サザンアドベンチスト大学のあるチャタヌーガ一帯は、いま嵐により停電しています。女子寮の一部屋の窓ガラスは、強風により割れてしまいました。夏休み中は寮に残っている生徒は20人程度と少なく、幸いだれも住んでいない部屋だったので怪我人はありませんでした。停電はまだ続いているのですが、パソコンは充電されていたので何か書いてみようと思い、こうして書いています。
停電すると、いつもついている電気やクーラーの音がすべて無くなり、寮内はとても静かになります。そこで色々なことを考えました。例えば、「もしこのまま電気が一生もどってこなかったらどういう生活になるだろう?」そうなれば、日の出とともに起きて、洗濯機は動かないのでどこかの川へ行って手で洗濯をして、炊飯器も使えないので火を起こしてご飯を炊いて、日の入りとともに寝るような、一生野宿のような生活になるのか、なんて想像をしていました。そうしているうちに実際に日が暮れてきたので、暗くなる前に、以前ともだちに貸してもらっていた希望の讃美歌から何曲か歌っていました。するとこの讃美歌にたどりつきました。264番「望みも消えゆくまでに」です。
1 望みも消えゆくまでに
世のあらしに悩むとき
数えてみよ主の恵み
ながこころは安きをえん
(くりかえし)
数えよ主の恵み
数えよ主の恵み
数えよひとつずつ
数えてみよ主の恵み
2 主のたまいし十字架を
担いきれず沈むとき
数えてみよ主の恵み
つぶやきなどいかであらん
3 世の楽しみ 富 知識
ながこころをさそうとき
数えてみよ主の恵み
天つ国のさちに酔わん
この讃美歌はローマの信徒への手紙8:28「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」をもとに作られました。
まさにこの嵐の状況にぴったりだと思いました。便利な生活になれて、電気があるのは当たり前という生活をしているわたしたちは、嵐により停電になって始めて電気の便利さ、ありがたさに気付かされます。もしくは、ありがたさに気付かず、「なんでこんなときに停電するの? 計画が台無しになってしまった!」などと苛立ちを覚えたりします。この電気のように、いつもあって当たり前だと思っているたくさんの神様の恵みが、わたしたちの周りにはたくさんあります。神様は毎日、わたしたちが感謝すらしない恵みをたくさん与えてくださっているのではないでしょうか?そして、わたしたちはそれらが取り去られてしまった時に、そのことで怒ったり、悲しんだり、いらいらしたりします。しかしそんなときでも、神様からの恵みを数えてみるのはどうでしょうか?わたしが停電中に神様の恵みを数えてみたら、「自分には気持ちよく寝られるベッドが与えられていて、雨をしのぐ屋根もあり、嵐の中に放り出されたわけじゃない。ひとりぼっちじゃなくて友達が一緒に寮にいる、また、電気は止まったけど水はでる」等々、普段は考えもしないような感謝すべきことが次々と出てきました。
更に、停電中に廊下で新しい友達を作ることもできました。神様は、わたしたちが感謝もしくは気づきもしない祝福をたくさん与えてくださっていると思います。生きていること、毎朝目が覚めること、空気、お水、太陽の光など神様の恵みを数えてみてください。数えだすときりがありません。そこが鍵だとわたしは思います。神様の恵みを数えていたらきりがありません。
でも、そのきりがないほど与えられている神様の恵みを数え続けるならば、わたしたちの心は他のものに向くことはありません。もし神様の祝福に日々気付き、もっと感謝できるようになったのなら、わたしたちの心はどんなに満たされることでしょうか。そして、停電のような時にこそ、神様の恵みに心を向けることが必要だと思います。なぜなら、何かが取り去られてしまったとき、大切なものを失ったとき、大切な人がいなくなってしまったときに、私たちの心は揺らぐからです。サタンの誘惑により、わたしたちは神様の愛を疑ったり、神様の存在を疑ったり、他人に理不尽にも怒りをぶちまけたりしてしまうことがあります。でも、神様に心を向け、神様の恵みに気付き、神様の計画は万事を益としてくださるということを信じる時、平安がわたしたちの心の中に流れ込みます。そして神様を、心を尽くし、魂を尽くして求めるとき、わたしたちは神様に出会うと聖書には約束されています。申命記4:29には「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」とあります。また、エレミヤ書29:12-14にも「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」と書かれています。神様の深い恵みを日々発見していきたいです。
更に、停電中に廊下で新しい友達を作ることもできました。神様は、わたしたちが感謝もしくは気づきもしない祝福をたくさん与えてくださっていると思います。生きていること、毎朝目が覚めること、空気、お水、太陽の光など神様の恵みを数えてみてください。数えだすときりがありません。そこが鍵だとわたしは思います。神様の恵みを数えていたらきりがありません。
でも、そのきりがないほど与えられている神様の恵みを数え続けるならば、わたしたちの心は他のものに向くことはありません。もし神様の祝福に日々気付き、もっと感謝できるようになったのなら、わたしたちの心はどんなに満たされることでしょうか。そして、停電のような時にこそ、神様の恵みに心を向けることが必要だと思います。なぜなら、何かが取り去られてしまったとき、大切なものを失ったとき、大切な人がいなくなってしまったときに、私たちの心は揺らぐからです。サタンの誘惑により、わたしたちは神様の愛を疑ったり、神様の存在を疑ったり、他人に理不尽にも怒りをぶちまけたりしてしまうことがあります。でも、神様に心を向け、神様の恵みに気付き、神様の計画は万事を益としてくださるということを信じる時、平安がわたしたちの心の中に流れ込みます。そして神様を、心を尽くし、魂を尽くして求めるとき、わたしたちは神様に出会うと聖書には約束されています。申命記4:29には「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」とあります。また、エレミヤ書29:12-14にも「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」と書かれています。神様の深い恵みを日々発見していきたいです。
著者:森 春香
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