力なくし、倒れてしまいます。ですから、ちゃんとしっかり聖書を食べて、お祈りを通して霊的な休みを神様からもらうように毎日時間を作ってください。

C. 聖書研究
あわてて食事をすると消化に良くありません。食べるときはちゃんとゆっくりかんで、味わって食べた方がおいしいですよね。一口一口味わうように、一つ一つの言葉を考えながら聖句を読むと聖書も味わい深くなります。いくらにんじんやブロッコリーが体によくても、それだけ一日中休みなく食べたら消化に良くありません。食べるだけではなく、体を動かす必要があります。同じように、聖書研究をしたら、学んだことを周りの人に伝え、そして周りの人たちがちゃんと聖書を理解し、キリストを受け入れる決心をするようにお祈りしてみてください。

お祈り、伝道、聖書のバランスをとって生きてください。お祈り、伝道、聖書研究。これから三角形のものを見るたびにこの話を思いだしてください。
今日、神様からお祈りする心、伝道する勇気、また聖書を学ぶ知識を求めましょう。イエス様はもうすぐ帰ってこられます。共にがんばりましょう。

02-23-2012
福田ダニエル


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2012年2月18日土曜日

人生って不平等?

この地上には空しいことが起こる。善人でありながら悪人業の報いを受けるものがあり悪人でありながら善人の報いを受けるものがある。これまた空しいと、わたしは言う。
コヘレトの言葉 8:14

みなさんはこの世の中は平等だと思いますか?むしろ「世の中、本当に不平等だ」と思う人が多いと思います。このコヘレトの言葉が言っているようにいつも周りの人にやさしく人のために尽くしているような素敵な人が重い病気にかかったり、思わぬ事故にあったり、かと思えば他人に当たり散らしやりたい放題生きている人が権力をにぎり経済的に理想的な生活を送っていたり。一生懸命頑張ってきた人が上司に嫌われ、本当は遊びほうけているのにうわべのつくろいが上手な人が好かれたり。などなどあげればきりがありません。

それでは、この不平等に見える人生、わたしたちはなにをするべきなのでしょうか?善い行いをしても報われないことが多いこの世の中で、それでも善いことをする必要があるのでしょうか?

わたしにとって、努力したことが報われなかったというのは一番の屈辱です。あれほどの時間と労力を使ったのにどうして、、、という気持ちでいっぱいになります。さらに明らかに自分より努力しなかった人が自分より良い結果を残したときなどは、「あの人は本当はそんな結果をもらうのに相応した努力をしていないんだ!」と世の中に大声で伝えてしまいたい気持ちです。そこで、わたしたちは同情を求めて友達にその出来事を話したりうっぷんを晴らそうとぐちをこぼすのではないでしょうか?その状況をよくわかっている人が同情してくれたとき、その状況は変わらなくても、なんとなく報われたような気分になることがあります。

実は、天の神様はわたしたちのすべての行いをみておられます。そして善い行いを必ず将来報いてくださると約束しています。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」とイエスキリストという人が言った言葉が聖書のマタイによる福音書という箇所の5章12節に記されています。わたしたちが報いを受けるのは近い将来じゃないこともありますが、その報いを受けられる日を楽しみに良いことを日々つづけていきたいですね。

02-18-2012
森春香

私の隣人とは誰ですか?


彼(律法学者)は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イェスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命(永遠の命)が与えられる。」しかし彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。ルカ10:27−29

もしあなたがクリスチャンだったら教会で「隣人を愛しなさい」というフレーズを何回も聞いた事があると思います。いつも聞き流していまそうですが実際あなたにとって隣人とはどのような人かと考えたことはありますか?友達が隣人でしょうか?それとも家族、もしくはクリスチャン?もしくはイェス様の事を知らない人も隣人なのでしょうか?イェス様はその質問に対して分かりやすく「善きサマリア人」というたとえ話を用いて答えています。

皆さんご存知のようにこれはある人がエルサレムからエリコへ向かう途中が強盗に遭遇し半殺しにされます。私たち(旅人)は人生(エルサレムからエリコへの道)を歩む中、強盗(サタン)に色んな方法によって傷つけられます。時にはその傷から立ち直れない事もあります。しばらく時間が経って旅人が道に横たわっていると、祭司とレビ人が通りかかります。当時、祭司は教会を上に立つリーダーであり、聖書の言葉を日頃から読み、人々に説いていました。同じように、レビ人は神殿で儀式に携わる神殿のアシスタントで毎日聖書の言葉を聞いていました。しかし神の御言葉を毎日読んで、神殿に貢献していたのにも関わらず彼らはユダヤ人かサマリア人かも確かめず道の反対側を通り過ごしてしまいます。彼らは聖書に書いてある隣人を愛しなさいという事を日々の生活の中で実行しなかったのです。

最後にサマリア人が旅人にもとにやってきました。サマリアはエルサレムの北に位置しイスラエルの一つの町でした。しかしアッシリアの王によってサマリアは占領され、王はそこにいたイスラエル人を連行し、イスラエル人の代わりに異邦人たちを連れて来てサマリアに住ませました。移された当時の異邦人は神様を信じるとともに、移される前に行っていた宗教の風習にしたがって彼らの神々をも信じていたそうです。(列王記下17章)このような歴史的背景もありサマリア人はユダヤ人に混血、信仰から外れたものとして軽蔑、差別され、お互いに挨拶を交わさないほど対立していました。そんな状況のなかで、たとえ話の中のサマリア人は倒れている旅人を見つけると憐れに思い、その人を助け介抱したのです。彼はユダヤ人かサマリア人かも気にせず愛をもってこの旅人を助け、宿に連れてその人のためにお金も払いました。

たとえ話をはなした後、イェス様は律法学者に「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったかと思うか。」と言うと、律法学者は「その人を助けた人です。」と答えました。彼もサマリア人を嫌っていたので「サマリア人」とは言いませんでしたが、彼は誰が彼にとって隣人かを理解しました。そしてイェスは彼に「行ってあなたも同じようにしなさい。」と言われたのです。私たちの隣人とは誰でしょう。それは 友達、家族、教会の人だけではありません。同じ人種、歴史的背景、環境を持っている人たちだけでもありません。このたとえ話が私達に教えているのは隣人とはサタンによって苦しめられ助けも求めている全ての人達の事なのです。これは人種、宗教、歴史、文化、クリスチャンかそうでないかなどに関係するものではありません。だから私たちは,この人が教会に来ていないから自分の隣人ではない、昔こんな悪い罪を犯したから自分の隣人ではないなどとは言えないのです。

この善きサマリア人はイェス様のことも象徴しています。彼はサタンによって傷付けられた私たちの心を癒し、永遠に死ぬはずだった私達の代わりに死んで、罪から救ってくれました。もし私達がクリスチャンなら、倒れている隣人の道の反対側を通るべきではありません。逆にこのサマリア人、イェス様のように立ち止まって私達の隣人を助けるべきです。第一ヨハネ4:20には「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」とあります。もし私達が祭司やレビ人のように勝手に隣人を、聖書の言葉を読んでもその通り実行せず、イェス様のようになろうとしないのなら私達はクリスチャンとは言えません。しかし「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちのうちにとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされるのです。」第一ヨハネ4:12。全ての人がお互いを隣人として互いに愛するという事、それは決して簡単に起こる事ではありません。でもそれが実現したとき神様は私たちの心の中にいます。日本にいるみなさんに神様の豊な祝福がありますように。

2012年2月4日 
西野貴基