2012年10月28日日曜日

ドウェイン・レモンの証 11


audioverse.orgのhttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

 数日後、友達が家にやってきて、「わたしが見つけたものを見て!道路に落ちていたわ。」と言いました。それは広告でした。皆さん、よく道ばたに広告が落ちていると思いますが、あなたはそれを拾いますか?それにどんな恐ろしい菌がくっついているか、知れたものではありません。ところがわたしの友達は、なぜかその広告を拾ってきたのです!
 ここでわたしは一つ、みなさんに打ち明けなければなりません。わたしはその頃、黒人である自分に対する見方に問題がありました。イスラム教の人たちとたくさんの質問を投げ合い、議論しているときに彼らはわたしにこう言いました。「じゃあ君に質問しよう。もし君がそんなにキリスト教を信じると言うなら答えてくれ。なぜ天使たちは白人で、イエスも白人で、モーセも白人なのだ?まるで聖書に出てくる人はみんな白人みたいだ。ただ唯一の黒人は、イエスの十字架を運んだキレネ人のシモンだけ。なぜだ?何かおかしいと思わないのか?」彼らはこういう毒々しい考え方をわたしの脳に植え付けていました。
 それでは、わたしがイスラム教に傾いていたとき、神様がどの様にしてわたしのいたその場所で会ってくれたかお話しましょう。わたしはどれほど神様を愛しているか!神様は、私たちが今いるその場所に来てくれます。神様は当時のわたしがどういう考え方をしているかよくご存知でした。その頃わたしは、スティーブン・マルクメスというロックミュージシャンをものすごく尊敬していました。彼の知的なトークや、物の見方が大好きでした。再度言いますが、神様は、今あなたがいるその場所で会ってくれて、あなたを引き上げてくださいます。神様はとても素晴らしいかたです。では、神様がわたしに何をしてくださったか言いましょう。わたしの友達が拾ってきたその広告には、誰かの顔写真が載っていました。そして、その顔はマルクメスの顔にそっくりでした!それを見たとき、「クリスチャンの人だけど、マルクメスにそっくりだ!いい知らせだ!」と思いました。その広告は、わたしの家から15分離れた場所で持たれるテント集会の宣伝でした。初日の夜の題名は「アフリカ系アメリカ人と豚」でした。「これは行ってみなくては!」と思い、わたしはその土曜の夜、集会所へ行ってみました。説教者は、スティーブン・ウィリアムズ牧師という人でした。彼はレビ記11章からお説教をしていました。豚は清くないものだと言ったので、イスラム教を勉強していたわたしは「その通りだ!このクリスチャンたちに言ってやれ!教育してくれ!豚を食べないように言ってやれ!」と思いました。ところが、ウィリアムズ先生は、「それから、海老、伊勢海老、カニも」と言ったので、わたしは「何っ?!」と思いました。そんなことは一度も聞いたことがなかったからです。イスラム教徒たちは、豚は食べませんが、海老やカニは食べていました。そこで聖書を見てみると、確かにそう書いてありました。それからウィリアムズ先生は、もっと詳しく聖書を解説しはじめました。わたしは、今までにこんな話し方をするクリスチャンに出会ったことがありませんでした。何故なら、彼は言った全てのことを聖書で証明できたからです。
 その集会の後、わたしはウィリアムズ先生に話しに行きました。「こんばんは、あなたたちは何者ですか?こんなことは一度も聞いたことがありません。」と言うと、彼は、「わたしたちはセブンスデー・アドベンチストです。」と答えました。わたしが「なんですかそれは?」と聞くと、彼は「君は勉強したいみたいだね。」と言い、彼の私用の電話番号をくれました。わたしは、今までそんな牧師に出会ったことがありませんでした。家に帰ると、さっそくその番号をダイアルしました。本当の番号だと確かめたかったからです。すると、それは本当にウィリアムズ家につながりました。わたしは「うわぁー!ほんとうに家にかかったのですね」と思わず言ってしまいました。それから、ある男の人がわたしの家に来て聖書勉強をすることになりました。

つづく

訳:森春香
編集:品末拓真

2012年10月25日木曜日

ドウェイン・レモンの証 10

audioverse.orgのhttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

 異言を体験した後、教会を出ましたら、神様はわたしにあることを見せてくれました。教会の外には礼拝中に異言を話していた人がいました。その人は「今日は素晴らしい教会だったなぁ」と言いながらタバコを取り出し、それを吸い始めました。わたしは、聖霊に満たされた人はタバコなんて吸わないと思っていましたし、なぜ吸っているのだろうと疑問に思いました。更に、他の人が教会から出てきました。その人はとても汚い言葉で話し始めました。罵り、呪い、侮辱、誓いの言葉を平気で使っていました。それらは、わたしがとても親しみをもっていた言葉たちです。わたしは、クリスチャンはそういう話し方をしないかと思っていました。
 みなさんは、「クリスチャンだからって言葉遣いに気を付けないといけないの?怒ったときに、ふと口から出てきてしまうことだってあるじゃないか」と言うかもしれません。しかし、愛する兄弟姉妹たち、マタイによる福音書26章にある話をどうか忘れないでください。そこには、イエスが捕えられ、ペトロが大祭司の屋敷の中庭にいたときの話が書かれています。ペトロは一人になりました。ペトロはみんなでいるときは勇敢でしたが、一人でいるときはとても弱い男でした。女中が近寄ってきて、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言いました。ペトロは、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と答えました。ほかの人が近づいてきて、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言うと、「そんな人は知らない」と誓って打ち消しました。しばらくして、再び人々が近寄ってきて、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」と言いました。そこでペトロは、イエスと関係がないことを証明するために、呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓い始めました。この話を通して分かることは、わたしたちが呪いや誓いの言葉を使うとき、わたしたちはイエスと関係がないことを証明しているということです。そして、私たちは誘惑や困難を言い訳に「こうするしかなかった。」と言うべきではありません。なぜなら、誰もイエス様ほど試練にあった事は無いからです。
 わたしは聖霊について疑問を持ち始めました。そして、わたしは友達と聖書を勉強して、「異言」は五旬祭で人々が聖霊によって語ることができた、文字通り「言語」であったことが分かりました(使徒言行録2:1-13)。わたしはその教会に行くのをやめました。それから数々のキリスト教の教会に行きましたが、飽きてしまい、キリスト教以外の宗教に興味を持ち始めて、イスラム教を勉強し始めました。わたしは、イスラム教が尊厳と規律のある宗教であることが好きでした。「クリスチャンたちは幸せそうにしているけれど、彼らは、自分達がなぜ幸せなのかを説明することすらできない!」と思っていたので、クリスチャンへの興味は薄れていきました。その反面イスラム教徒は知的に見えたので、その知的な雰囲気が好きでした。よって、イスラム教を勉強し始めたのですが、キリスト教を完全に捨てたわけではありませんでした。わたしは心の中に葛藤を覚えました。
 ある金曜日の夜でした。ベッドの上にはイスラム教の聖典であるコーランとキリスト教の聖書があり、わたしは泣きながらひざまずいていました。「主よ、あなたがアッラーなのか、イエスなのかもう分かりません。わたしはただ、あなたが誰なのか知りたいのです。どうかあなた自身をわたしに示してください。もしあなたが、あなた自身をわたしに示してくださらないのなら、わたしはヌワビアン(イスラム教の一派)になります。そして、もし必要なら、キリスト教の基礎を揺るがすような運動を起こします。」と祈りました。わたしは怒りに満ちていましたが、それは心からの祈りでした。

つづく

訳:森春香
編集:品末拓真

2012年10月21日日曜日

ドウェイン・レモンの証 9


audioverse.orghttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

今度は、近所のカトリック教会に行ってみました。そこでは厳粛な讃美歌をたくさん歌いました。また、ワインを飲まされ、「なんだこれは!?なぜ教会でワインが出てくるんだ?」と思いましたが、その後もワインを飲むために何度かそこへ行きました。しかし、退屈になりました。皆がよく分からない本を読んでいて意味不明だったので、再び友達のT.J.の教会に戻りました。するとある日、T.J.が、「ドウェイン、異言で話す経験をしないと!」と言ってきました。なぜかと聞くと、「聖霊に満たされないといけないからだよ」と言われたので、「どうやって聖霊に満たされるの?」と聞くと、彼は、「それは自然に起こるよ。」と言いました。T.J.の教会では、皆がとつぜん異言で話し始め、ひきつけを起こしていたので戸惑いましたが、わたしは「自分は嘘をつかないし、聖霊で満たされたふりもしない」と心に決めていました。もし本当にこういう事が起こるならば自然に起こるはずだ、と思いました。
ところで、みなさんはMC ハンマーというアーティストを知っていますか?ある日、彼の牧師がT.J.の教会に来て、礼拝をすることになりました。T.J.の教会では何をするかというと、他のペンテコステ教会のように、まず会衆を一列に並ばせます。そして一人ずつ牧師の前に行き、頭に手を置いてもらいます。すると手を置かれた人は崩れ落ちたかと思うとひきつけを起こし、異言を話し始めるのです。それが聖霊に満たされたしるしというわけです。その日、わたしもこの列に並ばされました。自分には何が起こるのだろうと思っていると、友達が「よく聞け、神様に任せろ、手放せ」と言いました。わたしはどういう意味かさっぱり分かりませんでしたが、「分かった、神様に任せて手放す」と答えました。ついにわたしの番になり、牧師がわたしのことを見、わたしも彼を見ました。牧師は「手をあげて」と言ったので、わたしが手をあげると、「イエス様のみ名により…」と牧師は言い、手をわたしの頭にのせました。すると、途端にひざに力が入らなくなり、わたしは崩れ落ちてしまいました。とても衝撃的でした。なぜなら自分は演技をしていたわけではなかったからです。そして「あだだだだだだ~~~」と人生で一度も口にしたことのない言語が、わたしの口から出てきました。わたしは自分を制御する力を完全に失っていました。ひきつけを起こし、異言を話し、力がぬけ、すべてが終わったあと、「あぁ~っ、疲れた」とため息をつきました。体中のエネルギーが全て吸い取られてしまったようで、元にもどるまでしばらく時間がかかりました。そうしたら、友達が来て「おめでとう!これでお前も聖霊に満たされたな!」と言いました。わたしは「よし。」と思いました。

続く

訳:森春香
編集:品末拓真

2012年10月19日金曜日

安息日


 友達と一緒に十戒のひとつの安息日について考えてみました。十戒は出エジプト記20章と申命記5章にあります。出エジプト記にはモーセがシナイ山で神様から十戒を授かったときのこと、申命記にはモーセがイスラエルの民に再び十戒を思い出させるために語ったときのことが書かれています。今回は特に、出エジプト記20章8節「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」(口語訳)に焦点を当てました。

Q1.「安息日を覚えて」とは?
 「覚えて」とは、「忘れないように」ということです。神様は、忘れやすいわたしたちの性質を知っておられたからこそ、「覚えて」いるようにと求められました。また「覚えて」と出エジプト記の時点で書かれているということは、その以前から、天地が創造された時から安息日は存在していたということです。では何を「覚えて」いるべきなのでしょうか?安息日は、神様が6日の間に天地を創造され、7日目に休まれた創造主であること(出エジプト記20章11節)と、神様が人々を奴隷から解放された(申命記5章15節)ということを覚える日だと書いてあります。神様が創造主であるということはわたしたちに関係がありますが、神様がイスラエルの人々を奴隷から解放されたこと(申命記5章6節,15節)はわたしたちに何の関係があるのでしょうか?ローマ信徒への手紙8章1-2節に「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」とあります。つまり、イエス様の十字架での死により、わたしたちは罪と死の奴隷から解放されました。安息日は、神様が創造主であり、救い主であることを思い起こす日なのです。

Q2.仕事とは?
 わたしたちが7日目に安息日を守るのは、神様が6日間で天地を創造され、7日目に休まれたからです。わたしたちも6日の間は働き、7日目に休むようにと書かれています(出エジプト記20章9-11節)。では働く、仕事をするとは何を指すのでしょうか?学生にとっては学業が仕事です。勉強すること、宿題をすることも仕事と考えられるでしょう。また、自分の利益を追い求めたり、報酬をもらうための業も仕事と考えられるでしょう。そこでわたしたちは、医師や看護師等の職業について考えました。彼らには一日でも治療をやめることができない患者さんがいますし、安息日にも治療をします。これは仕事なのでしょうか?わたしたちは、それは他の人を助けるためであり、お金を儲けるためではない、もしくは儲け目的であるべきではない、よっていいのではないかと考えました。事実、イエス様も安息日に人々を癒しました。しかしそれはお金目的ではありませんでした。

  さらに、イザヤ書58章では断食と安息日を比べています。断食をする目的は自分が食べないことで余ったパンをほかの人に分け与えたり、貧しい人を助けたりすることで、自分にとって価値のあるものを神様のために手放すことを学ぶためです。他人に見てもらおうとか間違った動機で断食しないようにと聖書にも忠告されています。「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」(マタイによる福音書6章16節) 食べることを「仕事」として考えたとき、断食は「仕事」をしていない状態、つまり「安息日」と考えられます。断食をするときには「陰気な顔つきをするな。」と書かれています。断食をすれば食べ物を食べていないのでお腹がすきます。安息日に仕事をしないとその分の収入はありません。しかし「陰気な顔つきをするな。」とあります。「人に見せようとして、自分の顔を見苦しく」しないようにと忠告されています。つまり安息日には神様が休むようにと言われた日に自分の利益を目的としたことはしないように、また仕事をしていればもっとお金が稼げたのにという考え方をしないように、また安息日に仕事を休むことで苦労しているというのを憐れんでもらおうと見せびらかすような行動はしないように、そして、なにかほかの人のためになるようなことを仕事をやすんだためにできた時間を使うようにということではないでしょうか。

Q3.聖とするとは?
 わたしたちは、どのようにしたら安息日を聖別された日として過ごせるかについても話し合いました。その中で「安息日だけ聖なる生活をすればいいのか?」という質問が出ました。6日の間は神様から離れた生活をし、安息日だけ聖なる日だから聖人のように過ごすというのは偽善者的な考えではないかという意見でした。安息日にはこれをしないほうがいい、という暗黙の了解はたくさんあります。どうしてでしょうか?安息日にはこういう本は読まないほうがいい、世俗的な音楽は聞かないほうがいい、テレビは見ないほうがいい、外食はしないほうがいい、等々あげたらきりがありません。では何故これらのことをしてはいけないのか、根本的な理由を考えてみました。そこでわたしたちがたどりついた結論は「安息日は神様が聖別された特別な日だから」(出エジプト記20章11節)でした。それは、わたしたちの努力によって安息日は聖別されるのではないということです。神様が安息日を与えられた目的を考えるとき、神様はわたしたちと交わるために特別な一日を毎週備えてくださったということに気づきます。それは神様がわたしたちの創り主であり、罪から解放してくださった贖い主であるということを忘れやすいわたしたちに思い出させるためです。ですから、安息日に何をすべきか、すべきではないかを考える前に、神様がわたしたちの創造主で贖い主であることを真剣に考え、神様と交わるために安息日が与えられたということを思うとき、安息日の過ごした方は自然と聖なるものへと変えられるのではないかと結論しました。

森春香
編集:品末拓真

10/19/2012

2012年10月6日土曜日

ドウェイン・レモンの証 8


audioverse.orghttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

もう少し詳しいことを話しますと、クイーン・ラティファのツアーに行った時、T.J.はクリスチャンでした。彼はたまにイエス様のことをわたしに話してきました。しかし彼の偽善者的生活は、彼自身にとってもわたしにとってもよい証ではありませんでした。わたしは「イエス様を受け入れるにはまだ準備ができていない。もっとお金を稼いで自分のやりたいことをやろう。」と思っていました。ところがチャーリーの事件後、お葬式でチャーリーの棺が地面に埋葬されるのを見ました。お葬式はそれまでに一度しか行ったことがありませんでしたし、誰かが埋葬されるのを見るのはこれが初めてでした。棺が地面の中に埋葬されるのを見たとき、わたしの中で何かが変わりました。お墓に入っていくチャーリーの棺を見たとき、初めてチャーリーが自分の人生から引き抜かれてしまったような気がしました。聖書のコヘレトの言葉7章2節にはこの経験に適したことが書かれています。

「弔いの家に行くのは
酒宴の家に行くのにまさる。
そこには人皆の終わりがある。
命あるものよ、心せよ。」
コヘレトの言葉7章2節

 この聖句の通りのことがわたしに起こりました。お葬式に出席した時から、わたしは人生について考えはじめました。わたしにとって「弔いの家」に行くこと、お葬式に行くことのほうが、「酒宴の家」、パーティーが行われているクラブ会場に行くよりも良かったのです。なぜなら弔いの家に行ったわたし、命あるもの、は人の終わりを目の当たりにさせられたからです。
 チャーリーの棺が埋葬され、リムジンで家へ帰っている途中、わたしはとても明確な声で「今なら、わたしを受け入れてくれるか?」と言うのが聞こえました。ステレオから聞こえてくるような、はっきりとした声でした。「今なら、わたしを受け入れてくれるか?」サウロであったころのパウロになった気分でした。それが神様の声だとはっきり分かったからです。神様のことを勉強したことはあまりなかったのですが、それでも神様の声だと分かりました。それはT.J.がわたしの心に種を植えつけてくれていたからです。愛する兄弟姉妹たち、どうか覚えていてください。たとえわたしたちが、青年たちはとても手に負えない、もう希望がない、とんでもなく堕落した道を歩んでいると思えるときでも「神様の御言葉」という種を彼らに植え続けてください。神様の計画されたタイミングでその種は成長します。T.Jがわたしの心に種を植えつけました。そしてリムジンの中であの声を聞いたとき、その種は初めて芽を出しました。わたしは「はい、神様、あなたを受け入れます。」と答えました。
わたしはエンターテイメント業界を去ったわけではありませんでしたが、T.J.に会いに行き「俺はこれから何をしたらいいんだ?神様に心を捧げたんだ。」と言いました。「じゃあ教会においで。」と言われ、わたしたちはニューヨークのブルックリンのヒゼキヤウォーカーズ教会というところへ行きました。このヒゼキヤウォーカーズ教会はペンテコステ派の教会で、わたしは死ぬかと思うほどの怖い経験をしました。そこにいた人たちは右へ左へと走り回り、前へ行ってジャンプをしたり、よくわからない言語をしゃべったり、ひきつけを起こしたりしていました。わたしは「一体これはなんだ!?ここにはいられない。これは自分にはちょっとエネルギッシュすぎる」と思いました。

続く

訳:森春香
編集:品末拓真

2012年10月1日月曜日

ドウェイン・レモンの証 7


audioverse.orghttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

 ある日、ニューヨークのブルックリンに住んでいた甥のチャーリーから連絡がありました。チャーリーはとても貧しい少年で、お金を稼ぐ手段もありませんでした。しかし、ダンスをしたいという熱意がありました。そこでチャーリーは「ドウェイン、僕がダンス業界に入れるように手伝ってくれる?」と聞いてきたのです。わたしは「君のためにできるだけのことはやってみるよ。」と答えました。わたしは自分の過去をよく覚えていました。わたしには自信が無く、できそこないだと思っていた少年時代がありました。だからこそ、チャーリーを助けてあげたかったのです。そこでわたしはチャーリーに様々な機会を与えたのですが、誰もチャーリーのダンスには興味を示しませんでした。

 そんなある日のこと、チャーリーは地元の麻薬売人に出会いました。彼らは「お前、金を稼ぎたいのか?1夜で$5,000稼ぐ方法を教えてやるよ。」と言いました。チャーリーは「よし、じゃあやってみます」と答えました。チャーリーは彼らと手を組むことに賛成したのです。その夜、チャーリーはとある屋台の裏にいました。防弾加工されたドアから人が入ってきて、チャーリーは麻薬を渡してお金を受け取る、ということを数時間繰り返してお金を稼いでいました。チャーリーはガラの悪い少年ではありませんでした。とてもよい少年で、成績もすべての科目でAをとっていました。しかし、とても貧しかったのです。彼の叔父であるわたしはたくさんのお金を稼いでいたので、チャーリーは少しでもお金持ちの気分を味わいたいと思い、麻薬をその夜売っていたのです。
 するとその場に彼の友人が二人やってきて、三人で話し始めました。ところが、二人の友達は言い争いをはじめました。そして言い争いが、殴り合いの喧嘩になりました。そこで平和主義者のチャーリーは、彼らに麻薬とその夜稼いだ札束を見せることに決めました。チャーリーは「お前ら、喧嘩をやめてこれを見てみろ。」と言いました。喧嘩を止めようとしたのです。しかしチャーリーがそうした途端、彼の友達であったはずの二人はすぐさま銃を取り出し、チャーリーに向かって発砲しました。彼らは9ミリ拳銃でチャーリーの額に2発、お腹に3発撃ちました。そして彼らは地面に横たわるチャーリーを放って札束を盗み、逃げていきました。その4日後にチャーリーは亡くなりました。19歳でした。
 わたしたちはたまに「よくないとは分かっているけど、一度だけ試してみよう」と言います。わたしたちは罪の報酬は死であることを知っています。(ローマ信徒への手紙6:23)しかしそれでも、「ただ一度だけ…」と手を出します。わたしの甥チャーリーも一度だけ試しました。そして命を失いました。愛する兄弟姉妹たち、罪はおもちゃではないということを、サタンはわたしたちの友達ではないということを、神様はわたしたちによく理解してほしいと思っておられます。
 チャーリーのお葬式の時、彼の顔はとても見せられる状態ではなかったために棺の蓋は閉じられたままでした。その棺を見ながらわたしは「チャーリー、君が言ってくれれば欲しいだけのお金をあげたのに…。どうしてこんなことをしたんだ?」と思い、怒りがこみあげてきました。

続く


訳:森春香
編集:品末拓真