2013年6月30日日曜日

ハイキング



目をあげて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。

主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。
あなたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。

詩編121編




昨日Forest Fall というところに友達とハイキングに行きました。学校のキャンパスから離れて自然に入るとなんだか忙しい生活を忘れさせてくれるようでした。連なる山をみて友達のお母さんが詩編121編のはじめ、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」と言いました。すぐ目の前のことばかりに気を取られてしまいますが、神様を見上げて助けを求めていきたいです。




2013年6月28日金曜日

神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。

詩編46:6


  わたしたちの周りに日常に起こることはわたしたちの心を揺らがせることばかりです。物事が上手くいかなかったり、思わぬ壁にぶち当たってしまったり、学校での試験でボロボロになったり、プレッシャーに負けてしまったり、期待を裏切られたり。そんな中でわたしたちは自然と何かしっかりとした揺らぐことのないものに掴まることを必死で求めるのではないでしょうか?
  そこでほかの揺らぐもの、たとえば自分自身、ほかの人、物などが心に平安を与えてくれると勘違いして掴まることもあります。それらに掴まっていればきっとあなたと一緒にそのまま揺らぐでしょう。しかし本当に揺らぐことがなく、わたしたちに心の平安を与え、助けてくださるのは神様です。神様がわたしたちの心に入ってきてわたしたちにつながってくださることをお祈りしましょう。


2013年6月27日木曜日

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたに任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

ヨハネによる福音書15:16,17

2013年6月26日水曜日

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。

ヨハネによる福音書16:33


2013年6月23日日曜日

真理って?

「イエスは言われた。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない。」
ヨハネによる福音書14:6

去年の夏わたしはコロンビアに行きました。サザンアドベンチスト大学からShare Himという伝道のプログラムに参加しました。そのプログラムは教会で英語からスペイン語に通訳してくれる人を通して聖書のお話を2週間半ほどするというものでした。そこでスペイン語しゃべれたらいいなと思いサザンから一緒に行った友達たちと短い聖句をスペイン語で練習したりしました。そこで通訳してくれていた人にそのことを伝えると、「ぼくの好きな聖句はこれだよ」『あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』ヨハネによる福音書8:32と言いました。

そのとき、わたしにとってこの聖句は「別に自分にはインパクトがないけどあなたはこれが好きなんだね」という程度で自分に語りかけてくるメッセージというものは分かりませんでした。そして「イエス様は自分のために十字架にかかってくださってそれによって自分は罪から自由になる」ということを言っているんだろうとさらっと表面上は理解していました。夏が終わり、学期が始まりました。

学期中に「あなたのやっていることはからっぽなのか?あなたはどこかで矛盾していますか?」という疑問を投げかけられ、わたしは自分自身の行動を見直し始めました。そしてたくさんの疑問が生まれました。始めは『そんなことない、自分は大丈夫』と言いきかせ、現実と向き合うことを避けたかったのですが、なんだかもやもや、もやもやして、すっきりしません。「神様、意味がわかりません」と言ったり「本当に自分はからっぽなのですか」と訴えたり、考え込んだり、いろんな人に突然質問したりして、アドバイスを求めたりしました。本当に悩みました。ますますこんがらがっていますと、そんななかで「イエス様を見よう」という友達がいました。「イエス様を求めれば自分の罪深いところなんか嫌というほど見えてくる。人に言われなくても分かる。」と。 

そこでわたしはイエス様をよく見ていなかったと分かりました。真実が見えていなかったのです。なぜならイエス様を見ていれば、イエス様は真実であるので真実が分かるはずです。

自分は罪人だけど、そうじゃないように見せようと頑張ったり、自分で罪から解放されようとあれこれ一般的に正しいと見えるようなことをやって、それで満足して、高慢になって、罪人であるということなど忘れてしまっている、そんなところにわたしはいました。とても危険です。自分に救う力があるかのように勘違いしていますね!教会の中にいたってそういうことはいくらでもできると思います。よいと思われるような奉仕を忙しくたくさんしてそれで『自分は良い人だ』、『ちょっとましな罪びとになったかな?』『神様の自分に対する価値がちょっと上がったかな?』など考えます。しかし神様はわたしたちの心のなかを究めておられ、わたしたちを裁かれるのも神様です。

わたしはどちらかというと、イエス様を見るよりも他人をよく見ていました。他人の言うことや反応によく左右され、自分の価値を神様ではなくて、ほかの人間によって上げられたり下げられたりすることを許していました。
しかし、真理、真実は「人間は罪人」ということ。ローマ3:9にも「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘されたように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪のもとにあるのです。」とあります。自分自身のことを罪人だと言っているとわたしはこの聖句を自分の人生に当てはめていませんでした。わたしはもともと罪人です。それは隠したってどれだけつくろったって変わらない、自分では解放できない罪の奴隷となってしまっているという真実。わたしが罪人であるということはイエス様もよ~く知っておられます。しかしそこでは終わりません。神様はわたしたちを愛してくださっていて、とても価値のある尊いものとしてくださっている。それも真実。これは他の人間があなたのことをどう言おうが、どう評価しようが、あなたが成功しようが、失敗しようが変わりません。あなたはこの宇宙の王である神様、この世界を創られたイエス様から見てとても価値があるのです。それは真実。そのイエス様が十字架にかかって罪の代価を払ってくださったので、わたしたちがお願いすれば聖霊の導きによって、罪深い性質から創りかえてくださることがおできになる。それも真実。

これらの真実を知って、そして受け入れてわたしはさまざまな思いや悩み、不安から解放されました。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」というヨハネによる福音書8:32の聖句を実際に体験したときでした
真理を知るには自分の力では無理です。聖霊が悟らせてくれるのです。聖霊がわたしたちを導いて真理を悟らせてくれます。そして真理が示されたときそれを信じるか否定するかはわたしたちの選択です。真理を知ることはかならずしも自分に都合がいいもの、いい気持ちがするものばかりではないかもしれません。だいたい間違いを指摘されていい気分がする人がいるでしょうか? とくに自分自身の存在に関わるようなものなどには敏感になってしまうでしょう。しかし自分自身に期待する必要は全くないのです。自分でなんとかする力があると思えば思うほど高慢になるし、『失敗したらどうしよう、上手くいかなかったらどうしよう』というプレッシャーも増します。

でも「自分は罪人です。」と受け入れてしまえば、そして「罪から解放できるのは自分じゃなくて、イエス様なんです。」って受け入れてしまえばまったく違う人生になるのではないでしょうか?

では、わたしたちがすべきことはなんですか?それはイエス様が与えると約束してくださった聖霊によって示された真実を日々受け止めること。日々の生活のなかで様々な出来事を通して神様は「これがあなたが罪にしがみついている問題だけど、その部分を創りかえてもいいかな?」と心に語りかけられたときに、「はい。創りかえてください」ということです。その声に聞き従うことです。自分がやりたいように行動してその声を遠ざけることだってできます。『自分は罪に浸ったままでいいんだ!』と。でもそうしているうちはわたしたちの心を創りかえてもらうことはできないのです。

どうぞ聖霊を求めて、聖霊の導きにより、イエス様を知って真実を悟ってください。そして罪人である自分のなかにある罪が示されたのなら、そこでその部分を創りかえてくださいと神様があなたの心に働きかけることをゆるし、招き入れてください。



森春香


*これは6月8日安息日にローマリンダ日本人教会で証した原稿です。西野貴基、森春香、品末拓真の3人でヨハネによる福音書14:6の道、真理、命についてそれぞれ話しました。
人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。

エゼキエル書33:12


2013年6月22日土曜日

わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

エゼキエル書33:11


2013年6月17日月曜日

信仰とは?


よく教会で聞く「信仰」という言葉があります。みなさんはどういう意味だと思いますか?確かではないけれどなんとなく心地が良いから、もしくは気分が良いから信じることでしょうか?意味が分からないけどとりあえず鵜呑みし、それが「偶然正しいことでありますように」と願うことでしょうか?それとも信仰は「わたしは信じている!」とただ毎日言うことでしょうか?

聖書を開いてみましょう。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ヘブライ人への手紙11:1

わたしはこの聖句を何度もさらっと読んできました。しかし注意深く勉強しなかったために多くの勘違いも生まれました。セブンスデーアドベンチスト教会の信じているこの聖句、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」エフェソの信徒への手紙2:8,9。イエス様がわたしの個人的な救い主であると受け入れてバプテスマを受けたあとにはどうやってクリスチャンとして生きていけばいいのか、イエス様を信じていると言い続けてきたけれど果たしてそれだけでいいのか、そういう疑問にぶつかりました。私自身、信仰とはすべてのことはよく分からないけど分からなくても信じることだとしばらく理解してきました。信仰とはどういう意味かはっきりと分からずに信仰を持とうとしていました。

今回は日本語の聖書は他の言語から翻訳されたということをふまえて「信仰」と言う言葉の由来を調べてみました。

私が使っている聖書は新共同訳という聖書です。その序文の冒頭には「聖書の原文は、旧約のほとんどがヘブライ語で、新約がギリシア語で書かれました。」とあります。

それでは今回はヘブライ語を見てみましょう。「信仰」、または「信じる」と翻訳された語源はヘブライ語のエムーナという言葉です。エムーナという言葉は創世記15:6の「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」という聖句の「信じた」に使われています。さらにエムーナの語源となったヘブライ語はアマンです。アマンはアーメンの語源でもあります。ヘブライ語であるアマンという言葉の意味は「断固とした、堅固さ、真実、確か」です。

それではアマンという言葉から成り立ったエムーナ、「信仰」と日本語には訳されるこの言葉はどういう意味でしょうか?エムーナと言う言葉の意味はアマンと同じような「確かに、明確に真実であり、また確立されていること」と訳されます。信仰は希望と関係があります。聖書でいう希望というのは「こうなればいいな」という理想ではなく、神様がわたしたちに約束されたことが果たされることを待ち望むということです。

ここで始めの聖句をもう一度読んでみましょう。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ヘブライ人への手紙11:1

望んでいる事柄というのは神様が過去にわたしたちに約束されたことです。それを確信するということはその神様がわたしたちに約束されたことは信頼できるものである、そしてそれは事実であるということを確信すること。見えない事実は目には見えないけれども本当であるということを確認する。

つまり信仰とはよく説明しきれないことがあるけどなんとなくそれが本当であるかのように信じることではなく、神様は御自分のされた約束を果たす方、そして神様はわたしたちに約束されたことは必ず果たされるということを確認することです。

見えない事実とはどういうことでしょうか?目に見えないけれども存在するものです。例にあげれば風や磁力、引力などです。わたしたちはこれが「風の形」だとそのものを見ることはできませんが風が花びらを散らしたり木を揺らしたりといった証拠を見て風が吹いているという事実を確認できます。磁力そのものをみることはできませんが磁石が鉄にくっつくのを見て磁力が働いていると分かります。そのように、神様の約束も見えない事実の一つです。そしてそれが事実だということを知るための証拠はわたしたちに十分に与えられます。(ペトロの手紙二 1:3)

みなさんは神様が約束を必ず果たす方であると信じていますか?だれも赤の他人を信頼できないように、わたしたちは神様がどういう方であるかを知らずに神様の約束を信じることはできません。祈りを通して聖書を勉強して他人から聞いた話を丸のみに信じるのではなく、自分で聖書を調べて、祈って、神様を知ってください。自分の感情によってではなく、神様の御言葉によって確信してください。

神様はたくさんの約束をわたしたちにしておられます。また、過去にすでに果たされた約束もたくさん聖書に記されています。わたしたちは神様の約束がどんなものであるか知らなければなりません。約束が何かを知らずにそれを待ち望むことはできないからです。

そして「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちをご自分の栄光と力あるわざとで召し出してくださった方を認識させることによるのです。」ペトロの手紙二 1:3
と書かれています。神様はわたしたちが求めれば、神様を知るために必要なものをすべて与えてくださいます。

最後に、わたしたちは神様、聖書を理解するには聖霊の導きが必要です。そして信仰を持つためにも聖霊が必要です。じっくりとお祈りして聖霊を求めて、聖霊が真実を示してくださることを求めてください。


著者:森春香

参考文献
e-Sword