さて、一日中迷い続けていたわたしたちでしたが、今度は山をぐんぐんと下っていきました。景色はだいぶ変わり、雪山から緑のジャングルのような光景になりました。そこを抜けて少し開けたところに出てくると、山のふもとには小さな町が広がっていました。わたしたちは「あー良かった!!」とほっとしました。もうすぐこの冒険も終わりだと分かったからです。しばらく歩いていると、犬の散歩をしている女の人がわたしたちに向かって歩いて来るのが見えました。下山中わたしたちは人ひとり見かけなかったので、頂上で会った登山グループ以来初めて人に会いました。わたしたちはとても嬉しくなり「出口まであとどのぐらいですか?」とその女の人に聞きくと、「あと30分ぐらいですよ」と教えてくれました。わたしたちはどんなに嬉しかったでしょう!しばらくすると、わたしたちは山道からついに公道に出てきました。案内センターがあったのですが閉まっていたので、わたしたちはそこあった看板を見ました。そこにはMt.Baldyの地図がありました。わたしたちはその地図を見て、自分たちがどれぐらい駐車場から離れているのかを確認しました。駐車場までは歩いて上り坂3マイル(5km)ほどでした。わたしたちは何度も迷ったためにすでに25kmほど歩いていて、もう歩きたくないと体が叫んでいました。「だれか車で送ってくれる人いないかな」などと話していましたが、わたしたちは歩くことにしました。
すぐ近くに小さなガラス細工のお店があったので、そこでこの道であっているかどうか確かめようと言い、そのお店にわたしたちは寄りました。わたしたちが「この道だ!」と思った道は間違っていたことが多いということをその日身に染みて分かっていたのと、もうこれ以上迷って歩く体力はないと思ったからです。そのお店には親切な女の人がいて「あら、あなたたち迷ったの?Mt. Baldyを登山して違う出口から出てくる人よくいるのよね!困ったわ。今地図見せてあげるからこっちに来て」と言いました。地図を見て「わたしたちはこの駐車場から作業用の道路を通り、スキーリフトの上まで来て、少し間違った道を進んで戻って、ブラックダイアモンドのスロープを登ってDevil’s Backboneを通って頂上に行った」とその女の人に説明しました。するとその女の人は「Devil’s Backboneを通ったの??わたしはこの山の町に何年も住んでいるけど、雪が積もっているとき、風が強い日、あと、つるつる滑るような日はDevil’s Backboneを通るのは誰にもおすすめしないわ!」と言いました。そして「毎年冬にあそこで誰か亡くなるのよ」と付け足したのです。冬にきちんと装備していない登山者が、足を踏み外して滑り落ちて亡くなるのだそうです。わたしたちはびっくりして顔を見合わせました。「今あなたがいるのはここで、駐車場まではまああと5kmほどね、まあ歩けない距離じゃないわよ。ヒッチハイクというのも一つの方法ね。山の人たちはお互い助け合う精神があるから助けてくれる人はいるけれど、リスクがあるからわたしはなんとも言えないわ。あなたたちで決めて。」とその人は言いました。わたしたちはその女の人に感謝してお店を出て、車道の脇を歩きはじめました。Lisaが「Devil’s Backboneがそんなところだったなんて知らなかった!神様に守られて生きて帰ってこれてよかった!!」言いました。わたしたちは神様に感謝しました。
さて、ヒッチハイクはどうかとその女の人に提案される前に、CamrieとLisaは冗談で「ヒッチハイクして、車で送ってくれる人はいないかな」と言っていました。わたしは全く知らない人の車には乗らないほうがいいと思っていました。ヒッチハイクというのは車道の脇で親指をあげてサインを出して、車が止まってくれたら目的地を伝えて送ってもらうというものです。わたしはどんなに疲れてもこのまま歩いて行きたいと思っていましたが、Camrieはヒッチハイクの提案に乗り気のようでした。しばらく上り坂を歩いていると後ろから車がやってくるのが聞こえたので、Camrieは「みんな親指をあげて!」と言いましたが、Lisaとわたしはあまり乗り気ではなくて「うんーーーあげない」と言ってあげませんでした。しかし歩いている間に何台も車が通り過ぎていて、「親指あげていても、まあだれも止まらないだろう」と思ったわたしは、Camrieと一緒に親指をあげ始めました。そしたらLisaも次第に親指をあげ始め、わたしたちは3人でヒッチハイクサインを出していました。
しばらく車が来なくなりましたが、目的の駐車場まではまだまだのようでした。そこでわたしたちは「ブーーーーーーン」というバイクのような音が遠くからやってくるのに気が付きました。「バイクかな?バイクじゃあヒッチハイクできないね」と言って、わたしとLisaは親指をあげていませんでした。しかし、どうやらCamrieは親指をあげ続けていたようでした。すると「ブーーーン」というエンジン音は近づいてきて速度を落とし、わたしたちの隣で止まったのです!「あぁ止まってしまった!」とわたしは思いました。そしてどんなバイクが止まったのかと見てみると、それは小さな古い赤い車でした。その車に乗っていたおじさんは車の窓を開けて「君たちどこにいくの?」と声をかけてきました。そのおじさんはデンタルフロスをくわえていて、髪の毛はぼさぼさで、とても明るいおじさんでしたが異様に明るすぎるような気がして、わたしは「この人の車には乗らない」と思いました。しかしわざわざ止まってくれたのに無視するのも悪いということで、Lisaはその人に話始めました。「わたしたちは駐車場に向かって歩いています」と言うと、「連れて行ってあげるよ!」と言うので、少しためらったLisaは「車に3人分のスペースはありますか?」と聞きました。するとおじさんは「どんなスペースでもあるよ!」と言うので、どういう意味かと思って車の後部座席を覗いてみると、なんと運転席と助手席以外には座席がなくて後ろには梯子や工具、クッションなどがごちゃごちゃと積まれていて、おまけにガソリンのタンクもあり、とてもガソリン臭いのでした。Camrieは「ありがとうございます!」と言って車の後ろに乗り始めたので、LisaとわたしはこのままではCamrieがさらわれると思い、3人でいた方がましだということでわたしたちもこの車に乗りました。車の中でそのおじさんは、彼がどういう人なのかわたしたちに伝えたかったようで「僕は昔スキーリフトの整備をしていたんだ。それから山のふもとにあるバーで働いていた。わはは!それで自分の電話番号をバーにくる女の人に配っていた。わはは!」と言ってきました。それを聞くとわたしたちは顔を見合わせて、果たしてこのおじさんの車に乗っていて大丈夫なのか、ちゃんと駐車場で降ろしてくれるのかと心配になってきました。なにがおもしろいのかそのおじさんは頻繁に「わはは!」と大声で笑っていました。とても不安でしたが、車の窓越しに見ていると駐車場までは思ったよりも長い道のりで急な上り坂だったので、このおじさんが車で送ってくれていることに感謝しました。
さて、駐車場が見えてきたのでわたしたちは「この駐車場です」とそのおじさんに伝えると、「おっけー!」と言い、車を止めて駐車場で3人ともちゃんと降ろしてくれました。おじさんにお礼を言うと「僕の名前はジョン。じゃあね!」と言い、また「ブーーーン」とすごい音をたてておじさんは去っていきました。わたしたちはほっとして笑い始めました。Camrieは「ヒッチハイクなんて人生で一度もしないと思っていた!!」と言いました。たった一日の間に、こんなにたくさん想定外の事が起きたという事実をまだ信じられないでいました。Lisaは「今日の冒険はヒッチハイクによって完成されたね!」と言いました。わたしたちはLisaの車に乗って家に帰りました。
帰り道、わたしたちは今日の出来事を振り返って「朝にジェネッサを車に乗せて電話するのを手伝って、今日の終わりに今度は自分たちがジョンというおじさんに車に乗せてもらって、不思議だね」と言いました。わたしたちは何度も神様に感謝しました。神様はジョンのような人をわたしたちに送ってくださることによって、わたしに大切な教訓を教えてくださいました。どんな姿でも、どんな人生を送ってきていても、もしその人が神様の御声に聞き従うのなら、神様はその人を御自分の御業を果たすためにお使いになることができるということです。ジョンは髪の毛がぼさぼさで、デンタルフロスをくわえていて、ガソリン臭い車に乗っていましたが、疲れ果てたわたしたちをただ助けようとしてくれた親切な人でした。もちろんヒッチハイクを勧めているわけではありません。わたしが注目したいポイントは、わたしたちは「今日神様はわたしになんと言っておられるだろうか」と毎日質問することが必要だということです。神様は何か資格がある者を遣わすのではなくて、神様に従いたいと思っている人を遣わすのです。もしジョンが「あぁこの子たちを助けたいけど自分の車はガソリン臭いから今は助けられない、車がきれいになってから助けよう。」と思って通り過ぎていたらどうなっていたでしょう?しかし彼はわたしたちの必要を見て、自分のことを構わず助けてくれました。わたしたちはジョンから学ぶことがあると思います。神様はわたしたちの心に毎日語りかけておられます。その御声に今日聞き従うか、もしくは「もっと準備ができたら神様に従おう」と後回しするかわたしたちには選択が与えられています。
聖書にはこう書かれています。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ローマ信徒への手紙12:2
神様に「今日わたしが何をするべきか教えてください。」とお祈りしましょう。それは自分の弱さと向き合うことかもしれなせん。人を赦すことかもしれません。目の前にいる人の話を真剣に聞くことかもしれません。神様はわたしたちの品性を粘土のように練って、最高の作品に仕上げたいと願っておられます。そしてそれは毎日行われるプロセスで、わたしたちが協力しなければできない作業なのです。神様は毎日わたしたちの心に語りかけておられます。その御声を聞いて行うとき、神様は神様の御業を行うための力をわたしたちに与え、助けて下さいます。「こんなに神様から離れてしまった、自分は神様のもとにくるのにふさわしくない」と思わないでください。神様はあなたをあきらめません。もし自分のするべきこと、また直すべきことが示されたのなら今日それと向き合い、神様の御助けによって成長していってください。それは常に心地よいことではありませんが、天国に行って、神様に助けられて歩んできた人生を振り返るとき、一人ひとりユニークで素晴らしいストーリーが出来上がっているはずです。
(終わり)
(終わり)
著者:森春香
編集者:品末拓真
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