わかっているけどやめられない。自分によくないとわかってても、、お酒、タバコ、セックス、ゲーム、映画、などなどいろいろな中毒に陥ってしまうことがあります。もうこれ以上無理、と思うこともあるかもしれません。そしてそんな自分に失望し、疲れ果てておられるかもしれません。しかし、聖書はそんな私たちに希望を与えてくれます。
聖書の中でも自分のことをコントロールできなくなり、もうあきらめかけていた人の話があります。
「こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。」マルコによる福音書5:1-2
ここではこの人の過去や、どうやって悪霊に取り付かれたかは書いてありません。ですが、はじめは「ちょっとだけ」と思い、悪いことをはじめたのだと思います。ほかの人は弱いかもしれないけど、自分は大丈夫!と思い、悪の道を歩き始め、気づいたらに、もう泥沼に吸い込まれて出られなくなってしまっていたのです。多くの中毒はこうやって始まります。また、自分の人生に欠けている愛や周りの人に受け入れられていないという気持ち、または心にぽっかり空いた穴を埋めるために中毒に走ってしまうことも少なくはありません。
どんどん悪い道に進むうちに、中毒がこの人の意思をコントロールするようになり、正しい選択をすることができなくなってしまいました。悪霊を心に入れてしまっていたのです。ですが、サタン(悪魔、悪霊)は私たちが彼を選らばなければ心に入ってくることはできません。
周りの人たちはいろいろな方法で彼の行動を止めようとしました、ですが、それもだめでした。私たちが周りの人に助けをもらうのはすばらしいことですし、中毒に勝つのに効果的でもあります。しかし、この話で彼は中毒に完全には打ち勝つことはできなかったのです。私たちも友達や周りの人に助けを求めて、ある程度は助けをもらえるかもしれません。助けを求めることは決して悪くありません。でもわたし達の友達は人間なので、その深い穴に落ちた状態の私たちを完全に引き上げることは出来ません
この人は自分の体を傷つけてしまい、きっとそれが良くないとわかっていてもやめられなくなってしまっていたのでしょう。中毒は私たちを傷つけますし、周りの人も心が痛むものです。
でも希望があります!なぜならイエス・キリストが私たちのところに来てくださるからです。
「ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、大声で叫んで言った、『いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください』」。 マルコ5:6-7
イエスはこんなにダメ人間だと思っている私たちのところに来て、
「けがれた霊よ、この人から出て行け」マルコ5:8と言ってくださるからです。
イエスは私たちの希望です。イエスは私たちに中毒や、悪の鎖から解き放つ力をくださるのです。先ほどの6節、7節に書いてあるように、私たちは「イエス?どんなかかわりがあるの?!何で私のところに来るの?苦しめないで!」と言うかもしれません。しかし、イエスは今日も私たちを悪から解放するため、悪に染まっている私たちに希望を与えるため、また私たちに自由を与えるために私たちのところに来ます。
マルコ4章と5章を見てみると、イエスがわざわざガラリヤの湖を渡ってここの地方に来たのも、ただこの人を助けるためでした。この地方ではほかに何もしていません。イエスは悪に染まって、自分で自分のことをコントロールできない人を心のそこから愛していました。そして今日も愛しています。あなたがどんな人でも、どんなところにいても、どんなことをしても、イエスの愛は変わりません。そして、何千年も前にこのひとを助け、正気に戻したように(マルコ5:15 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。 )、今日もあなたを助けたいと思っています。
2012年3月4日
ミラージョエル
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