彼(律法学者)は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イェスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命(永遠の命)が与えられる。」しかし彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。ルカ10:27−29
もしあなたがクリスチャンだったら教会で「隣人を愛しなさい」というフレーズを何回も聞いた事があると思います。いつも聞き流していまそうですが実際あなたにとって隣人とはどのような人かと考えたことはありますか?友達が隣人でしょうか?それとも家族、もしくはクリスチャン?もしくはイェス様の事を知らない人も隣人なのでしょうか?イェス様はその質問に対して分かりやすく「善きサマリア人」というたとえ話を用いて答えています。
皆さんご存知のようにこれはある人がエルサレムからエリコへ向かう途中が強盗に遭遇し半殺しにされます。私たち(旅人)は人生(エルサレムからエリコへの道)を歩む中、強盗(サタン)に色んな方法によって傷つけられます。時にはその傷から立ち直れない事もあります。しばらく時間が経って旅人が道に横たわっていると、祭司とレビ人が通りかかります。当時、祭司は教会を上に立つリーダーであり、聖書の言葉を日頃から読み、人々に説いていました。同じように、レビ人は神殿で儀式に携わる神殿のアシスタントで毎日聖書の言葉を聞いていました。しかし神の御言葉を毎日読んで、神殿に貢献していたのにも関わらず彼らはユダヤ人かサマリア人かも確かめず道の反対側を通り過ごしてしまいます。彼らは聖書に書いてある隣人を愛しなさいという事を日々の生活の中で実行しなかったのです。
最後にサマリア人が旅人にもとにやってきました。サマリアはエルサレムの北に位置しイスラエルの一つの町でした。しかしアッシリアの王によってサマリアは占領され、王はそこにいたイスラエル人を連行し、イスラエル人の代わりに異邦人たちを連れて来てサマリアに住ませました。移された当時の異邦人は神様を信じるとともに、移される前に行っていた宗教の風習にしたがって彼らの神々をも信じていたそうです。(列王記下17章)このような歴史的背景もありサマリア人はユダヤ人に混血、信仰から外れたものとして軽蔑、差別され、お互いに挨拶を交わさないほど対立していました。そんな状況のなかで、たとえ話の中のサマリア人は倒れている旅人を見つけると憐れに思い、その人を助け介抱したのです。彼はユダヤ人かサマリア人かも気にせず愛をもってこの旅人を助け、宿に連れてその人のためにお金も払いました。
たとえ話をはなした後、イェス様は律法学者に「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったかと思うか。」と言うと、律法学者は「その人を助けた人です。」と答えました。彼もサマリア人を嫌っていたので「サマリア人」とは言いませんでしたが、彼は誰が彼にとって隣人かを理解しました。そしてイェスは彼に「行ってあなたも同じようにしなさい。」と言われたのです。私たちの隣人とは誰でしょう。それは 友達、家族、教会の人だけではありません。同じ人種、歴史的背景、環境を持っている人たちだけでもありません。このたとえ話が私達に教えているのは隣人とはサタンによって苦しめられ助けも求めている全ての人達の事なのです。これは人種、宗教、歴史、文化、クリスチャンかそうでないかなどに関係するものではありません。だから私たちは,この人が教会に来ていないから自分の隣人ではない、昔こんな悪い罪を犯したから自分の隣人ではないなどとは言えないのです。
この善きサマリア人はイェス様のことも象徴しています。彼はサタンによって傷付けられた私たちの心を癒し、永遠に死ぬはずだった私達の代わりに死んで、罪から救ってくれました。もし私達がクリスチャンなら、倒れている隣人の道の反対側を通るべきではありません。逆にこのサマリア人、イェス様のように立ち止まって私達の隣人を助けるべきです。第一ヨハネ4:20には「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」とあります。もし私達が祭司やレビ人のように勝手に隣人を、聖書の言葉を読んでもその通り実行せず、イェス様のようになろうとしないのなら私達はクリスチャンとは言えません。しかし「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちのうちにとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされるのです。」第一ヨハネ4:12。全ての人がお互いを隣人として互いに愛するという事、それは決して簡単に起こる事ではありません。でもそれが実現したとき神様は私たちの心の中にいます。日本にいるみなさんに神様の豊な祝福がありますように。
2012年2月4日
西野貴基
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