2012年2月23日木曜日

お伝聖トライアングル

(お)はお祈りの(お)です。(伝)は伝道の(伝)です。(聖)は聖書の(聖)です。
幸せで楽しい人生を生きたいのなら、お祈り、伝道、聖書研究をお勧めします。三角形と同じように一角でもかけたら、ほかの二つもいずれは形を崩し、バランス無くして三角形ではなくなります。
この三つを食事にたとえれば、聖書が食べ物です。そしてお祈りが料理のしたくです。料理は心をこめて、じっくり考えて作ったほうがたいていおいしいものです。同じように、聖書を読む前にはじっくり、心をこめてお祈りしましょう。お祈りなしでは、たいてい聖書研究してもおいしくないし、元気も出ないし、効果的ではありません。ですから聖書を食べる前に、神様が聖書を理解するために知識を与えてくださるように心をこめてお祈をすることが大切です。
さて、食べたすぐ後は、どうしますか?すぐに寝たら牛になる、とよく言いますよね。食べた後、一番いいのは、軽い散歩です。30分ぐらいの散歩すれば、体全体の健康と消化にとてもいいらしいです。同じように、聖書研究をした後は、軽い散歩をお勧めします。どういうことかと言いますと、聖書で学んだ事について考え、学んだ事がどう自分の人生に影響するか、どうやって日々の活動のなかで実行するか、そしてどうやったら学んだ事を周りの人たちのために使えるか考えてみてください。

健康的な人生を生きるには、毎日運動をしなければいけません。食べて寝てばっかりでは太ってしまいます。人間は散歩だけではなくて、汗を流すような運動が毎日必要なのです。ですから聖書研究をした後は汗水たらして伝道をしましょう。聖書で覚えた事を友達、家族、仕事場の人たち、近所の人たちに伝えてみてください。正式な聖書研究やお説教でなくても大丈夫です。友達として簡単に聖書や、イエス様、天国、また救いについて語るのも伝道です。伝道することで、自分が学んだ聖書の知識が体の中で消化され体の一部となるでしょう。
お祈り、伝道、聖書研究。これからおでんや三角形のものを見るたびにこの話を思いだしてください。
もっと深く。。。
A. お祈り
伝道なしでは、お祈りの本当の力と必要さを理解する事は出来ません。聖書研究なしでは、神様の声を聞くのが難しくなります。お祈りだけでは、同じお祈りの繰り返しになって、自分のことばっかり祈ってしまいます。お祈りは、具体的、個人的にほかの人の事を考えながらお祈りすれば、やりがいが出ます。

B. 伝道
お祈りなしで伝道するのは、準備体操なしでマラソンを走るようなものです。体中筋肉痛になります。また体を壊してしまうかもしれません。伝道ばかりやりますとおなかがすきすぎて体力なくし、倒れてしまいます。ですから、ちゃんとしっかり聖書を食べて、お祈りを通して霊的な休みを神様からもらうように毎日時間を作ってください。

C. 聖書研究
あわてて食事をすると消化に良くありません。食べるときはちゃんとゆっくりかんで、味わって食べた方がおいしいですよね。一口一口味わうように、一つ一つの言葉を考えながら聖句を読むと聖書も味わい深くなります。いくらにんじんやブロッコリーが体によくても、それだけ一日中休みなく食べたら消化に良くありません。食べるだけではなく、体を動かす必要があります。同じように、聖書研究をしたら、学んだことを周りの人に伝え、そして周りの人たちがちゃんと聖書を理解し、キリストを受け入れる決心をするようにお祈りしてみてください。

お祈り、伝道、聖書のバランスをとって生きてください。お祈り、伝道、聖書研究。これから三角形のものを見るたびにこの話を思いだしてください。
今日、神様からお祈りする心、伝道する勇気、また聖書を学ぶ知識を求めましょう。イエス様はもうすぐ帰ってこられます。共にがんばりましょう。

02-23-2012
福田ダニエル


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2012年2月21日火曜日

2012年2月18日土曜日

「3種類のお祈り」


聖句:「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
第一テサロニケの信徒への手紙5:17、18
「「声をあげ、主に向かって叫び 声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。御前にわたしの悩みを注ぎ出し 御前に苦しみを訴えよう。」
            詩編142:2、3

            お祈りには3種類あると思います。 それらは感謝、お願い、そしてだれかほかの人のためにお祈りする執り成しというお祈り、この3つです。
            まず今日おこった出来事でうまくいったこと、助けられたこと、嬉しかったことなどを考えてみてください。たとえば、朝寝坊してしまったけど出勤の電車に間に合った、たまたま行ったスーパーが安売りしていた、などどんなささいなことでも神様にそのことを感謝してみてください。神様に感謝できることなんて何もないよ!と思うかたはこんな風に考えてみてはどうでしょうか 今何も考えずにも心臓が動いていて、呼吸をしていられること、今日目覚めたこと、食べるものがあること、家族がいること、どれも本当はあたりまえではないのです。聖書の第一テサロニケの信徒への手紙5章の17~18節に「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と書いてあります。神様はわたしたちが感謝の祈りをささげることを望んでおられるのです。
 
            次に、最近困ったこと、どうしてもうまくいかないことを考えてみてください。期末試験が近づいている、職場の人間関係で困っている、経済困難、など色々とおありだと思います。 また、具体的な原因はわからないけれども憂鬱だという日もあるのではないでしょうか? 聖書の詩編142編2~3節にはこう書いてあります「声をあげ、主に向かって叫び 声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。御前にわたしの悩みを注ぎ出し 御前に苦しみを訴えよう。」 これはダビデという詩人、有能な戦士、そして後にイスラエルの王となった人が書いた詩です。ダビデはこの詩を書いたとき、敵から逃れるために洞窟に身を隠していました。そのときに捧げられた祈りが詩編142編2節~3節です。ここにある「主」や「御前」というのは神様のことです。ダビデはたくさんの詩を書きましたが、神様へ自分の正直な気持ちを打ち明けている詩が多くあります。このダビデが書いているように、そのどうすればいいのかわからない気持ち、悩みをそのまま神様にお祈りしてみてください。

            最後に、みなさんの周りにいる人を思い浮かべてください。その人はもしかしてお祈りすることを知らないかもしれません。だれかのお祈りを必要としているかもしれません。そんな人たちのためにわたしたちはかわりにお祈りすることができます。これを執り成しのお祈りといいます。たとえば、今日は家族のだれかが出張の日だから安全な旅ができるようにお祈りしよう、友達が病気になってしまったからその子のためにお祈りしよう、など、またあの人はいつも怒りっぽいけど今日はなんだか嬉しそうだからその人が嬉しいと思えていることを感謝しようなどです。 
            こうして考えてみると神様にお祈りすることってたくさんあると思いませんか?次回はわたしたちがお祈りしたときの神様の答えについてお話したいと思います。

02-18-2012
森春香

お祈りとは?

「絶えず祈りなさい」テサロニケの信徒への手紙一 5:17

皆さんは「お祈り」という言葉を聞くとどんなイメージが浮かぶでしょうか?  合格祈願、安全祈願などと書かれたお守りがよくありますが、なにか願い事をしたり、特別な出来事の前に良い運がついてくるようにとお願いする、というイメージがありますか?  そしてお祈りするとしたら誰に向けてお祈りしますか?キリスト教のセブンスデーアドベンチストというグループはお祈りをこういうふうにとらえています。わたしたちは天の神様にイエス・キリストという神様をとおしてお祈りします。わたしたちにとってお祈りとは神様とコミュニケーションをとる手段です。年中24時間営業の電話サービスのようにわたしたちは皆、いつでも、どこにいても、神様にお話しすることができます。心の中で「神様!」と言えば、神様は聞いてくださいます。そして親しい友達と話すようにどんな小さなことでも飽きずに聞いてくださいます。今日起きた出来事で感謝したいこと、困ったことで助けが必要なこと、テスト前の勉強で集中したいとき、また周りの人で大変な状況にある人のため、など毎日起こるちょっとした一時、お祈りする習慣をつけてみてはどうでしょうか?

聖書のテサロニケ信徒への手紙一  5章17節では「絶えず祈りなさい」という伝道師であったパウロからの勧めが書かれています。めまぐるしい生活のなかですべてのことを一度とめて立ち返り、お祈りのひとときを持つと心の整理にもなりますし、なによりも神様が平和な気持ちをあたえてくれますよ。次回はお祈りの種類についてお話します。

02-18-2012

森春香

心のお手入れ


聖句:「水が顔を映すように、心は人を映す」

雨上がりの朝、朝日に照らされた水たまりに移った景色をみたことがあるでしょうか?周りの地面にはない水たまりの中だけに存在する鮮やかな色たちはなにか幻想的な美しさを秘めています。しかしその幻想的な空間は実際にあるものを水が映し出していて、元の景色が美しいからこそ映った像も美しいのです。聖書の箴言27章19節にこう書いています。「水が顔を映すように、心は人を映す。」というものは正直にその人が本当はどういう人なのか映し出すということです。
わたしたちは毎朝、鏡を見て寝ぐせを直したり、お化粧をして外へ出かけますが、自分という人間を最もあらわすもの、つまり「心」のチェックはしているでしょうか?外見では笑っていても心の中で誰かを憎んだりしていないでしょうか?心の中にあるものは他人には見えないようで、ふとした機会にポロリと出てきてしまいます。そんなときのために日頃から心のお手入れをしておきたいものです。それではどうやって心のお手入れをすればいいのでしょうか?

わたしたちの心のなかにはさまざまな考え、気持ちがありますが、悲しみ、憎しみ、寂しさ、不安などを心のなかに閉じ込めほうっておくとますますマイナス思考になってしまいます。心のお手入れをするのにおすすめなのは自分がどういう気持ちなのかノートに書きだしてみたり、親しい友達に話してみたりして気持ちの整理をすることです。もしも心の中にだれにも打ち明けられない悩みがあるのなら天の神様にお祈りして打ち明けてみてはどうでしょうか?たとえ人に面と向かって話せなかったり、上手く言葉で書き表せないようなことでも神様は喜んで聞いてくださいます。
次回はお祈りとはどういうものかについてお話します。

02-18-2012
森春香

サタンに勝つ


 サタンの誘惑に負けない方法。誰でも教会に通っている人なら、この事を考えたことがあると思います。そんな方法はあるのか、と疑問に思う人もいるでしょう。むしろ、罪を犯したくないのに、誘惑に惑わされて罪を犯してしまうので、その方法を知りたいという人もいるでしょう。

人類最初のアダムとエバはサタンの誘惑によって、神様が食べてはいけないと言われた果実を食べ、この地球に神様と私たちを引き離してしまう罪(イザヤ59:2)を地球に持ち込んでしまいました。アダムとエバが最初の罪を犯したように、私たちは今でもサタンの誘惑に負け、罪を犯してしまうことがあります。最初の人類に罪を犯させることが出来たサタンに勝つ方法はあるのでしょうか? ヤコブの手紙4:7にこのような聖句があります。「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げていきます。」私たちが神に従い、「隠れが」(詩編32:7)に守られながら、神様とともにサタンに反抗するとき、サタンは私たちから逃げていきます。神様の前でサタンは無力だからです。逆に言うと、自分だけの力ではサタンに勝つ事はできません。エレン・ホワイトは「各時代の希望」の中でこのように記していますわれわれは自分自身を誘惑者サタンの力から救うことはできない。サタンは人類を征服したのである。自分自身の力で立とうとするとき、われわれはサタンの策略に陥るであろう。だが『主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救いを得る』(箴言18:10)。どんなに弱い魂も、この大いなるみ名をかくれ家とするとき、サタンはふるえあがってその前から逃げ出す。」(希望上146、147)

神様に従い、神様と共にサタンに反抗すると、サタンは逃げていくという事は分かりました。ここで、もう一つ質問が浮かんでくるはずです。なぜ私達の力だけではサタンに勝つ事は出来ないのでしょうか?それは、私達人間は、もともと肉の人であり、罪に売り渡されているからです。(ローマ7:14)つまり神様なしでは私たちは、肉の欲を満たす為に、罪を犯すように出来ています。そこをサタンは上手く利用するのです。

ガラテヤの信徒への手紙5:20、21には肉の業が明らかにされています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」しかし神様に従い、聖霊が私達の心の中に入る時、肉の業とは全く違う事をするのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これを禁じる掟はありません。」ガラテヤの信徒への手紙5:22、23。サタンに勝つこと、それは自分の力だけでは出来ません。私たちは惨めな罪人だからです。逆に「神様、私はどんな事があってもあなたに従います。そしてサタンの誘惑からお守りください。また、聖霊を私の心に送り、罪を犯さないようにしてください。」と祈る時、私たち神様によって罪を克服し、神様と共にサタンに勝つ事が出来ます。次回は、もっと詳しく神様と共にサタンに打ち勝つ方法を話したいと思います。みなさんが神様と共に人生を歩んでいく事ができるようお祈りしていす。

2012年2月12日
西野貴基

人生って不平等?

この地上には空しいことが起こる。善人でありながら悪人業の報いを受けるものがあり悪人でありながら善人の報いを受けるものがある。これまた空しいと、わたしは言う。
コヘレトの言葉 8:14

みなさんはこの世の中は平等だと思いますか?むしろ「世の中、本当に不平等だ」と思う人が多いと思います。このコヘレトの言葉が言っているようにいつも周りの人にやさしく人のために尽くしているような素敵な人が重い病気にかかったり、思わぬ事故にあったり、かと思えば他人に当たり散らしやりたい放題生きている人が権力をにぎり経済的に理想的な生活を送っていたり。一生懸命頑張ってきた人が上司に嫌われ、本当は遊びほうけているのにうわべのつくろいが上手な人が好かれたり。などなどあげればきりがありません。

それでは、この不平等に見える人生、わたしたちはなにをするべきなのでしょうか?善い行いをしても報われないことが多いこの世の中で、それでも善いことをする必要があるのでしょうか?

わたしにとって、努力したことが報われなかったというのは一番の屈辱です。あれほどの時間と労力を使ったのにどうして、、、という気持ちでいっぱいになります。さらに明らかに自分より努力しなかった人が自分より良い結果を残したときなどは、「あの人は本当はそんな結果をもらうのに相応した努力をしていないんだ!」と世の中に大声で伝えてしまいたい気持ちです。そこで、わたしたちは同情を求めて友達にその出来事を話したりうっぷんを晴らそうとぐちをこぼすのではないでしょうか?その状況をよくわかっている人が同情してくれたとき、その状況は変わらなくても、なんとなく報われたような気分になることがあります。

実は、天の神様はわたしたちのすべての行いをみておられます。そして善い行いを必ず将来報いてくださると約束しています。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」とイエスキリストという人が言った言葉が聖書のマタイによる福音書という箇所の5章12節に記されています。わたしたちが報いを受けるのは近い将来じゃないこともありますが、その報いを受けられる日を楽しみに良いことを日々つづけていきたいですね。

02-18-2012
森春香

私の隣人とは誰ですか?


彼(律法学者)は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イェスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命(永遠の命)が与えられる。」しかし彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。ルカ10:27−29

もしあなたがクリスチャンだったら教会で「隣人を愛しなさい」というフレーズを何回も聞いた事があると思います。いつも聞き流していまそうですが実際あなたにとって隣人とはどのような人かと考えたことはありますか?友達が隣人でしょうか?それとも家族、もしくはクリスチャン?もしくはイェス様の事を知らない人も隣人なのでしょうか?イェス様はその質問に対して分かりやすく「善きサマリア人」というたとえ話を用いて答えています。

皆さんご存知のようにこれはある人がエルサレムからエリコへ向かう途中が強盗に遭遇し半殺しにされます。私たち(旅人)は人生(エルサレムからエリコへの道)を歩む中、強盗(サタン)に色んな方法によって傷つけられます。時にはその傷から立ち直れない事もあります。しばらく時間が経って旅人が道に横たわっていると、祭司とレビ人が通りかかります。当時、祭司は教会を上に立つリーダーであり、聖書の言葉を日頃から読み、人々に説いていました。同じように、レビ人は神殿で儀式に携わる神殿のアシスタントで毎日聖書の言葉を聞いていました。しかし神の御言葉を毎日読んで、神殿に貢献していたのにも関わらず彼らはユダヤ人かサマリア人かも確かめず道の反対側を通り過ごしてしまいます。彼らは聖書に書いてある隣人を愛しなさいという事を日々の生活の中で実行しなかったのです。

最後にサマリア人が旅人にもとにやってきました。サマリアはエルサレムの北に位置しイスラエルの一つの町でした。しかしアッシリアの王によってサマリアは占領され、王はそこにいたイスラエル人を連行し、イスラエル人の代わりに異邦人たちを連れて来てサマリアに住ませました。移された当時の異邦人は神様を信じるとともに、移される前に行っていた宗教の風習にしたがって彼らの神々をも信じていたそうです。(列王記下17章)このような歴史的背景もありサマリア人はユダヤ人に混血、信仰から外れたものとして軽蔑、差別され、お互いに挨拶を交わさないほど対立していました。そんな状況のなかで、たとえ話の中のサマリア人は倒れている旅人を見つけると憐れに思い、その人を助け介抱したのです。彼はユダヤ人かサマリア人かも気にせず愛をもってこの旅人を助け、宿に連れてその人のためにお金も払いました。

たとえ話をはなした後、イェス様は律法学者に「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったかと思うか。」と言うと、律法学者は「その人を助けた人です。」と答えました。彼もサマリア人を嫌っていたので「サマリア人」とは言いませんでしたが、彼は誰が彼にとって隣人かを理解しました。そしてイェスは彼に「行ってあなたも同じようにしなさい。」と言われたのです。私たちの隣人とは誰でしょう。それは 友達、家族、教会の人だけではありません。同じ人種、歴史的背景、環境を持っている人たちだけでもありません。このたとえ話が私達に教えているのは隣人とはサタンによって苦しめられ助けも求めている全ての人達の事なのです。これは人種、宗教、歴史、文化、クリスチャンかそうでないかなどに関係するものではありません。だから私たちは,この人が教会に来ていないから自分の隣人ではない、昔こんな悪い罪を犯したから自分の隣人ではないなどとは言えないのです。

この善きサマリア人はイェス様のことも象徴しています。彼はサタンによって傷付けられた私たちの心を癒し、永遠に死ぬはずだった私達の代わりに死んで、罪から救ってくれました。もし私達がクリスチャンなら、倒れている隣人の道の反対側を通るべきではありません。逆にこのサマリア人、イェス様のように立ち止まって私達の隣人を助けるべきです。第一ヨハネ4:20には「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」とあります。もし私達が祭司やレビ人のように勝手に隣人を、聖書の言葉を読んでもその通り実行せず、イェス様のようになろうとしないのなら私達はクリスチャンとは言えません。しかし「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちのうちにとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされるのです。」第一ヨハネ4:12。全ての人がお互いを隣人として互いに愛するという事、それは決して簡単に起こる事ではありません。でもそれが実現したとき神様は私たちの心の中にいます。日本にいるみなさんに神様の豊な祝福がありますように。

2012年2月4日 
西野貴基