2012年6月24日日曜日

紙とペンの実験


「紙とペンの実験」

「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそわたしの魂は沈み込んでいても再び心を励まし、なお待ち望む。」 哀歌3:19

ソーシャルワークのクラスをとっている友達が教えてくれた実験を紹介します。みなさんも一緒にやってみてください。

2枚の白い紙と2色の油性ペンを準備してください。

1.1枚の紙の表に、一色のペンで、自分の性格や特徴を表す言葉をできるだけ多く書いてください。(例:几帳面、せっかち、イライラしやすい、我慢強いなど)
2.その紙を裏返し、そこに自分が苦しい時や悲しい時に感じること、すること、自分に対して出てくる思いを表す言葉を、さっきとは違う色のペンで書いてください。(例:不安、さびしい、自分を責める、他人に怒りを感じる など)
3.その紙をくちゃくちゃに丸めてください。
4.その紙を広げてしわをのばして、元の白い紙のようにしてみてください。

さて、このくちゃくちゃになった1枚目の紙と、何もしていない2枚目の紙を見比べてみます。1枚目の紙を見てください。自分の性格や特徴を表す言葉が書かれた面を表に掲げてみます。何が見えますか?裏に書かれた自分が苦しいとき、悲しいときに感じることやすること、自分に対してでてくる思いを表す言葉がにじみ出ています。次にその紙を裏返してみます。何が見えますか?表に書かれた自分の性格や特徴を表す言葉がにじみでています。

この実験は、人が悲しみや困難を味わった時にどうなるかということを教えてくれます。1枚目の紙がもはや2枚目の真っ白の紙と同じではないように、悲しみや困難を体験した人は、その出来事の前と同じではありません。裏に書かれた文字が表ににじみでたように、自分の性格や特徴に悲しみや困難の経験が何らかの形で影響します。

2枚の紙を机の上に置いてみると、1枚目の紙は2枚目の平らな紙に比べて深みがあります。悲しみを味わった人の心には深みがあります。2枚の紙の端を持って揺らしてみてください。1枚目のくちゃくちゃになった紙にはしなやかさがありますが、2枚目の紙はピラピラと音をたてるほどの固さがあります。これは苦難を経験した人には柔軟性があることを示しています。

この紙とペンの実験から学べることはたくさんあります。しかし、その中で今もっとも注目したいのは、わたしたちが苦難の中にある時にわたしたちはどう変えられるか、そしてどうやって苦難の中にあっても希望を見つけられるかということです。わたしたちには生きている中で必ず苦難がやって来ます。心は傷つき、深い穴のどん底にいるような、辛くて悲しい思いをすることも多々あるはずです。ヘブライ人への手紙12章5節には「わが子よ、主の鍛錬をかろんじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」とあります。

       わたしたちが悲しみ苦しむことを神様は望んでおられません。悪いことをしたから神様から天罰が下ったと考える人がいますが、テサロニケの信徒への手紙一5章9節には「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いをあずからせるように定められたのです。」と書いてあります。

神様は苦難を使ってわたしたちを鍛えようとしておられます。苦難を味わう時にわたしたちは鍛えられ、以前よりも柔軟で深い心の持ち主になります。そして、イエス様が再びこの地球に私たちを迎えに来てくださる時まで起こり続ける困難の中にあっても、哀歌3章5節がいうように、私たちは「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそわたしの魂は沈み込んでいても再び心を励まし、なお待ち望む」ことができるのです。

イエス様の再臨を待ち望みつつも苦難に打ち負かされそうになる時、わたしたちはひとつ覚えておくべきことがあると思います。1枚目の紙を裏から見たとき、自分が苦しい時に感じることやすること、自分に対する感情が見えました。しかし、表に書かれた自分の性格や特徴もにじみ出ており、見えました。つまり、苦難が私たちの性格や特徴に影響するように、私たちの性格や特徴も苦難に影響するということです。もしそうだとすれば、みなさんはどんな性格や特徴を日々築きあげ、磨いておきたいでしょうか?もしわたしたちが日々イエス様を見上げて、イエス様の性質に似せられていくのなら、わたしたちは例え苦難の中にあっても再び心を励まし、イエス様を待ち望み続けることができると思います。イエス様がどのようにこの地球で人を愛し、そして愛され、誘惑に負けずに過ごし、わたしたちの罪のために十字架にかかって死なれたことを、毎日考えてみてください。わたしたちと同じように苦しまれたイエス様は、わたしたちがいま感じている悲しみや辛さをよく分かっておられます。そして、イエス様はわたしたちを助けたいと願っておられます。イエス様に助けを求め、完ぺきな模範として見つめつつ、毎日を歩んでいきたいです。

著者:森春香
編集者:品末拓真


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2012年6月22日金曜日

なぜ苦しむ

「なぜ苦しむ」

この世の中には楽しいことや嬉しいこともあれば、つらくて悲しいこともあります。自分の人生と他人の人生を比べて不公平に感じることがあるかもしれません。なぜ私たちは苦しむのでしょうか?なぜ涙を流さなくてはいけないのでしょうか?

聖書のなかにある答えを探してみましょう。

創世記の1章31節をみると、神様がこの地球を創造されたときの記録があります。

「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。」創世記1:31

神様が言った「はなはだ良かった」というのは苦しみ、痛みも含めて「良かった」のでしょうか。もしそうだとすれば、神様は私たちの苦しみ、悲しみを見て喜んでいるということですよね。でも、幸いにも聖書はそう書いていません。なぜかというと、創世記の3章に悲劇の話があるからです。

地球のはじめ、エデンの園には一番はじめに神様によって創造された人間、アダムとエバが住んでいました。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、

ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」 創世記3:1-3

女とはエバのことです。

では蛇とは誰のことでしょうか?どこにでもいる普通の蛇がエバに近づいてきて話しはじめたのでしょうか?

聖書の終わりの書物、ヨハネの黙示録を見てみると、蛇はサタン、悪魔にたとえられています。

「彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへび、、、」ヨハネの黙示録12:9

悪魔の起源についてはまた今度お話しますが、今は創世記の話に戻りましょう。

「へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。」

神様は「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」創世記2:17と言いました。サタンは神様と正反対のことを女に言いました。

なぜ神様は善悪の知識の木の実を食べてはいけないといったのでしょうか?ただの木の実なのに、なにか特別な理由があったのでしょうか?

神様は良いものをすべてアダムとエバに与えました。でも善悪の知識の木の実は食べてはいけないとおっしゃいました。なぜかというと、神様はアダムとエバに自分自身で選択する自由を与えたかったからです。神様はアダムとエバに幸せになってほしいと願っておられました。そして神様はアダムとエバを創造したので、何が彼らに、そして人間に一番良いかを知っておられます。そして神様の法則に従ってほしいと願っています。しかし、神様は彼らを愛しているので強制はなさいません。なので神様は、神様以外の道も選択肢として与えられたのです。それがエデンの園の中にある「善悪を知る木」だったのです。

へびであるサタンは善悪の知識の木の前に立っているエバに、また嘘をつきました。

「『それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 」創世記3:4-6

アダムとエバは神様が食べてはいけないといった実を食べました。それは罪でした。この罪を犯したゆえにすばらしいエデンの園を離れなければなりませんでした。そして、「罪の支払う報酬は死である。」とローマ人への手紙6:23に書いてあるように、アダムとエバは罪の報酬を受け、死ぬべき身となりました。そしてこの世界にも罪の結果として、苦しみ、悲しみ、そして死が入ってきました。今、この世のすべての苦しみ、犯罪、そして悪はこの罪のためです。アダムとエバが罪を犯した結果、人類はその報酬を受ける身となってしまったのです。

ここで神様はアダムとエバを簡単に消すこともできました。しかし、もしそうしたら人間は神様を愛するから従うのではなく、恐れて従うようになってしまいます。そこで、愛の神様は、ある希望をアダムとエバに与えました。そしてその同じ希望を神様は今日わたしたちにも与えておられます。

「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」ローマ6:23

イエス・キリストを信じることによって罪からの救いを約束されたのです。そして御子イエスを受け入れる人を神様は天国に連れて行ってくださるのです。

次回は「救いとは」と題してお話させていただきます。

ミラージョエル

編集者:森 春香

2012年6月22日


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2012年6月20日水曜日

「テクノロジー以外なら…-コロンビアでの経験」

「テクノロジー以外なら-コロンビアでの経験」

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」
フィリピの信徒への手紙4:13

              コロンビアへの伝道旅行はShareHimという団体を通して行われました。ShareHimは説教者にプロジェクターと、既に完成されたお説教のスライドショーが入っているパソコンを貸してくれます。説教者はそのスライドを勉強し、自分の経験をお話の中に入れたり写真を追加したりして編集して、それを練習することが求められています。私たちも毎日、それぞれの教会の集会に行く前にお説教の編集、練習、最終確認をしていました。そんなある日経験したことをお話します。
ShareHimによってつくられたスライドショーは、シンクロナイザーというプログラムによって聴衆用スライドと説教者用スライドを同時進行できるようになっていました。つまり、教会で実際にお説教している時は会堂前方のスクリーンには聴衆用のスライドが映し出され、私を向いているパソコンには説教者用のノートが出るようになっていました。私がリモコンのボタンを押すと、聴衆用スライドと説教者用スライドが一緒に次に進んだり前に戻ったりする、という優れたプログラムでした。 
              ところが、このプログラムでスライドを編集するのは中々ややこしくて、特にパソコンがあまり得意ではない私にとってはどうしたものかと思うことがたびたびありました。しかし有難いことにあまり大きなトラブルもなく、16日間続くこのキャンペーンもあと3日で終わり、残されたお説教もあと4つという日まで来ました。わたしはその水曜日の集会のあと、ホテルに帰ってきて残りすべてのお説教を復習していました。そこで気付いたのは、最初の数枚のスライドの順番がバラバラになっているということでした。私はそれを編集するためにスライドを追加したり削除したりしていました。しかしその内わたしはよく分からなくなってしまってやり直そうと思い「リセットする」という項目をクリックしました。そうすることで自分が編集したものがすべて元通りになるはずでした。ところが、わたしが「リセットする」という項目を押した後そのスライドを見てみると、聴衆用と説教者用のスライドが15枚程ずつずれていて、全体にかなりのずれが生じていました。「これは大変なことをしてしまった!」と私は焦りました。ずれてしまった聴衆用と説教者用のスライドを再び一致させるためには相当な時間が必要でした。私は何時間も掛けてそれを編集し、ついには聴衆用と説教者用のスライドショーを一致させることができました。また、それを声に出して練習する時間も残されていました。「神様、ちゃんと編集してさらに練習するための十分な時間を与えてくださって感謝です。」と私は祈り、木曜日の集会へ向かいました。
お説教の練習をしている仲間たちです。
              無事教会に着き、ソングサービスの後に通訳者のホスィアスと一緒に登壇しました。まずは次の集会のトピックを紹介し、はじめのお祈りをしました。そして説教を始めようとしてふと気づいたことは、確かに直したはずのスライドが、説教者用のスライドが聴衆用のスライドより一つずつ前にずれているということでした。わたしは心の中で「なんでずれてるんだー?どうしよう!」と思いましたが、そのまま進む以外どうしようもなかったので、一つずつずれたスライドを見ながらお話をすることにしました。パソコンの説教者用スライドをパッと見て覚え、急いでスライドを進めて聴衆用スライドと合わせてさっき覚えたことを言う、それを15回ほど繰り返しました。その日のスライドショーは全部で95枚ありました。「神様、果たしてわたしはこの方法であと80スライドも進むことができるのでしょうか?」と心の中でお祈りしていました。そうしたら、一つずつずれたスライドにも徐々に慣れてきて、このほうがパソコンにあまりとらわれずに自然にお説教ができるような気がする、とさえ思いはじめてきました。ところが、20スライドあたりでリモコンが突然動かなくなったかと思うと、私のパソコンと聴衆用のスクリーンが真っ黒になりました。私は「ついに一番恐れていたことが自分にも起きてしまった」と思いました。サザンアドベンチスト大学から一緒に来ていた何人かの仲間たちから、お説教中にプロジェクターが動かなくなったとか、コンピューターが動かなくなったという話を聞いていました。自分にはそういう問題は起こらないでほしいなと思っていました。しかしいま自分の目の前にあるのは、なぜか真っ黒のパソコンの画面と聴衆用スクリーンでした。
              わたしは、フィリピへの信徒への手紙4章13節の「わたしを強めてくださる方(神様)のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」という聖句を知っていて信じているつもりでした。ところが前から私の頭の中では、テクノロジーに関しては例外だと考えていました。神様と科学技術の関わりについて深く考えたことはあまり無かったのですが、頭のどこかで「パソコンや電子機器がうまく動かなくなってしまったらそれで終わり、神様がパソコンや電子機器に働くことはできない。」という神様の力を限定するイメージがありました。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしには“テクノロジー以外のことなら”すべて可能です。」と思っていました。
             真っ黒になってしまった画面をみて混乱している中、この聖句がふと私の頭に浮かびました。そこで「すべてが可能です。」って本当に「すべて」なのかな?と思いました。しかし今わたしにできることはお祈りしかないと思い「神様、あなたにはすべてのことが、テクノロジーも含めて可能だと信じます。助けてください」と心の中でお祈りしました。そして、リモコンの前へ進むボタンを2回押しました。何も起こりません。そこで前へ戻るボタンを押してみました。するといきなりパソコンとプロジェクターが復活して、パソコンには説教者用スライドが、スクリーンには聴衆用スライドが映し出されました!そして更に驚いたのは、今まで確かに一つずつずれていたスライドが、その時には完全に一致した状態になっていたということです!そこで私は、神様はテクノロジーも含めた本当にすべてのことが可能なのだなということを実感しました。そのとき神様の凄さを知ると同時に、自分の信仰の弱さを知りました。
              私たちは神様の莫大な力のほんの一部しか理解していないのだと思います。私たちは自分たちの知っている神様のイメージで神様の力の大きさを推定してしまいがちです。しかし本当は計り知れない力を持っておられる神様を信じ、助けを求めることがわたしたちには必要なのです。そして神様と日々交わることで、神様の力の大きさをもっと感じることができるのだと思います。



熱くなってしまったプロジェクターを扇風機の前で冷ましています。
著者:森春香
編集者:品末拓真
06/20/2012



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2012年6月11日月曜日

「巨人に独りで立ち向かうな―コロンビアでの経験」

「巨人に独りで立ち向かうな―コロンビアでの経験」


「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。」サムエル記上14:45,47


 コロンビアへの伝道旅行では、説教者ひとりひとりがそれぞれの教会で合計19回お話することが予定されていました。わたしは、広島三育学院中学校の卒業祈祷週で1度お話した以外には、お説教をしたことがありませんでした。まったくの初心者であるわたしが、一体どうやったら19回も連続でお説教できるのだろうか、と思っていました。

コロンビアに到着した次の日、金曜日の夜からお説教がはじまりました。金曜日の朝にパワーポイントの編集、声に出しての練習を繰り返し、夜にはわたしの担当するベテル教会へ向かいました。通訳者のホスィアスと打ち合わせをし、神様が導いてくださるように一緒にお祈りをしました。ソングサービスがはじまったときには6人ほどしか教会に来ていなくて、大勢の人の前でお話をしなくてもいいのだ、とほっとしていました。しかし、ソングサービスの間に次々と人が集まってきて、ソングサービスが終わる頃には大勢の人が教会に集まっていました。長老のアントニオさんがわたしの紹介をしてくださり、わたしは登壇しました。

その日のテーマはダニエル書2章のネブカドネザル王が見た巨大な像の夢の預言についてでした。バビロンのネブカドネザル王が夢に悩まされており、ダニエルが神様に祈りその夢の意味を解説するというお話です。その像の金の頭はバビロン、銀の胸と腕はメディアとペルシア、青銅の腹と腿はギリシャ、鉄のすねはローマ、鉄と陶土の混じった足はローマ帝国から分裂したヨーロッパ、そして、一つの人手によらずに切り出された像を打った石はイエス様の再臨を表しています。この像の頭から足への順番の通りに、それらの王国がこの世界を治めていたことが歴史でも証明されていて、今わたしたちはこの石がもうすぐくるという時に生きていて、もうすぐイエス様の永遠の王国が築かれる、というメッセージでした。

ところが、素晴らしいメッセージだということは間違いないのですが、わたしが話しながらみんなの顔を見てみると、みんなとても退屈そうでした。子供たちはぼーっとしており、おばあちゃんは気持ちよさそうに居眠りをしていました。そこでわたしは「あぁ、自分はなんてつまらない説教者なんだ」と思いました。ホテルに帰ってサザンアドベンチスト大学から来ていた仲間たち15人と「第1夜はどうだった?」と話し合いました。15人のうち13人は初めてお説教をしたと言っていました。「説教は自分の心地よいと思える領域を遙かに超えていてすごく緊張した」、「みんな退屈そうだった」、「パワーポイントがうまく動かなかった」など、みんなわたしと同じように気を落とした様子でした。わたしの友達、そして同じ部屋に泊まっていたジーンは「春香、あと18回もお説教あるって知ってた?あと18回もどうやってお説教すればいいの!!」と言っていました。わたしもまったく同じ気持ちでした。人前で話すことは得意ではないし、自分のような人間が他人に神様のことを伝える権利など無いのではないか、と疑問に思いました。

次の日の朝の礼拝で、サザンの教授であるフレディー先生がこんなお話をしてくれました。サムエル記上17章で、少年ダビデが巨人ゴリアテに立ち向かい見事にやっつけるという場面でした。ダビデはゴリアテに向かう前に、防御のために重たい鎧や兜をつけさせられました。しかしダビデは、「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから(サムエル記上17:39)。」とそれらを脱ぎました。彼は代わりに石を5つと石投げ紐を手にし、巨人ゴリアテの前に出てこう言いました。

「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。…主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。」サムエル記上14:45,47

ダビデは独りで巨人に立ち向かったのではなく、神様と一緒に立ち向かったのです。鎧や兜で自分を守ろうとはせず、神様にのみ助けを求めました。わたしたちは巨人、つまり試練やサタンの誘惑に独りで立ち向かえば、こてんぱんにやっつけられてしまいます。なぜなら、それらはわたしたちより強いからです。しかし、神様と一緒にそれらに立ち向かう時、わたしたちは必ず勝つことができるのです。私たちの感情はついてこないかもしれないけど、どんな気持ちであっても神様を信じること、神様には巨人に打ち勝つ力があると信じることが私たちには求められています。

このお話を聞いた後、たとえ「自分は説教をするのに十分ではない」という気持ちが私の中に起こっても、神様が自分を使ってくださることを信じてお説教することを決めました。そしてその後わたしは18回ともすべて無事に、神様のさまざまな助けによってお話することができました。初めは「お説教なんてできない」と思っていたのに、振り返ってみればあっという間に終わっていました。私たちが神様の力を信じるとき、神様はどんな状況でも私たちを使って神様の働きをしてくださるのだなと実感しました。

著者:森春香
編集者:品末拓真
2012年6月11日



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2012年6月6日水曜日

No Problem!―コロンビアでの経験


「No Problem!―コロンビアでの経験」


「施すべき相手に善行を拒むな あなたの手にその力があるなら。
出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな あなたが今持っているなら。」
箴言3:27


バランキージャの町の道路は車とバイクと歩行者でにぎわっています。

夜ご飯を作ってくださった家族(左)と通訳者のホスィアス(右)

ブーゲンビレアがたくさん咲いている美しい町でした




私は5月18日から6月2日まで16日間毎晩、安息日は朝も含めて、全部で19回、神様、聖書、再臨、聖霊、終末の徴、預言、天国などについてお話する機会が与えられました。サザンドベンチスト大学から15人、南米にあるコロンビアという国のバランキージャという町に送られ、一人ひとりがそれぞれの教会で集会をもつという企画でした。コロンビアはスペイン語を主に話す国なので、英語からスペイン語に通訳してくれるコロンビアの人たちが説教者一人ひとりにつけられました。今日はそこで学んだことのなかから一つお話します。 コロンビアに到着した次の日の朝、それぞれの教会の牧師さんと通訳の人に会うミーティングが開かれました。そこですぐに気付いたことは、牧師さんたちが自分たちのために最善を尽くそうとしてくれているのだな、ということでした。わたしと友達のエイミー・ロレドはヨエル先生という牧師先生が担当する教会で話すことになっていました。ヨエル先生は英語を少ししかしゃべれず、またエイミーとわたしもスペイン語がほとんどしゃべれなかったので、エイミーの通訳者のエベルさんに手伝ってもらいながら会話をつなげていました。その日、それぞれの教会でコンピューターやパワーポイントがうまく配線できるかを確認することになっていました。そこでまず、エイミーのエルサレム教会に行き音声やパワーポイントがつなげられるかどうかを試していました。ヨエル先生はその日6時から牧師会のミーティングがあるといっていたのですが、エイミーのエルサレム教会で時計をみるとすでに5時50分でした。「ヨエル先生、6時からミーティングがあるっておっしゃっていましたけど、どうしましょう?」と聞くと、ヨエル先生は自身の知っている数少ない英単語を使って気さくに “No problem! Let’s go” (大丈夫、問題ないよ!さあ行こう) と言い、わたしが受け持つベテル教会まで連れて行ってくれました。すべてが終わった頃には6時半を過ぎていて、「こんなに時間がかかってしまってすみません」とエイミーと二人でお詫びすると、また “No problem!” と笑顔で言ってくれました。コロンビアはガソリンがものすごく高くて、車を運転するのはすごくお金がかかると聞いていました。それにも関わらず15日間、毎日ホテルと教会の間を送り迎えしてくれました。教会では、わたしと通訳者ホスィアスのために毎晩交代で教会員の方がご飯を食べさせてくれました。そして「いつでも何か必要なものがあれば言ってね。」と言ってくださいました。わたしたちが行ったバランキージャという町は、沖縄を思い出させるような気候の熱帯地域でした。しかしクーラーのある家はほとんどなく、教会も扇風機を使って暑さをまぎらわしていました。夜ご飯を食べさせてくれた家族は、家に1台しかない扇風機を持ってきてくれて「暑いでしょう」と気遣ってくれました。


わたしは彼らにとって、2週間だけコロンビアにやってきたスペイン語もしゃべれない見知らぬ人だったにも関わらず、彼らは彼らの持っているもの、時間、お金を費やして一生懸命にお世話してくれました。任されていること以上のことをして、この聖句「施すべき相手に善行を拒むな あなたの手にその力があるなら。 出直してくれ、明日あげよう、と友にいうな あなたが今持っているなら。」を忠実に実行しているのだなと思いました。そしてわたしは施すべき相手でもなんでもなかったのにも関わらず、心から親切にお世話をしてくださり、この人たちはなんて献身的なのだろうと思いました。持っているものを惜しまずに与えられ、愛情を感じました。


森 春香
編集者:品末拓真
6月5日 2012年


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