2012年10月25日木曜日

ドウェイン・レモンの証 10

audioverse.orgのhttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

 異言を体験した後、教会を出ましたら、神様はわたしにあることを見せてくれました。教会の外には礼拝中に異言を話していた人がいました。その人は「今日は素晴らしい教会だったなぁ」と言いながらタバコを取り出し、それを吸い始めました。わたしは、聖霊に満たされた人はタバコなんて吸わないと思っていましたし、なぜ吸っているのだろうと疑問に思いました。更に、他の人が教会から出てきました。その人はとても汚い言葉で話し始めました。罵り、呪い、侮辱、誓いの言葉を平気で使っていました。それらは、わたしがとても親しみをもっていた言葉たちです。わたしは、クリスチャンはそういう話し方をしないかと思っていました。
 みなさんは、「クリスチャンだからって言葉遣いに気を付けないといけないの?怒ったときに、ふと口から出てきてしまうことだってあるじゃないか」と言うかもしれません。しかし、愛する兄弟姉妹たち、マタイによる福音書26章にある話をどうか忘れないでください。そこには、イエスが捕えられ、ペトロが大祭司の屋敷の中庭にいたときの話が書かれています。ペトロは一人になりました。ペトロはみんなでいるときは勇敢でしたが、一人でいるときはとても弱い男でした。女中が近寄ってきて、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言いました。ペトロは、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と答えました。ほかの人が近づいてきて、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言うと、「そんな人は知らない」と誓って打ち消しました。しばらくして、再び人々が近寄ってきて、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」と言いました。そこでペトロは、イエスと関係がないことを証明するために、呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓い始めました。この話を通して分かることは、わたしたちが呪いや誓いの言葉を使うとき、わたしたちはイエスと関係がないことを証明しているということです。そして、私たちは誘惑や困難を言い訳に「こうするしかなかった。」と言うべきではありません。なぜなら、誰もイエス様ほど試練にあった事は無いからです。
 わたしは聖霊について疑問を持ち始めました。そして、わたしは友達と聖書を勉強して、「異言」は五旬祭で人々が聖霊によって語ることができた、文字通り「言語」であったことが分かりました(使徒言行録2:1-13)。わたしはその教会に行くのをやめました。それから数々のキリスト教の教会に行きましたが、飽きてしまい、キリスト教以外の宗教に興味を持ち始めて、イスラム教を勉強し始めました。わたしは、イスラム教が尊厳と規律のある宗教であることが好きでした。「クリスチャンたちは幸せそうにしているけれど、彼らは、自分達がなぜ幸せなのかを説明することすらできない!」と思っていたので、クリスチャンへの興味は薄れていきました。その反面イスラム教徒は知的に見えたので、その知的な雰囲気が好きでした。よって、イスラム教を勉強し始めたのですが、キリスト教を完全に捨てたわけではありませんでした。わたしは心の中に葛藤を覚えました。
 ある金曜日の夜でした。ベッドの上にはイスラム教の聖典であるコーランとキリスト教の聖書があり、わたしは泣きながらひざまずいていました。「主よ、あなたがアッラーなのか、イエスなのかもう分かりません。わたしはただ、あなたが誰なのか知りたいのです。どうかあなた自身をわたしに示してください。もしあなたが、あなた自身をわたしに示してくださらないのなら、わたしはヌワビアン(イスラム教の一派)になります。そして、もし必要なら、キリスト教の基礎を揺るがすような運動を起こします。」と祈りました。わたしは怒りに満ちていましたが、それは心からの祈りでした。

つづく

訳:森春香
編集:品末拓真

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