ルールは破るためにあるもんだ。
この世の多くの小学生男子と同じように、僕もそんな不従順の心をもって育ちました。もちろん自分の面子に関わらない程度にですが。(いかに気付かれず居眠りできるか、とかいうレベル)
この心をもったままクリスチャンになった人はなんと言うでしょう。「僕は神様に従うのだから、人間の作った決まり事に従う必要があろうか。」
あの先生は何も分かってないから、彼の言うことは気にしなくていい。政府なんかに税を払うくらいなら、奉仕活動に寄付するさ。
要は、人間のルールは破るためにあるもんだ、ってことです。
イエス様が十字架にかけられる前、祭司達は「こいつはローマの法律に反逆したよ!」と口実をつけて訴えようとしたのに、結局なんの揚げ足もとることができませんでした(ルカ23:13,14)。なぜかって、イエス様はローマの法律に完全に従ってたからです(マタ22:16-22)。彼は神様の子どもでありながら、人間世界の権威に従順だったのです。
霊によって生まれかわった心の証の一つは、従順です(ヤコ3:17)。お父さんお母さんであれ、先生であれ、上司であれ、総理大臣であれ、僕たちの上にある権威はすべて神様によって立てられたものです。その人達のことば、その人達が決めたルールに従順であることは、イエス様がはっきりと僕たちに求めていることです(出20:12; ロマ13:1-7; エフェ6:1-3,5-7)。もちろん、神様のみことばに逆らうことのない限りですが(使5:20; ダニ3:13-18)。
たとえ、賛成できないようなことや不完全なことであってもです(マタ17:24-27)。それを実践するのは、色々な意味で簡単なことではありません。ですが僕たちは、すべての権威を超えて支配しておられる、愛するイエス様を知っているので、どのような時も従順であることができるのです(詩47:9; ダニ4:29下; 箴20:22)。彼に信頼するならば、神様はすべてわたしたちの益となるよう導いてくださるのです(ロマ8:28)。実際、全ての権威はわたしたちの益となるように立てられているのです(ロマ9:21-23)。
人間に従わないことではなく、全ての人に対して「柔和で謙遜」であったイエス様に従うことが、僕たちが神様に従っているという唯一の証です(マタ11:29)。
執筆:山地悟
執筆:山地悟
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