2012年8月29日水曜日

宣教の目標:天国に一緒に行くこと



「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」ヘブライ人への手紙10章24、25節

East Ridge教会で聞いたお説教のまとめです。

イエス様を個人的な救い主として受け入れ、永遠の命という希望を手にしたとき、わたしたちは周りの人にもこのよい知らせ、福音を伝えたいという気持ちになるはずです。それがいわゆる宣教ですが、イエス様の再臨を待っている間クリスチャンとしてどういう宣教をしたらよいのでしょうか?
まず、イエス様の3つの教訓を紹介します。
1. 互いに愛し合いなさい
2. 互いに赦しあいなさい
3. 互いに親切にしなさい

この3つの教訓に共通しているのは「互いに」という言葉です。「互いに」という言葉は聖書の中で157回使われています。神様はわたしたち人間にお互いに交わり、支え合う関係を築いてほしいと願っておられます。

ヨハネによる福音書15章12節には「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と言われたイエス様の言葉があります。そしてヨハネの手紙一 4章7節には「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」と書いてあります。そしてテサロニケ信徒への手紙一 3章12節には「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」とあります。「すべての人への愛」と書いてあります。最も力強い証は人間の中に与えられた神様からの愛によるものです。わたしたちが神様に求めることができる最高の贈り物は、周りの人に与えるための神様の愛です。

それでは具体的にどうやって互いに愛し合うことができるのでしょうか?

「5つの愛の言語」というものがあります。
 相手を肯定する言葉を言う
 質のある時間を過ごす 
 贈り物をする
 奉仕をする
触れる

ある人は自分を肯定してくれるような言葉を言ってもらったときに愛を感じますが、ほかの人は贈り物を受け取ったときにもっと愛を感じたり、と愛の感じ方は人それぞれです。そして文化の違いでラテン・アメリカやヒスパニック系の文化では挨拶にハグをしたりや頬にキスをしますが日本ではおじぎや握手が主流です。相手の文化を理解し、相手が心地よい方法で愛情表現をすることが必要です。 つまり、愛情表現するためには相手がどういう人なのか、どういうことが好きでどういうことが嫌いなのかよく知らないといけません。

次に、互いに親切にしなさい、赦し合いなさいという教えについて考えてみましょう。

エフェソの信徒への手紙4章32節には「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように赦し合いなさい。」と書かれています。ではどうすれば互いに親切にし、憐れみの心で接することができるのでしょうか?

ローマ信徒への手紙12章15節、16節には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢いものとうぬぼれてはなりません。」と書かれています。「互いに思いを一つにし」とはその人がどういう気持ちなのか分かろうと努力するということだと思います。高ぶっていてはその人の気持ちを考えようという心が備わりません。互いに思いを一つにすることで、親切心、憐れみの心というものを持つことができるのではないでしょうか。

それでは赦し合いなさいという教えはどう実現することができるでしょうか?
先ほどの聖句のエフェソ信徒への手紙4章32節に「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったことように赦し合いなさい。」と書かれています。わたしたちのすべての罪がイエス様の十字架の死によって赦されたということを真剣に考えるとき、もっと他人を赦せるようになるはずです。ヘブライ人への手紙12章2、3節には「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右におすわりになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」とあります。さらに、ローマ信徒への手紙14章10、13節には「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。…従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」イエス様はすべての人のために十字架にかかられたということ、そしてすべての人は神の裁きの座の前に立つということを覚えていれば、「自分でなんとか復讐してやろう」、とか「許せない」という気持ちを手放すことができるはずです。

わたしたちがイエス様の福音を宣べ伝えるにあたって、周りの人はわたしたちの日常生活での行動、言動、態度をよく見ています。わたしたちの目標は福音を押し売りすることではありません。常にイエス様を受け入れるという選択をし、また皆で天国に一緒に行けるようにするということです。互いにキリストにある兄弟姉妹である友達、家族、周りの人たちを励ましあって毎日生活していきましょう。相手のことをよく知り愛し合い、赦し合い、親切にしあいましょう。




著者:森春香
編集者:中原莉沙

2012年8月29日

2012年8月27日月曜日

ドウェイン・レモンの証 1


ドウェイン・レモンの証 1

audioverse.org https://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

お祈り:天の神様、わたしたちは、あなたが将来天国で一緒に暮らせるようになる神様であることを賛美します。それは祝福です。父なる神様、あなたの御心を知るすべての機会を活用します。わたしたちに聖霊の力を通して語りかけてください。そして、たとえほかの人の証を用いてでも、わたしたちの心を温め、真実を教えてください。これらすべてのことをイエス様の御名を通してお祈りします。アーメン。

ヨハネの黙示録12章11節に「自分たちの証の言葉とで、彼に打ち勝った」と書かれていますが、それは真実だということをみなさんに知ってもらいたいです。なぜなら、わたしがセブンスデーアドベンチスト教会に通い始めた頃、一番楽しかったのは水曜日の夜の祈祷会だったからです。私がそれを一番楽しんだ理由は、その集会では皆が証をする機会があったからです。
わたしは、ニューヨーク州のクイーンズという町で生まれ育ちました。コンクリートに囲まれたニューヨークの中で、わたしはどのように馴染もうか、どのように社会での居場所を見つけようかと考えていました。母はヴァージンアイランド州のセイントトーマスという町、父はサウスカロライナ州のチャールストンという町の出身です。そして、わたしはクリスチャン家庭では育ちませんでした。
本当のことを言わせていただきますと、わたしはいつも青年にわたしの証をするとき、「わたしはクリスチャン家庭で育つ特権がなかった。」と言います。なぜそう言うかというと、クリスチャン家庭で育つことは特権だということを彼らは知るべきだからです。セブンスデーアドベンチストの家庭で育つということは特権です。世の中をさまよい続けて遂にこの光を見つけた人たちは、神様にこの光を見つけられたことを感謝します。しかし、彼らは前から後ろから、そして横から傷を負っています。目に見える傷ではないかもしれませんが、この世界が彼らに負わせた世俗的なライフスタイルによる傷があります。だから、「もっと世の中に出て行って色々なことを試してみたい、それから教会に帰ってこよう」と好奇心を抱くかもしれませんが、愛する兄弟姉妹たち、自分たちを騙さないでください。なぜなら、だれも世俗的な生活をしてからクリスチャン生活に帰ってこられるという保証はないからです。
子供のころ、まだニューヨークのクイーンズという町にいたとき、わたしには何の取りえもありませんでした。母は「だれも殺さないように、なにも盗まないように、そうすれば天国に行けるわよ。」と言いました。わたしは「それは簡潔なルールだ!ただ殺さないで盗まなければ良いのだ」と思い、ほとんどの時間をビデオゲームやテレビに費やしていました。そんなある日、父が音楽を流し始めました。父は、ヒップホップは流しませんでしたが、ジョージ・クリントンという人のピーファンクというジャンルや、R&Bというジャンルの音楽をよく家でかけていました。兄弟のレスリーはベースギター、マイケルは歌で音楽を楽しんでいましたが、わたしは楽器も歌もできませんでした。しかし、音楽が流れるたびにわたしの足が動き出しました。幼いながらも、音楽と一緒に体を動かすという才能を見つけたのです。そして、気づけばわたしは近所の間で小さな有名人になっていました。バーベキューをする時や訪問者が来るたび、父は「ドウェイン、表にでてこい!」と言い、わたしは裏庭から出てきて「あの踊りをやってくれ」という父の要求にこたえ、ダンスステップを踏み、楽しいと思えるダンスをただやりたいようにやっていました。そしてその頃、ダンスは自分の人生の一部だということを発見しました。ダンスクラス等をとったことはありませんでしたが、音楽が流れるたびにわたしの体は自然と踊り始めました。子供のころは家で音楽がかかったときに、ただ楽しいから踊っていました。
時がたつにつれ、父と母はわたしのダンスの才能に気付きました。「ドウェイン、お前はどうダンスをすればいいのかわかっている!」と言われました。わたしは「う~ん、そうかもね。」と思っていましたが、正直、そのころのわたしはとても不安定で自信がありませんでした。自分なんて大した人間じゃないと思っていました。わたしは1972年生まれなのですが、その時代、黒人であることからわたしはあまりよい経験をしませんでした。同級生は黒人をばかにするジョークを言ってきて、わたしの自尊心は大きく損なわれていました。その頃のわたしはとくに何も持っておらず、イエス様も知らなかったため、ダンスがわたしにとっての感情のはけ口でした。ダンスはわたしを現実的な世界から離れさせ、自分の世界に没頭させてくれました。だから、幼いながらもわたしは本気でダンスをしていました。                               
続く

訳:森春香
編集:品末拓真

2012年8月14日火曜日

ヨセフの人生 絵本

創世記にでてくるヨセフのお話を絵本風にしてみました。金曜日のベスパー後、長澤エイミーさん、品末拓真くん、土屋あきさん、西野貴基くん、中原莉沙さんと絵をかきました。
創世記35章23節ー46章30節までです。



ヨセフはヤコブ(父)とラケル(母)の息子で12人兄弟のうちの一人です。
創世記35:23-26

ヨセフは17歳のときにお兄さんたちと羊の群れを飼っていました。お父さんのヤコブはヨセフをどの息子よりもかわいがっていたので裾の長い晴れ着を着せてもらいました。兄弟たちはヨセフのことを憎み穏やかに話すことすらできませんでした。 創世記37:2-5
ある日、ヨセフは夢を見ます。兄たちに「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まってきて、わたしの束にひれ伏しました。」と話しました。また、「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」ともう一つの夢の話もしました。兄たちは「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」「わたしも母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すと言うのか。」とますますヨセフを憎みました。 創世記37:6-11

ある日、様子を見に遠くからやって来るヨセフをみた兄たちはヨセフを殺して穴へ投げ込もうとたくらみました。しかし兄たちの中で、ルベンは「命まで取るのはよそう。」とヨセフをかばって、殺さずに穴へ投げ込むことにしました。ルベンはあとでヨセフを助けようと考えていました。 創世記37:18-22


ルベンがいない間にエジプトへ向かってるイシュマエル人の隊商がギレアドの方かららくだに荷物を積んでやってきました。兄弟のうちのユダがヨセフを殺すかわりにイシュマエル人に売ってしまおうと提案し、銀20枚でヨセフを売り払ってしまいます。 創世記37:24-28

エジプトへ連れて行かれたヨセフはファラオの宮廷の役人、侍従長のエジプト人ポティファルに買い取られます。そこで主がヨセフと共におられたので、主人に気に入られ、家の管理を任され、財産のすべてをヨセフの手に任されました。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていました。主人であるポティファルの妻は毎日ヨセフに言い寄り「わたしの床に入りなさい」などと言い続けましたがヨセフは耳を貸さず、主人に忠実であり続けました。ところがある日、ポティファルの妻に着物を捕まれ言い寄られたのでヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げました。そのヨセフの着物を手にした妻はポティファルに「わたしにいたずらしようとしたのです。」と言いつけ、ヨセフは監獄へ入れられてしまいます。
創世記39:1-20

監獄の中でヨセフは給仕役の長と料理役の長に会います。彼らは同じ夜にそれぞれ夢を見、それぞれ意味が隠されていました。しかし彼らはその夢の意味を解き明かしてくれる人がいないとふさぎこんでいました。 ヨセフは「解きあかしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください。」と言いました。
創世記40:1-9

給仕役の長が自分がみた夢の話をヨセフにしました。「一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。そのぶどうの木には3本のつるがありました。それがみるみるうちに芽をだしたかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさしたぶどうが熟しました。ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯に絞り、その杯をファラオにささげました。」と言うとヨセフは「三本のつるは三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、もとの職務に復帰ささてくださいます。幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしは牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」といいました。
創世記40:9-15

料理役の長も夢を話しました。「編んだ籠が三個わたしの頭の上にありました。いちばん上の籠には料理役がファラオのために調えたいろいろな料理が入っていましたが、鳥がわたしの頭の上の籠からそれを食べているのです。」ヨセフは「三個の籠は三日です。三日たてばファラオがあなたの頭を上げて、切り離し、あなたを木にかけます。そして鳥があなたの肉をついばみます。」と言いました。

三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて祝宴を催しました。そして、家来たちの居並ぶところで給仕役の長と料理役の長の頭を上げて調べ、ヨセフの言うとおり、給仕役の長は職に復帰させられ、料理役の長は木にかけらました。ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さずに、忘れてしまいました。
創世記40:16-23

二年後、ファラオは夢を見ます。ナイル川のほとりにたっていると、突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がってきて草を食べ始め、その後から今度は醜いやせ細った七頭の雌牛が川から上がってきて、そのつややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまったという夢でした。もう一つの夢は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てき、その後から実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、太って、実の入った七つの穂を飲み込んでしまったという夢でした。 ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話しましたが、だれも夢を解き明かすことができませんでした。
創世記41:1-9

給仕役の長がヨセフに自分の夢を解きあかしてもらったことを思い出し、ファラオに伝えます。ファラオのもとに連れてこられたヨセフは夢の解きあかしを神様によって始めます。 つややかな、よく肥えた七頭の雌牛、また太って、実の入った七つの穂はエジプトの七年間の豊作を表わしていて、醜いやせ細った七頭の雌牛と東風で干からびた七つの穂も同じで、これらはエジプトでの七年の飢饉を表わしていました。豊作の七年の間にエジプトの国の食糧を集めさせ、その後の七年間の大飢饉に備えされるため聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせてください、とファラオに伝えます。
創世記41:9-36

ファラオと家来たちは、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と「神がそういうことみなに示されたからにはお前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにいないであろう。」とヨセフをエジプト全国の支配を任せると言い、牢屋からヨセフ出しました。
創世記41:37-52



エジプト全国に七年間の大豊作、そしてその後七年間の大飢饉がおこります。エジプト全国にはどこにでも食物があり、世界各地から穀物を買いくる人々がいました。ヤコブはエジプトに穀物があると知って、息子たちにエジプトに行くようにと言います。 エジプトへやってきた兄たちをみてヨセフは一目で兄たちだと気づきましたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で「お前たちはどこからやって来たのか」と問いかけました。
創世記41:53-42:7




ヨセフは通訳を通して兄たちと話しましたが、「お前たちは回し者だ。」といい三日間兄たちを牢獄に監禁し、「お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。」と言いました。兄弟のなかからシメオンが選ばれ、縛り上げられ、残りの兄たちはカナン地方へと帰ります。ヨセフは兄たちの袋に穀物を詰め、支払った銀をめいめいの袋に返すようにと人々に指示し、そのとおり実行されました。
創世記42:7-28



帰りの途中の宿で兄たちが穀物の入った袋をあけてみると袋の口のところに自分の銀があるのを見つけ驚き「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」と言い恐ろしくなります。父ヤコブのところへ帰り、すべてのことを報告します。
創世記42:28-36

父ヤコブは「お前たちは、わたしたちから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上紅谷民までも取り上げるというのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ。」とベニヤミンを連れてエジプトへ再び行くことをなかなかゆるしませんでした。しかしルベンやユダの説得の下、そしてユダが保障をとるという約束のもとベニヤミンを連れて再びエジプトへ旅にでます。
創世記42:36-43:14

ベニヤミンを連れてもどってきた兄たちをみたヨセフは執事に料理を調えさせます。父親ヤコブのことを尋ね、またベニヤミンを見つめ弟懐かしさに、滑が熱くなり、涙がこぼれそうになったヨセフは急いで席をはずし、奥の部屋で泣きました。そのあと平静を装い「さあ、食事を出しなさい」と言いつけ、兄弟たちを年齢順に座らせたので兄たちは驚いて互いに顔を見合わせました。料理が運ばれ、食事を楽しみました。
創世記43:16-43:34

次の朝、一行は見送りを受け、ろばとともに出発しました。ヨセフの命令により執事がベニヤミンの穀物の袋の口に銀の杯、穀物の代金の銀をいれます。町へ出て、まだ遠くへ行かないうちに執事は彼らを追いかけ、ヨセフに言われた通り「どうして、お前たちは悪をもって善に報いるのだ。あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか。よくもこんな悪いことができたものだ。」と言い、ベニヤミンの袋から銀の杯を発見します。 杯が見つかった袋の持ち主が奴隷にならねばならないと言われ、兄たちは一同ヨセフのもとへ帰りひれ伏します。
創世記44:1-44:14

ヨセフはベニヤミンだけが奴隷になればいいと厳しく言いますが、兄たちは昔自分たちがヨセフを売り払ってしまったこと、父親ヤコブにはこのベニヤミンが家へ帰ってくることがとても大切であることを話します。そしてユダは自分が代わりに奴隷として残るかわりにベニヤミンをどうか父のもとへ帰してほしいと嘆願します。ヨセフは平静を装っていることができなくなり、そばで仕えているものたちに出ていくように伝え、兄弟たちの前で自分の身を明かします。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今はわたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」と言い、兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣きました。そしてカナンの地にいる父ヤコブとその家族をエジプトへ連れてきて、エジプトの最良のものを与えよう、と父親をエジプトの地へ招きました。兄弟たちはヤコブのもとへ帰り、ヨセフのことを話すと、ヤコブは気が遠くなって「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」といいエジプトへ下ります。ゴシェンでヨセフは父ヤコブと再会し首に抱きつきしばらく泣き続け、ヤコブは「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」と言いました。
創世記44:17-46:30



著者:森春香 
編集者:中原莉沙
8/14/2012