2013年4月17日水曜日

りんご


友達に紹介されたお話です。みなさんにも読んでもらいたいと思い、英語から翻訳しました。

数年前、あるセールスマンのグループが地方販売会議のためにシカゴへ行きました。彼らは金曜日の晩ご飯までには帰ると、それぞれの妻に伝えていました。チケットやかばんを抱え、帰りの飛行機に乗り遅れないようにと急いでいた時、一人のセールスマンがりんごを売っているテーブルをうっかり蹴ってしまいました。りんごはそこら中に散らばりましたが、どのセールスマンも見向きもせず、飛行機に何とか間に合いました。

しかし一人だけ、立ち止まり、深呼吸をし、りんごをひっくり返された女の子をかわいそうに思ったセールスマンがいました。彼は同僚に、自分をおいて発って、妻に遅くなると伝言してくれと伝えました。そして、たくさんのりんごが転がっているターミナルへと戻っていきました。

彼はターミナルに戻ってよかったと思いました。りんごを売っていた16歳の女の子は盲目だったからです。彼女は失望して泣きながら、手探りでりんごを探していました。でも、誰も彼女のために足を止めませんでした。彼は膝をついてりんごを拾い集め、テーブルの上に戻してあげました。

多くのりんごがつぶれたり傷ついたりしていたので、彼はそれらを違うバスケットに分けました。片づけ終わった時、彼はポケットから財布を取り出して彼女に言いました。「私達が傷つけてしまったりんごの分、この40ドルを受け取ってください。よろしいですか?」彼女は泣きながら首を縦に振りました。彼は更に、「私達が全てを台無しにしてしまわなかったことを願うよ。」と付け加えました。

彼がその場を去ろうとした時、困惑した盲目の女の子は彼のことを呼び止めました。「す、すみません…。」彼は振り返り、彼女の盲目の目を見つめました。すると彼女は、こう言いました。「あなたはイエス様ですか?」

彼は言葉の意味が理解できませんでした。そして彼女に、「私はイエス様ではないよ。イェス様は親切でやさしいし、思いやりがあって愛がある。第一に、君の売り場にぶつかるような事はしないよ」と返しました。

盲目の女の子は静かにうなずき、彼にこう言いました。「私がそう聞いたのは、イェス様にりんごを拾うのを助けてくれるよう、お祈りしていたからです。イエス様があなたを私のもとに送ってくれました。だから、あなたはイェス様のような人です。イエス様だけが彼の御心を行う者を知っています。イエス様の呼びかけに応えてくれてありがとう。」

次のフライトへと向かう中、彼の心の中ではあの質問が何度も繰り返されていました。「あなたはイエス様ですか?」


あなたは人々にイエス様と見違えられることはありますか?

それが私達クリスチャンの運命ではないでしょうか。イエス様の愛、命、恵みに対して盲目である世界に生きるわたしたちは、イエス様との違いも分からなくなるくらいに、イエス様のようになるべきではないでしょうか。

わたしたちがイエス様を知っていると主張するのならば、私たちはイエス様のように生き、歩き、行動するべきなのです。イエス様を知るという事は、ただ単に聖句を引用することや、毎週教会に行くことではありません。それは、与えられる人生の中で聖書の言葉を、イエス様を生きるという事なのです。

あなたは神様の目のりんご(ひとみ)なのです(英語でとても大切な存在という意味)。あなたが罪に堕落して、傷ついたにもかかわらずです。神様は立ち止まって、カルバリーという名の丘であなたと私を拾い上げ、私たちの傷の代価として、御自身を捧げられました。

「幸せになるという事は、全てが完璧という事ではない。それは、あなたが不完全さの向こうを見ようと決心したということである。」

翻訳:西野貴基
編集:品末拓真


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