「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
ヨハネ13:34
なぜイエス様は、互いに愛し合うことを「新しいいましめ」と言ったのでしょうか?
「愛する」ということが、神さまにとって新しいものだったからですか?
それとも、それが実はわたしたちにとって、全く新しいものだからですか?
今のあなたにとって、「愛する」とはどういうことですか?
それは、イエス様の言われた「愛する」ということと、どのように違うでしょうか?
「弟子たちにとって、このいましめは新しいものであった。彼らは、キリストが彼らを愛されたように互いに愛していなかったからである。新しい考えと動機が彼らを支配されなければならないということ、新しい原則を彼らが実行しなければならないということ、主の生涯と死を通して彼らが愛について新しい観念を受け入れるということを、キリストはお知りになった。
互いに愛し合いなさいという命令は、主の自己犠牲の光に照らしてみる時、新しい意味を持っていた。恵みの全体の働きは、愛と克己と自己犠牲的努力のたえまない1つの奉仕である。キリストが地上に滞在しておられた一刻一刻に神の愛はおさえることのできない流れとなってキリストから流れていた。キリストのみたまを吹き込まれる者はみなキリストが愛されたように愛するのである。キリストを動かした原則がお互いの間における彼らの態度の動機となるのである。
この愛は彼らが弟子であることの証拠である。『互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう』とイエスは言われた(ヨハネ13:35)。人が強制や利己心によってではなく、愛によってむすばれる時、彼らは人間の力にまさる力が働いていることを示すのである。この一致がある時、それは神のみかたちが人のうちに回復され、新しい生命の原則がうえつけられた証拠である。それはまた超自然的な悪の力に抵抗するのに神の性質には力があるということ、神の恵みは生れつきの心に固有の利己心を征服するということを示している。」
「神に対する最高の愛、互いの無我の愛、これこそ、天父がさずけて下さる最上の贈り物である。この愛は衝動ではなく、きよい原則、永遠の力である。献身していない心は愛を起こすことも、生じることもできない。イエスに支配されている心にだけ愛は見いだされる。『わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである』。神の恵みによって新たにされた心にとって、愛は行動の主原則である。愛は性質を修正し、衝動を支配し、感情を制御し、愛情を高める。心に抱かれたこの愛は、人生を麗しくし、清澄にする感化を周囲に与える。」
~E. G. ホワイト 希望への光 p. 1033, 1566~
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