2012年7月15日日曜日

救いとは


前回は罪の起源について書きました。今回はその「罪」という問題の解決策についてお話します。
私たちはアダムとエバが罪を犯したゆえに朽ちて死ぬ体となってしまい、そして、永遠に生きられるはずが罪の結果、何千年もの歴史を通し、今では人生80年ほどになってしまいました。
でも神様は人間を見捨てませんでした。ある解決策をもっていたのです。私たち人間は皆、罪を犯すものです。では罪とは何でしょうか?
「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」
ヨハネ第一の手紙3:4

という事は、
神様の律法を犯すこと = 罪

そして、
「罪の支払う報酬は死である。」ローマ6:23

律法を犯す = 罪 = 死

ということです。
さて、解決策があるといいましたが、それがこのローマ書6:23後半に書いてあることです。

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」ローマ書6:23

「そうかぁ。。永遠のいのちかぁ~難しそうだな~」と思われるかもしれません。
それでは、どうやって永遠のいのちを手に入れるのでしょうか?
先ほどのローマ書の箇所では、永遠の命は神の賜物、と書いてありました。「賜物」というのは贈り物ということです。贈り物は何か支払って買うのではなくて、だれかからもらうもの、つまりただ、無料ですよね?

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」エペソ人への手紙2:8-9

という事は、

救い ≠ 行いによる 
救い = 無料

ということになります。

私たちがどんなに頑張ろうと、私たちがどんなにいいことをしようと、自分の力では救いは手に入らないのです。

では自分の力では手に入らないのだったら、どうやって救われるのでしょうか?

ここで3つのステップを説明します。

1.自分が罪人だと認める。

病人が「自分は病気ではない」と言っていたら、病院に行くこともありませんし
医者に病気を治してもらうこともできません。それと一緒で、私たちも、自分たちが罪
人だと認めなければ、救い主の必要性も感じないのです。

「 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」
ローマ3:23

聖書は人類のすべてが罪を犯した、といっています。どんなにいい人に見えても、
私たちは皆、罪を犯しているのです。

2.イエスが救ってくださると信じる。

イエスは私たちのために天の都からこの地上に来て、私たちのために死んでくださ
いました。そして、私たちが罪によって死ぬべきことになっていましたが、私たちの身代わりになって私たちの罪を背負い、死んでくださったのです。

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
使徒行伝16:31

私たちがイエスを信じて、心の中に救い主として受け入れるとき、私たちは救い得ることができるのです。

3.罪を告白する。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 」
ヨハネ第一1:9

神様は私たちの罪悪感を取り除き、平安を与えてくださいます。また、過去の罪を許してくださるだけではなく、私たちを清め、罪を犯さないように変えてくださるのです。そして、わたしたちの醜く、荒れた心を、清らかな新しい心に変えてくださる、と約束してくださっているのです。

皆様もそんな神様を心の中に今日、受け入れてみませんか?必ず後悔することはあ
りません。



著者:ミラージョエル
編集者:森 春香

7/15/2012


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2012年7月8日日曜日

停電

「停電」

 サザンアドベンチスト大学のあるチャタヌーガ一帯は、いま嵐により停電しています。女子寮の一部屋の窓ガラスは、強風により割れてしまいました。夏休み中は寮に残っている生徒は20人程度と少なく、幸いだれも住んでいない部屋だったので怪我人はありませんでした。停電はまだ続いているのですが、パソコンは充電されていたので何か書いてみようと思い、こうして書いています。

 停電すると、いつもついている電気やクーラーの音がすべて無くなり、寮内はとても静かになります。そこで色々なことを考えました。例えば、「もしこのまま電気が一生もどってこなかったらどういう生活になるだろう?」そうなれば、日の出とともに起きて、洗濯機は動かないのでどこかの川へ行って手で洗濯をして、炊飯器も使えないので火を起こしてご飯を炊いて、日の入りとともに寝るような、一生野宿のような生活になるのか、なんて想像をしていました。そうしているうちに実際に日が暮れてきたので、暗くなる前に、以前ともだちに貸してもらっていた希望の讃美歌から何曲か歌っていました。するとこの讃美歌にたどりつきました。264番「望みも消えゆくまでに」です。 

1 望みも消えゆくまでに
世のあらしに悩むとき
数えてみよ主の恵み
ながこころは安きをえん

  (くりかえし) 
数えよ主の恵み
数えよ主の恵み
数えよひとつずつ
数えてみよ主の恵み

2 主のたまいし十字架を 
担いきれず沈むとき
数えてみよ主の恵み
つぶやきなどいかであらん

3 世の楽しみ 富 知識
ながこころをさそうとき
数えてみよ主の恵み
天つ国のさちに酔わん

 この讃美歌はローマの信徒への手紙8:28「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」をもとに作られました。 

まさにこの嵐の状況にぴったりだと思いました。便利な生活になれて、電気があるのは当たり前という生活をしているわたしたちは、嵐により停電になって始めて電気の便利さ、ありがたさに気付かされます。もしくは、ありがたさに気付かず、「なんでこんなときに停電するの? 計画が台無しになってしまった!」などと苛立ちを覚えたりします。この電気のように、いつもあって当たり前だと思っているたくさんの神様の恵みが、わたしたちの周りにはたくさんあります。神様は毎日、わたしたちが感謝すらしない恵みをたくさん与えてくださっているのではないでしょうか?そして、わたしたちはそれらが取り去られてしまった時に、そのことで怒ったり、悲しんだり、いらいらしたりします。しかしそんなときでも、神様からの恵みを数えてみるのはどうでしょうか?わたしが停電中に神様の恵みを数えてみたら、「自分には気持ちよく寝られるベッドが与えられていて、雨をしのぐ屋根もあり、嵐の中に放り出されたわけじゃない。ひとりぼっちじゃなくて友達が一緒に寮にいる、また、電気は止まったけど水はでる」等々、普段は考えもしないような感謝すべきことが次々と出てきました。
更に、停電中に廊下で新しい友達を作ることもできました。神様は、わたしたちが感謝もしくは気づきもしない祝福をたくさん与えてくださっていると思います。生きていること、毎朝目が覚めること、空気、お水、太陽の光など神様の恵みを数えてみてください。数えだすときりがありません。そこが鍵だとわたしは思います。神様の恵みを数えていたらきりがありません。
でも、そのきりがないほど与えられている神様の恵みを数え続けるならば、わたしたちの心は他のものに向くことはありません。もし神様の祝福に日々気付き、もっと感謝できるようになったのなら、わたしたちの心はどんなに満たされることでしょうか。そして、停電のような時にこそ、神様の恵みに心を向けることが必要だと思います。なぜなら、何かが取り去られてしまったとき、大切なものを失ったとき、大切な人がいなくなってしまったときに、私たちの心は揺らぐからです。サタンの誘惑により、わたしたちは神様の愛を疑ったり、神様の存在を疑ったり、他人に理不尽にも怒りをぶちまけたりしてしまうことがあります。でも、神様に心を向け、神様の恵みに気付き、神様の計画は万事を益としてくださるということを信じる時、平安がわたしたちの心の中に流れ込みます。そして神様を、心を尽くし、魂を尽くして求めるとき、わたしたちは神様に出会うと聖書には約束されています。申命記4:29には「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」とあります。また、エレミヤ書29:12-14にも「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」と書かれています。神様の深い恵みを日々発見していきたいです。

著者:森 春香
編集者:品末 拓真



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2012年7月7日土曜日

言葉遣い

言葉遣い 

「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
ルカによる福音書 6章45節

最近、英語のウェブサイトを日本語に翻訳するお仕事を頂きました。このお仕事をやっていく中で、日本語には、同じような意味でも様々な表現方法があることや、微妙に違った意味合いをもつ言い回しがたくさんあることを実感させられました。そして、日本語は丁寧な言葉遣いを心がける美しい言語だと思いました。相手の存在を認め、尊重する態度が示された丁寧な言葉遣いが日本語には数多くあります。

言葉遣いは礼儀として気を付けるのが当たり前であり、社会でうまくやっていくためには良い言葉遣いを身につけることが必要です。さらに、言葉遣いはその人自身の心の状態をよく表します。わたしたちはほぼ毎日だれかと会話をするわけですから、毎日どのような言葉を使ってどのように話すかは、わたしたちの態度そのものにつながると思います。

さて、言葉遣いについて聖書はどのようなことを言っているのでしょうか?ルカによる福音書6章45節には「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と書かれています。

「自分はこんなことを言うけど、本当はそうは思っていないよ」と言う人がいるかもしれません。では冗談について考えてみましょう。冗談で友達をからかって、「本当は思っていないからいいんだよ」とか「冗談だよ~本気にしないで」という人がいます。しかし、もしからかわれている人に冗談が通じなかったらどうでしょう?冗談を本気にとらえてしまったらどうでしょうか?わたしはアメリカに来たばかりのころ英語があまりしゃべれず、日常会話を理解するのも大変だったのに、周りの学生がやたら冗談好きで冗談を頻繁に言ってきました。やっと相手が何を言ったか分かったと思った矢先、「ハハハ冗談だよ!」と言われさらに訳が分からなくなるということが何度もありました。彼らにとっては面白いであろうアジア人に対するジョークなどもたくさん言われましたが、わたしには全然おもしろくないということもありました。冗談を言うにも気を付けないと、思わぬところで人を傷つけてしまうことがあるということを心掛けておく必要があると思います。なぜなら、自分にとってはおもしろくても相手にとってはおもしろくなく、むしろ不快な思いをさせてしまうかもしれないからです。

言葉遣いに気を付けることは、結局は相手を思いやる心遣いであり、聖書が言うように良いものを入れた心の倉からは良い言葉が、悪いものを入れた倉からは悪い言葉がでてきます。それでは、聖書が言葉について他に何と言っているか見てみましょう。

箴言13章3節「自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。」

箴言16章28節「暴言をはく者はいさかいを起こさせる。陰口は友情を裂く。」

箴言15章1節「柔らかな応答は憤りを静め 傷つける言葉は怒りをあおる。」

箴言16章24節「親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。」



コロサイの信徒への手紙4章6節では「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」と勧められています。わたしたちの言葉は人を励まし、勇気づけ、慰めることもできれば、人をいらだたせ、怒らせることもできます。そして、どのような言葉をどのように話すかは、わたしたちが決められることです。

もしわたしたちが心から神様に仕えたいと望んでいるのなら、神様の品性を映し出すような言葉遣いを心掛けるべきではないでしょうか。愛をもって仲間を励まし、褒め、感謝し、また慰めることのできる言葉を毎日選んで使っていきたいです。

著者:森 春香
編集者:品末 拓真



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2012年7月2日月曜日

聖書って?

聖書って?

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」テモテへの手紙二 3:16

みなさんは聖書という本を読んだことがありますか?聖書にはどんなことが書かれているのでしょうか?今回はまず聖書がどういう本なのか、聖書の魅力を図書館の「おすすめの本紹介コーナー」風に書きました。


著者:神様によって導かれた約40人の異なる背景をもった人たち―モーセ、ヨシュア、サムエル、エズラ、ダビデ、ソロモン、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、ヨナ、マラキ、パウロ、ペテロ、ヨハネなど。

いつ書かれたの?1600 B.C.A.D.90ごろ。約1500年にわたって書かれました。

内容:聖書は66冊の本が集まってできています。前半は「旧約聖書」と言い、39冊の本からできています。後半は「新約聖書」と言い、27冊の本からできています。聖書には、人間がどこから来たのか、死んだらどうなるのか、神様の計画、神様を信じた人たちの歴史、戦い、歌、祈り、イエス・キリストの人生、悪魔の働き、又、私たちが今日どう生きるべきか、何をするべきなのか、周りにいる人に対してどう接するべきか、愛とは何か、罪とは何か、信仰とは何か、イエス・キリストを信じることによる救いとはどういうことか、天国はどんなところか、などが書かれています。

 聖書ってフィクションなの?:「聖書はただのおとぎばなしだ」という人はもちろんたくさんいます。しかし歴史と照らし合わせてみると、聖書にはその時代を治めていた王様が登場したり(バビロン王国のネブカドネザル王など)、実際に歴史上で起きた出来事(ノアの時代の大洪水、457B.C.のエルサレムの神殿の再建、A.D.31のイエス・キリストの十字架など)が記録されています。あなたも聖書を勉強すればするほど、聖書がフィクションではないと確信するはずです。

聖書の魅力:聖書は分厚い本です。こんな分厚い本読めないよ!と思うかもしれません。しかし時間をかけて少しずつ読んでいく時、あなたの人生の見方が変わると思います。聖書は様々な職業や立場の人によって書かれました。羊飼い、取税人、預言者、イエスの弟子、医者、伝道者などです。彼らの体験や、神様が彼らに与えられた希望のメッセージが聖書には書き記されています。あなたがいま経験している喜び、悲しみ、困難を同じように味わった人々の話が書かれています。聖書には素晴らしい成功の話ばかりが書かれているわけではなく、たくさんの堕落した人生、高慢による失敗、間違った選択、その結果の絶望の中での心の叫びを歌にしたものなどもあります。聖書の中には皆さんも共感できる箇所が必ずあるはずです。

神様によって導かれて書かれたってどういうこと?: 聖書のテモテへの手紙二 3:16に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と書かれています。どういうことでしょうか?神様は、約40人の著者をまるでロボットの様に扱い、一字一句コントロールして書いたのでしょうか?あるクリスチャンはそうだと信じています。しかし、聖書を原語であるヘブライ語やギリシャ語で読むと、それぞれの著者の言葉遣いの違いがわかります。また、著者それぞれの背景に基づいたものごとの見方などが話に表れているのもわかります。そして人間の意志を尊重し強制することのない神様の性質を考えると、神様が一字一句すべて著者に与えて書きとらせたとは考えがたいです。神様は聖霊によって著者たちの心に語りかけ、書くべきことを示されたと私は信じます。聖書は、神様に導かれて書かれたので、1500年にもわたって40人もの著者によって書かれたにも関わらずそれぞれの箇所のつじつまが合い、同じ神様の教え、約束が記されています。 

みなさんも読んでみませんか?
一度読んだ本は結末が分かってしまっていて、もう読みたくないと思うことがあります。しかし、聖書は読めば読むほどおもしろい本です。奥が深く、一度読んだだけでは正直よくわかりません。何度も読み続ける必要があると思います。そして同じ箇所にしても、今日読んだ時よりも1年後に読んだ時の方が自分にとって更に意味のあるものになっているかもしれません。今までの歴史上、この聖書に書かれてある言葉を勉強し、信じ、実行してきた人たちがたくさんいます。聖書の言葉を守るために人生をささげ、命をも惜しまなかった人たちがいます。果たして聖書とはどういうものなのでしょうか?それは自分自身で読んでみて体験してください。また、聖書を読む前には必ず、よく理解する力が与えられるように神様にお祈りしてください。聖書を読むことで、神様の愛の深さを日々発見して頂きたいです。

著者:森春香
編集者:品末拓真

2012年7月2日



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