2013年4月29日月曜日
2013年4月23日火曜日
結婚
結婚…いつの日かしたいものです。
(4/22にhttps://www.facebook.com/adventistyouthjpに投稿されたものです。)
あなたは相手のことをよく知らないのに結婚できますか?僕には無理です。やはり相手のことをよく知ってから結婚したいです。結婚しなければ見えない部分もたくさんあるのでしょうが、だからと言って知らない人と生活を共にしたいとは思いません。ちゃんと時間を共有して、お互いの素を分かり合っていなければ、結婚などそうそう上手くいかないのではないでしょうか。
聖書ではイエス様を夫、教会を妻に例えることがあります(エフェソ5:23)。わたしたちは、夫であるイエス様をどれほど知っていますか?それ以前に、イエス様に興味を持っていますか?自分の夫を知ろうと時間をとっていますか?よく考えてみてください。知らない方と永遠を共に過ごしたいなんてどうして言えましょう。僕たちは何よりもまず、イエス様がどういう方なのか知り、関係を深めるべきではないでしょうか。
イエス様はもうすぐわたしたち花嫁を迎えに来ます。永遠に共に暮らすためです。あなたは本当にその準備ができていますか?
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタイによる福音書25:13
写真:見てください。この幸せな顔を。二人が結婚しなければ僕も妹もこの世にはいません。
2013年4月17日水曜日
りんご
友達に紹介されたお話です。みなさんにも読んでもらいたいと思い、英語から翻訳しました。
数年前、あるセールスマンのグループが地方販売会議のためにシカゴへ行きました。彼らは金曜日の晩ご飯までには帰ると、それぞれの妻に伝えていました。チケットやかばんを抱え、帰りの飛行機に乗り遅れないようにと急いでいた時、一人のセールスマンがりんごを売っているテーブルをうっかり蹴ってしまいました。りんごはそこら中に散らばりましたが、どのセールスマンも見向きもせず、飛行機に何とか間に合いました。
しかし一人だけ、立ち止まり、深呼吸をし、りんごをひっくり返された女の子をかわいそうに思ったセールスマンがいました。彼は同僚に、自分をおいて発って、妻に遅くなると伝言してくれと伝えました。そして、たくさんのりんごが転がっているターミナルへと戻っていきました。
彼はターミナルに戻ってよかったと思いました。りんごを売っていた16歳の女の子は盲目だったからです。彼女は失望して泣きながら、手探りでりんごを探していました。でも、誰も彼女のために足を止めませんでした。彼は膝をついてりんごを拾い集め、テーブルの上に戻してあげました。
多くのりんごがつぶれたり傷ついたりしていたので、彼はそれらを違うバスケットに分けました。片づけ終わった時、彼はポケットから財布を取り出して彼女に言いました。「私達が傷つけてしまったりんごの分、この40ドルを受け取ってください。よろしいですか?」彼女は泣きながら首を縦に振りました。彼は更に、「私達が全てを台無しにしてしまわなかったことを願うよ。」と付け加えました。
彼がその場を去ろうとした時、困惑した盲目の女の子は彼のことを呼び止めました。「す、すみません…。」彼は振り返り、彼女の盲目の目を見つめました。すると彼女は、こう言いました。「あなたはイエス様ですか?」
彼は言葉の意味が理解できませんでした。そして彼女に、「私はイエス様ではないよ。イェス様は親切でやさしいし、思いやりがあって愛がある。第一に、君の売り場にぶつかるような事はしないよ」と返しました。
盲目の女の子は静かにうなずき、彼にこう言いました。「私がそう聞いたのは、イェス様にりんごを拾うのを助けてくれるよう、お祈りしていたからです。イエス様があなたを私のもとに送ってくれました。だから、あなたはイェス様のような人です。イエス様だけが彼の御心を行う者を知っています。イエス様の呼びかけに応えてくれてありがとう。」
次のフライトへと向かう中、彼の心の中ではあの質問が何度も繰り返されていました。「あなたはイエス様ですか?」
あなたは人々にイエス様と見違えられることはありますか?
それが私達クリスチャンの運命ではないでしょうか。イエス様の愛、命、恵みに対して盲目である世界に生きるわたしたちは、イエス様との違いも分からなくなるくらいに、イエス様のようになるべきではないでしょうか。
わたしたちがイエス様を知っていると主張するのならば、私たちはイエス様のように生き、歩き、行動するべきなのです。イエス様を知るという事は、ただ単に聖句を引用することや、毎週教会に行くことではありません。それは、与えられる人生の中で聖書の言葉を、イエス様を生きるという事なのです。
あなたは神様の目のりんご(ひとみ)なのです(英語でとても大切な存在という意味)。あなたが罪に堕落して、傷ついたにもかかわらずです。神様は立ち止まって、カルバリーという名の丘であなたと私を拾い上げ、私たちの傷の代価として、御自身を捧げられました。
「幸せになるという事は、全てが完璧という事ではない。それは、あなたが不完全さの向こうを見ようと決心したということである。」
翻訳:西野貴基
編集:品末拓真
翻訳:西野貴基
編集:品末拓真
2013年4月14日日曜日
『じーちら』の方式
あなたは自分の過ち、弱さなどに不安を持っていますか?あなたは自分の力不足、愚かなことについて落ち込んでいますか?その問題を解決するには、自分を見過ぎない事です。自分の事ばっかり見ていると否定的になって、がっかりするだけだからです。
自分だけではなく、他の人もあまり見ないようにしましょう。他人ばっかり見ていると、自分はあの人よりも立派で優秀だと勘違いしたり、あの人と比べると自分は落ちこぼれでどうしようもないと錯覚したりしてしまいます。
自分も他人も見ない方がいいなら、いったい誰を見るべきなのでしょうか?答えはただ一つ。全世界の創造者であり、救い主であられる神様、主イエス・キリストです。我々が見るべき方はイエス・キリストですの他おりません。たとえあなたがクリスチャンであろうとなかろうと、ぜひ、イエス・キリストを見てください。もしあなたが自分の存在意義や生きる目的に悩んでいるのなら、私達の主イエス・キリストを見てください。
『じーちら』の方式は簡単です。イエス・キリストを『じー』とながめて、自分の事はただ『ちら』と見るだけです。『じー』とイエス・キリストを見つめた後、どうしたらもっとイエス・キリストのようになれるだろうかと自分を『ちら』と見るのです。『じーちら』の方式に従って生きていけば、あなたの人生は常に成長と発見でいっぱいのわくわくしたものになります。では、どうすればイエス・キリストを『じー』と見る事ができるのでしょうか?聖書です。聖書を読んで、勉強すれば、イエス・キリストの事を『じー』と見つめることができるのです。
『わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。』
コリント人への第二の手紙3章18節
福田ダニエル
チョコレート
わたしはチョコレートが好きです。なぜなら、嫌な気分のときにチョコレートを食べると、一瞬それを忘れさせてくれるからです。わたしはチョコレートを美味しく味わって食べることよりも、感情を紛らわすために無茶苦茶な量を食べてしまうことが多いです。その後でお腹が痛くなって後悔します。また、「一気にこんな量の糖分をとってしまった。ニキビがでる」などと思って自己嫌悪に陥ります。わたしは今まで南からのお便りで上手くいっていること、解決したことについて書いてきましたが、今回はわたしが悩んでいることについて書きます。
「チョコレートぐらい食べても大丈夫よ」、「かわいらしい悩みじゃない」と言う人もいるでしょう。わたしは遺伝的にすぐには太らないので、チョコレートを食べ過ぎてもたまに肌が荒れる程度で、目に見て分かるような影響はたいしてありません。「わたし、チョコ中毒なんだ~」と友達に冗談のように言ってあまり問題視していなかったのですが、あるとき自分とチョコレートの関係について考えました。
ある日、Women’s Fitnessという授業で先生はわたしたちにこう聞きました。「この社会では、自分が美しいと感じるからこの服を着る、皆に美しいと言ってもらうために運動する、また、これを食べると良い気分になれるから食べる、などといった考え方が主流ですが、神様はそれらの考え方について何と言っておられますか?」わたしたちはそれについて調べて、学んだことを書き出しました。そこでわたしは、「自分の体は神様の神殿だから、神様とより明確な関係を持ち、もっと聖霊の声を聞くために体をベストな状態に保つべき。そのために運動や良い食事する。周りの人から称賛を得るために健康的な生活をするのではない」ということを学びました。
わたしは、「もしすべての行動で神様の栄光を表したいと思っているのなら、体に悪いと分かっているものを食べるのは無意味だ。自分にとってそれはチョコレートだ」と思いました。そこでわたしは、「自分はチョコを食べるのをやめようと思っているので、良ければ食べてください」と一緒に住んでいる人たちに自分の持っていたチョコレートをあげました。(今考えるとそれもどうなのかと思いますが、それはさておき…)
翌日、神学部の先生による講演があり、それを聞きに行った友達に「どうだった?」と聞くと、「中毒に打ち勝つ7つのステップについて話していたよ」と教えてくれました。「お話の中で何が一番印象的だった?」と聞くと、「先生が中毒をたんぽぽの花に例えて、『たんぽぽの花は、花自体を何度摘んでも根っこから抜かない限りまた生えてくる。それと同じように、中毒もその症状だけを直したところで、もしその原因を神様に取り除いてもらわなければまたすぐに戻ってくる。』と言っていたことだよ」と言いました。さらにその友達は、「例えば、あなたがチョコレート中毒だとしたら、持っているチョコレートをただ捨てても意味がないんだよ。」と付け足したのです!!わたしはびっくりしました。わたしはその人にチョコレートのことを一切話していなかったからです。それなのにそのタイミングでいきなりそう言ってきたので、これは神様が何か示そうとしておられるのだなとわたしは思いました。
よく考えてみれば、自分がチョコレートを食べるときは、自分が心地悪く、ストレスを感じ、嫌な現実と向き合いたくない時でした。神様に助けを求めるかわりにチョコレートを食べて、一瞬の慰めを求めるということを繰り返していることに気づき、これが自分の弱さであり、祈りが必要なのだと思いました。自分に都合が悪いからと言って、それと向き合う力を神様に求めないで逃げていても、問題は何も改善されません。こういう考え方ができるように助けてくれた友達が与えられたことに感謝です。
そんなわけで、チョコレートを感情的にたくさん食べて気分を紛らわせようとする、いわゆる現実逃避をやめようとしています。チョコレートそのものが悪いというよりは、チョコレートを利用して一時の慰めを求めても、結局は問題と向き合わなければそれを解決できないということに気づいたからです。そしてなによりも、わたしは神様以外のものに助けを求めることに依存していると気づいたからです。チョコレート以外にもたくさんそういうものはあります。
一体、どこの国が 神々を取り替えたことがあろうか しかも、神でないものと。
ところが、わが民はおのが栄光を 助けにならぬものと取り替えた。
天よ、驚け、このことを 大いに、震えおののけ、と主は言われる。
まことに、わが民は二つの悪を行った。
生ける水の源であるわたしを捨てて 無用の水溜めを掘った。
水をためることのできない こわれた水溜を。
エレミヤ書2:11-13
神様を捨て、満たされることのないものに頼る(わたしにとってはチョコレート)ことは悪だと書かれています。そして神様は、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」とエレミヤ書3:22で言われています。神様に立ち帰るのなら、神様はわたしたちをいやしてくださいます。そこでまた背きますか?それとも神様のうちに留まりますか?神様はわたしたちをひと時のいやしのために呼んでおられるのではありません。神様は立ち帰る人を新しく創りかえて、新しい心を与えてくださいます。
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
エゼキエル書36:26
聖書に書かれているこれらの約束をわたしは信じ、神様にお願いします。「神様の望まれない部分を示してください。そこを粘土のように練って、新しく創りかえてください。天国に入るのにふさわしい人格を築かせてください。わたしは弱いので、そこに至るまで何度もつまずくかもしれません。それでも諦めないでわたしに働きかけてくださることを感謝します。」
森春香
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