2012年3月28日水曜日

落胆したペトロの心理

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」ルカによる福音書 22:33,34
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」 ルカによる福音書 22:61,62

      わたしは今学期心理学のクラスをとっているのですが、そこでFrustrationというものを学びました。Frustrationというのは落胆、挫折、失望といった意味で、なにか目標があったのにそれが達成できなかったときの気持ちを表しています。このFrustrationというものを聖書の話に当てはめて考えてみてという課題がでました。そこでわたしが選んだのはイエス様の12弟子のひとりであったペトロの話です。
      ペトロはイエス様の弟子になる前は兄弟のアンデレとガリラヤ湖で漁師をやっていました。そこにイエス様がとおりかかり「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言いました。(マタイによる福音書4:18)そこでペトロとアンデレは漁師の命とも言える網を捨ててイエス様に従いました。イエスの弟子となったペトロはユニークな彼の性格をたびたび見せます。ペトロは12人の弟子のなかでもとくにイエス様と親しい弟子でした。ペトロは「イエス様に従いたい!」という気持ちが強くそれを表現することをおそれませんでした。(マタイによる福音書13:22-33)そしてイエス様が彼の救い主、そしてすべての人の救い主であるということをわかっていました。(マルコによる福音書 8:27-30)ある意味早とちりしがちなペトロですが、イエス様が十字架にかけられる前に弟子たちと食事をしているとき、ペトロは「たとえ牢にいれられても死んでもイエス様、あなたについていきます!」と言いました。ところがイエス様はペトロが三度自分のことを知らないと言うだろうとペトロに伝えます。イエス様の言われたとおり、ペトロはイエス様が捕えられたあと三度も「イエス様を知らない」と言います。そこでペトロは捕えられたイエス様に出会い、イエス様に見つめられます。ペトロはイエス様が前に言った言葉を思い出し、「激しく泣いた。」と聖書に書かれています。
      わたしはこの話を聞くたびに感情が先走ってできもしないことを宣言するペトロという弱いペトロのイメージしかありませんでした。しかし、Frustration、という視点からみたとき、ペトロはイエス様にたとえ死ぬことになってしまっても従いたいという強い目標があり、本当にイエス様のことを愛していたからこその落胆だったのではないかと思いました。もしペトロが口先だけで死をも覚悟してついていきます、と言っていたのなら、たとえその目標が達成できなかったとわかっても、激しく泣いたということはなかったはずです。このペトロの落胆した様子は彼が心からイエスに従いたいと思っていたということを表すのではないでしょうか?
      みなさんはどう思いますか? 

森 春香
2012年3月28日



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