2013年4月14日日曜日

チョコレート


 わたしはチョコレートが好きです。なぜなら、嫌な気分のときにチョコレートを食べると、一瞬それを忘れさせてくれるからです。わたしはチョコレートを美味しく味わって食べることよりも、感情を紛らわすために無茶苦茶な量を食べてしまうことが多いです。その後でお腹が痛くなって後悔します。また、「一気にこんな量の糖分をとってしまった。ニキビがでる」などと思って自己嫌悪に陥ります。わたしは今まで南からのお便りで上手くいっていること、解決したことについて書いてきましたが、今回はわたしが悩んでいることについて書きます。

 「チョコレートぐらい食べても大丈夫よ」、「かわいらしい悩みじゃない」と言う人もいるでしょう。わたしは遺伝的にすぐには太らないので、チョコレートを食べ過ぎてもたまに肌が荒れる程度で、目に見て分かるような影響はたいしてありません。「わたし、チョコ中毒なんだ~」と友達に冗談のように言ってあまり問題視していなかったのですが、あるとき自分とチョコレートの関係について考えました。

 ある日、Women’s Fitnessという授業で先生はわたしたちにこう聞きました。「この社会では、自分が美しいと感じるからこの服を着る、皆に美しいと言ってもらうために運動する、また、これを食べると良い気分になれるから食べる、などといった考え方が主流ですが、神様はそれらの考え方について何と言っておられますか?」わたしたちはそれについて調べて、学んだことを書き出しました。そこでわたしは、「自分の体は神様の神殿だから、神様とより明確な関係を持ち、もっと聖霊の声を聞くために体をベストな状態に保つべき。そのために運動や良い食事する。周りの人から称賛を得るために健康的な生活をするのではない」ということを学びました。

 わたしは、「もしすべての行動で神様の栄光を表したいと思っているのなら、体に悪いと分かっているものを食べるのは無意味だ。自分にとってそれはチョコレートだ」と思いました。そこでわたしは、「自分はチョコを食べるのをやめようと思っているので、良ければ食べてください」と一緒に住んでいる人たちに自分の持っていたチョコレートをあげました。(今考えるとそれもどうなのかと思いますが、それはさておき…)

 翌日、神学部の先生による講演があり、それを聞きに行った友達に「どうだった?」と聞くと、「中毒に打ち勝つ7つのステップについて話していたよ」と教えてくれました。「お話の中で何が一番印象的だった?」と聞くと、「先生が中毒をたんぽぽの花に例えて、『たんぽぽの花は、花自体を何度摘んでも根っこから抜かない限りまた生えてくる。それと同じように、中毒もその症状だけを直したところで、もしその原因を神様に取り除いてもらわなければまたすぐに戻ってくる。』と言っていたことだよ」と言いました。さらにその友達は、「例えば、あなたがチョコレート中毒だとしたら、持っているチョコレートをただ捨てても意味がないんだよ。」と付け足したのです!!わたしはびっくりしました。わたしはその人にチョコレートのことを一切話していなかったからです。それなのにそのタイミングでいきなりそう言ってきたので、これは神様が何か示そうとしておられるのだなとわたしは思いました。

よく考えてみれば、自分がチョコレートを食べるときは、自分が心地悪く、ストレスを感じ、嫌な現実と向き合いたくない時でした。神様に助けを求めるかわりにチョコレートを食べて、一瞬の慰めを求めるということを繰り返していることに気づき、これが自分の弱さであり、祈りが必要なのだと思いました。自分に都合が悪いからと言って、それと向き合う力を神様に求めないで逃げていても、問題は何も改善されません。こういう考え方ができるように助けてくれた友達が与えられたことに感謝です。

 そんなわけで、チョコレートを感情的にたくさん食べて気分を紛らわせようとする、いわゆる現実逃避をやめようとしています。チョコレートそのものが悪いというよりは、チョコレートを利用して一時の慰めを求めても、結局は問題と向き合わなければそれを解決できないということに気づいたからです。そしてなによりも、わたしは神様以外のものに助けを求めることに依存していると気づいたからです。チョコレート以外にもたくさんそういうものはあります。

一体、どこの国が 神々を取り替えたことがあろうか しかも、神でないものと。
ところが、わが民はおのが栄光を 助けにならぬものと取り替えた。
天よ、驚け、このことを 大いに、震えおののけ、と主は言われる。
まことに、わが民は二つの悪を行った。
生ける水の源であるわたしを捨てて 無用の水溜めを掘った。
水をためることのできない こわれた水溜を。
エレミヤ書2:11-13

 神様を捨て、満たされることのないものに頼る(わたしにとってはチョコレート)ことは悪だと書かれています。そして神様は、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」とエレミヤ書3:22で言われています。神様に立ち帰るのなら、神様はわたしたちをいやしてくださいます。そこでまた背きますか?それとも神様のうちに留まりますか?神様はわたしたちをひと時のいやしのために呼んでおられるのではありません。神様は立ち帰る人を新しく創りかえて、新しい心を与えてくださいます。

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
エゼキエル書36:26

 聖書に書かれているこれらの約束をわたしは信じ、神様にお願いします。「神様の望まれない部分を示してください。そこを粘土のように練って、新しく創りかえてください。天国に入るのにふさわしい人格を築かせてください。わたしは弱いので、そこに至るまで何度もつまずくかもしれません。それでも諦めないでわたしに働きかけてくださることを感謝します。」

森春香

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