2012年10月6日土曜日

ドウェイン・レモンの証 8


audioverse.orghttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

もう少し詳しいことを話しますと、クイーン・ラティファのツアーに行った時、T.J.はクリスチャンでした。彼はたまにイエス様のことをわたしに話してきました。しかし彼の偽善者的生活は、彼自身にとってもわたしにとってもよい証ではありませんでした。わたしは「イエス様を受け入れるにはまだ準備ができていない。もっとお金を稼いで自分のやりたいことをやろう。」と思っていました。ところがチャーリーの事件後、お葬式でチャーリーの棺が地面に埋葬されるのを見ました。お葬式はそれまでに一度しか行ったことがありませんでしたし、誰かが埋葬されるのを見るのはこれが初めてでした。棺が地面の中に埋葬されるのを見たとき、わたしの中で何かが変わりました。お墓に入っていくチャーリーの棺を見たとき、初めてチャーリーが自分の人生から引き抜かれてしまったような気がしました。聖書のコヘレトの言葉7章2節にはこの経験に適したことが書かれています。

「弔いの家に行くのは
酒宴の家に行くのにまさる。
そこには人皆の終わりがある。
命あるものよ、心せよ。」
コヘレトの言葉7章2節

 この聖句の通りのことがわたしに起こりました。お葬式に出席した時から、わたしは人生について考えはじめました。わたしにとって「弔いの家」に行くこと、お葬式に行くことのほうが、「酒宴の家」、パーティーが行われているクラブ会場に行くよりも良かったのです。なぜなら弔いの家に行ったわたし、命あるもの、は人の終わりを目の当たりにさせられたからです。
 チャーリーの棺が埋葬され、リムジンで家へ帰っている途中、わたしはとても明確な声で「今なら、わたしを受け入れてくれるか?」と言うのが聞こえました。ステレオから聞こえてくるような、はっきりとした声でした。「今なら、わたしを受け入れてくれるか?」サウロであったころのパウロになった気分でした。それが神様の声だとはっきり分かったからです。神様のことを勉強したことはあまりなかったのですが、それでも神様の声だと分かりました。それはT.J.がわたしの心に種を植えつけてくれていたからです。愛する兄弟姉妹たち、どうか覚えていてください。たとえわたしたちが、青年たちはとても手に負えない、もう希望がない、とんでもなく堕落した道を歩んでいると思えるときでも「神様の御言葉」という種を彼らに植え続けてください。神様の計画されたタイミングでその種は成長します。T.Jがわたしの心に種を植えつけました。そしてリムジンの中であの声を聞いたとき、その種は初めて芽を出しました。わたしは「はい、神様、あなたを受け入れます。」と答えました。
わたしはエンターテイメント業界を去ったわけではありませんでしたが、T.J.に会いに行き「俺はこれから何をしたらいいんだ?神様に心を捧げたんだ。」と言いました。「じゃあ教会においで。」と言われ、わたしたちはニューヨークのブルックリンのヒゼキヤウォーカーズ教会というところへ行きました。このヒゼキヤウォーカーズ教会はペンテコステ派の教会で、わたしは死ぬかと思うほどの怖い経験をしました。そこにいた人たちは右へ左へと走り回り、前へ行ってジャンプをしたり、よくわからない言語をしゃべったり、ひきつけを起こしたりしていました。わたしは「一体これはなんだ!?ここにはいられない。これは自分にはちょっとエネルギッシュすぎる」と思いました。

続く

訳:森春香
編集:品末拓真

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