2012年10月19日金曜日

安息日


 友達と一緒に十戒のひとつの安息日について考えてみました。十戒は出エジプト記20章と申命記5章にあります。出エジプト記にはモーセがシナイ山で神様から十戒を授かったときのこと、申命記にはモーセがイスラエルの民に再び十戒を思い出させるために語ったときのことが書かれています。今回は特に、出エジプト記20章8節「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」(口語訳)に焦点を当てました。

Q1.「安息日を覚えて」とは?
 「覚えて」とは、「忘れないように」ということです。神様は、忘れやすいわたしたちの性質を知っておられたからこそ、「覚えて」いるようにと求められました。また「覚えて」と出エジプト記の時点で書かれているということは、その以前から、天地が創造された時から安息日は存在していたということです。では何を「覚えて」いるべきなのでしょうか?安息日は、神様が6日の間に天地を創造され、7日目に休まれた創造主であること(出エジプト記20章11節)と、神様が人々を奴隷から解放された(申命記5章15節)ということを覚える日だと書いてあります。神様が創造主であるということはわたしたちに関係がありますが、神様がイスラエルの人々を奴隷から解放されたこと(申命記5章6節,15節)はわたしたちに何の関係があるのでしょうか?ローマ信徒への手紙8章1-2節に「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」とあります。つまり、イエス様の十字架での死により、わたしたちは罪と死の奴隷から解放されました。安息日は、神様が創造主であり、救い主であることを思い起こす日なのです。

Q2.仕事とは?
 わたしたちが7日目に安息日を守るのは、神様が6日間で天地を創造され、7日目に休まれたからです。わたしたちも6日の間は働き、7日目に休むようにと書かれています(出エジプト記20章9-11節)。では働く、仕事をするとは何を指すのでしょうか?学生にとっては学業が仕事です。勉強すること、宿題をすることも仕事と考えられるでしょう。また、自分の利益を追い求めたり、報酬をもらうための業も仕事と考えられるでしょう。そこでわたしたちは、医師や看護師等の職業について考えました。彼らには一日でも治療をやめることができない患者さんがいますし、安息日にも治療をします。これは仕事なのでしょうか?わたしたちは、それは他の人を助けるためであり、お金を儲けるためではない、もしくは儲け目的であるべきではない、よっていいのではないかと考えました。事実、イエス様も安息日に人々を癒しました。しかしそれはお金目的ではありませんでした。

  さらに、イザヤ書58章では断食と安息日を比べています。断食をする目的は自分が食べないことで余ったパンをほかの人に分け与えたり、貧しい人を助けたりすることで、自分にとって価値のあるものを神様のために手放すことを学ぶためです。他人に見てもらおうとか間違った動機で断食しないようにと聖書にも忠告されています。「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」(マタイによる福音書6章16節) 食べることを「仕事」として考えたとき、断食は「仕事」をしていない状態、つまり「安息日」と考えられます。断食をするときには「陰気な顔つきをするな。」と書かれています。断食をすれば食べ物を食べていないのでお腹がすきます。安息日に仕事をしないとその分の収入はありません。しかし「陰気な顔つきをするな。」とあります。「人に見せようとして、自分の顔を見苦しく」しないようにと忠告されています。つまり安息日には神様が休むようにと言われた日に自分の利益を目的としたことはしないように、また仕事をしていればもっとお金が稼げたのにという考え方をしないように、また安息日に仕事を休むことで苦労しているというのを憐れんでもらおうと見せびらかすような行動はしないように、そして、なにかほかの人のためになるようなことを仕事をやすんだためにできた時間を使うようにということではないでしょうか。

Q3.聖とするとは?
 わたしたちは、どのようにしたら安息日を聖別された日として過ごせるかについても話し合いました。その中で「安息日だけ聖なる生活をすればいいのか?」という質問が出ました。6日の間は神様から離れた生活をし、安息日だけ聖なる日だから聖人のように過ごすというのは偽善者的な考えではないかという意見でした。安息日にはこれをしないほうがいい、という暗黙の了解はたくさんあります。どうしてでしょうか?安息日にはこういう本は読まないほうがいい、世俗的な音楽は聞かないほうがいい、テレビは見ないほうがいい、外食はしないほうがいい、等々あげたらきりがありません。では何故これらのことをしてはいけないのか、根本的な理由を考えてみました。そこでわたしたちがたどりついた結論は「安息日は神様が聖別された特別な日だから」(出エジプト記20章11節)でした。それは、わたしたちの努力によって安息日は聖別されるのではないということです。神様が安息日を与えられた目的を考えるとき、神様はわたしたちと交わるために特別な一日を毎週備えてくださったということに気づきます。それは神様がわたしたちの創り主であり、罪から解放してくださった贖い主であるということを忘れやすいわたしたちに思い出させるためです。ですから、安息日に何をすべきか、すべきではないかを考える前に、神様がわたしたちの創造主で贖い主であることを真剣に考え、神様と交わるために安息日が与えられたということを思うとき、安息日の過ごした方は自然と聖なるものへと変えられるのではないかと結論しました。

森春香
編集:品末拓真

10/19/2012

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