2013年6月23日日曜日

真理って?

「イエスは言われた。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない。」
ヨハネによる福音書14:6

去年の夏わたしはコロンビアに行きました。サザンアドベンチスト大学からShare Himという伝道のプログラムに参加しました。そのプログラムは教会で英語からスペイン語に通訳してくれる人を通して聖書のお話を2週間半ほどするというものでした。そこでスペイン語しゃべれたらいいなと思いサザンから一緒に行った友達たちと短い聖句をスペイン語で練習したりしました。そこで通訳してくれていた人にそのことを伝えると、「ぼくの好きな聖句はこれだよ」『あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』ヨハネによる福音書8:32と言いました。

そのとき、わたしにとってこの聖句は「別に自分にはインパクトがないけどあなたはこれが好きなんだね」という程度で自分に語りかけてくるメッセージというものは分かりませんでした。そして「イエス様は自分のために十字架にかかってくださってそれによって自分は罪から自由になる」ということを言っているんだろうとさらっと表面上は理解していました。夏が終わり、学期が始まりました。

学期中に「あなたのやっていることはからっぽなのか?あなたはどこかで矛盾していますか?」という疑問を投げかけられ、わたしは自分自身の行動を見直し始めました。そしてたくさんの疑問が生まれました。始めは『そんなことない、自分は大丈夫』と言いきかせ、現実と向き合うことを避けたかったのですが、なんだかもやもや、もやもやして、すっきりしません。「神様、意味がわかりません」と言ったり「本当に自分はからっぽなのですか」と訴えたり、考え込んだり、いろんな人に突然質問したりして、アドバイスを求めたりしました。本当に悩みました。ますますこんがらがっていますと、そんななかで「イエス様を見よう」という友達がいました。「イエス様を求めれば自分の罪深いところなんか嫌というほど見えてくる。人に言われなくても分かる。」と。 

そこでわたしはイエス様をよく見ていなかったと分かりました。真実が見えていなかったのです。なぜならイエス様を見ていれば、イエス様は真実であるので真実が分かるはずです。

自分は罪人だけど、そうじゃないように見せようと頑張ったり、自分で罪から解放されようとあれこれ一般的に正しいと見えるようなことをやって、それで満足して、高慢になって、罪人であるということなど忘れてしまっている、そんなところにわたしはいました。とても危険です。自分に救う力があるかのように勘違いしていますね!教会の中にいたってそういうことはいくらでもできると思います。よいと思われるような奉仕を忙しくたくさんしてそれで『自分は良い人だ』、『ちょっとましな罪びとになったかな?』『神様の自分に対する価値がちょっと上がったかな?』など考えます。しかし神様はわたしたちの心のなかを究めておられ、わたしたちを裁かれるのも神様です。

わたしはどちらかというと、イエス様を見るよりも他人をよく見ていました。他人の言うことや反応によく左右され、自分の価値を神様ではなくて、ほかの人間によって上げられたり下げられたりすることを許していました。
しかし、真理、真実は「人間は罪人」ということ。ローマ3:9にも「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘されたように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪のもとにあるのです。」とあります。自分自身のことを罪人だと言っているとわたしはこの聖句を自分の人生に当てはめていませんでした。わたしはもともと罪人です。それは隠したってどれだけつくろったって変わらない、自分では解放できない罪の奴隷となってしまっているという真実。わたしが罪人であるということはイエス様もよ~く知っておられます。しかしそこでは終わりません。神様はわたしたちを愛してくださっていて、とても価値のある尊いものとしてくださっている。それも真実。これは他の人間があなたのことをどう言おうが、どう評価しようが、あなたが成功しようが、失敗しようが変わりません。あなたはこの宇宙の王である神様、この世界を創られたイエス様から見てとても価値があるのです。それは真実。そのイエス様が十字架にかかって罪の代価を払ってくださったので、わたしたちがお願いすれば聖霊の導きによって、罪深い性質から創りかえてくださることがおできになる。それも真実。

これらの真実を知って、そして受け入れてわたしはさまざまな思いや悩み、不安から解放されました。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」というヨハネによる福音書8:32の聖句を実際に体験したときでした
真理を知るには自分の力では無理です。聖霊が悟らせてくれるのです。聖霊がわたしたちを導いて真理を悟らせてくれます。そして真理が示されたときそれを信じるか否定するかはわたしたちの選択です。真理を知ることはかならずしも自分に都合がいいもの、いい気持ちがするものばかりではないかもしれません。だいたい間違いを指摘されていい気分がする人がいるでしょうか? とくに自分自身の存在に関わるようなものなどには敏感になってしまうでしょう。しかし自分自身に期待する必要は全くないのです。自分でなんとかする力があると思えば思うほど高慢になるし、『失敗したらどうしよう、上手くいかなかったらどうしよう』というプレッシャーも増します。

でも「自分は罪人です。」と受け入れてしまえば、そして「罪から解放できるのは自分じゃなくて、イエス様なんです。」って受け入れてしまえばまったく違う人生になるのではないでしょうか?

では、わたしたちがすべきことはなんですか?それはイエス様が与えると約束してくださった聖霊によって示された真実を日々受け止めること。日々の生活のなかで様々な出来事を通して神様は「これがあなたが罪にしがみついている問題だけど、その部分を創りかえてもいいかな?」と心に語りかけられたときに、「はい。創りかえてください」ということです。その声に聞き従うことです。自分がやりたいように行動してその声を遠ざけることだってできます。『自分は罪に浸ったままでいいんだ!』と。でもそうしているうちはわたしたちの心を創りかえてもらうことはできないのです。

どうぞ聖霊を求めて、聖霊の導きにより、イエス様を知って真実を悟ってください。そして罪人である自分のなかにある罪が示されたのなら、そこでその部分を創りかえてくださいと神様があなたの心に働きかけることをゆるし、招き入れてください。



森春香


*これは6月8日安息日にローマリンダ日本人教会で証した原稿です。西野貴基、森春香、品末拓真の3人でヨハネによる福音書14:6の道、真理、命についてそれぞれ話しました。

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