2012年9月30日日曜日

ドウェイン・レモンの証 6

audioverse.orghttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

わたしはツアーから帰ってきた後、トニー・テリー、C.Cペニストン、ラップグループのア・トライブ・コード・クエスト、ブーテン・クレン、ヘヴィD、ブランディーなどの様々なアーティストと仕事をはじめました。またダンスの振付も担当するようになり、自分で振付したダンスをブランディーと同じ舞台で踊りました。ここまで積み上げてきた自分の成果を見て、わたしは雲の上にいるような気分になりました。振付をし、舞台でダンスをし、ツアーに行き、お金も稼いでいる。ヘヴィーDとは月給$30,000の契約でダンスをしていました。週$100で踊っていた素人の頃とはかなりの違いです。更にわたしを良い気分にさせたのは、わたしの才能はどこへ行っても通用したことです。クラブ会場に行けば、そこにいたすべての人がわたしのことを知っていました。わたしはこの力と名声をとても愛していました。リムジンが家の前にわたしを迎えに来ると、わたしは家の表にある階段をゆっくりと下りました。近所にいる人たちがわたしをよく見られるようにするためです。わたしはとても有名でした。ダンスの振付に関しては、わたしが他のダンサーに指示を出すようになっていました。そして様々なアーティストとツアーに行きました。わたしは「なんて素晴らしいんだろう!」と思っていました。

続く

訳:森春香
編集:品末拓真

2012年9月23日日曜日

ドウェイン・レモンの証 5


audioverse.orghttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

ツアー中、ケンタッキー州にいた時のことです。今でもよく覚えています。それはわたしたちの仲間のトレッチの誕生日でした。トレッチは「クラブ会場を貸し切ったから、来たい人はみんな招待して来てくれ。自分は育ちもたいして良くないし、V.I.P.扱いされる必要もない。どんな人でも招待しよう」と言いました。そして地元の人たちも招待されましたが、それは大きな間違いでした。わたしがクラブ会場にいくと、Qティップ、アイスティー、ア・トライブ・コード・クエスト、パブリックエネミー、そして、クイーン・ラティファなどたくさんの人がいました。その中には地元の麻薬売人たちまでいました。すると、売人たちは「俺たちがここのスターだ」と言い始めました。他の人たちは、ただ楽しい時間を持ちたいだけだと言ったのですが、売人たちはそれを聞かず、気づいたときには暴力沙汰の喧嘩がはじまっていました。わたしは今まで、あれだけたくさんのガラス瓶が人の顔で割られるのを見たことがありません。それは最初の警告でした。わたしとT.J.は文字通り机の下に隠れないといけない程でした。
わたしはS.D.A.の青年たちに芸能界のことを話すとき、テレビには映らない裏の世界のことを伝えます。なぜならテレビには、わたしがこのクラブ会場で実際に見たようなものは映らないからです。
警察が来ましたが、その警察官は男の人を無理やりトイレに連れていきました。警察なら、もし誰かを怪しいと思ったのならその誰かを外へ連れ出し、パトカーで取り調べをするはずです。しかし、その警察官はトイレに男の人をひきずりこみました。わたしたちはその男の人の叫び声を聞きました。トイレから出てきた時には、その男の人の顔はボコボコで血まみれになっていました。そしてその人は「俺は何もしていない…」と何度も言っていましたが、パトカーに連れていかれました。この一部始終を見ていたわたしは、「僕がやりたかったのは、ただダンスをすることだけだったのに…」と思いました。こんな暴力沙汰があるなんて知りもしませんでした。
 トレッチはその夜の出来事にすごく腹を立てていました。トレッチも警察に捕まるところでしたが、凄みを聞かせた声で「俺に触ったら殺すぞ」と言ったため、警察は去っていきました。この事件で15人が病院に送られました。わたしたちはバスに乗り込み、ホテルへ帰ろうとしましたが、その途中でトレッチが「あのクラブ会場に戻れ」と言いました。なぜまたクラブ会場に戻る必要があるのだろう?ホテルに帰るべきじゃないのか?と思っていると、トレッチは「バッグをよこせ」と言いました。男の人が洗濯物入れ用の大きな白いバッグを持ってきました。彼がバックの中に手をのばして取り出したものは、10ミリや9ミリのピストル銃でした。彼の指示は明確でした。「クラブ会場に戻り、奴ら(売人)を見つけたら、撃て。」わたしは「自分は人殺しじゃない。ダンスをしに来ただけだ」と思いました。サタンはこのように働きかけます。わたしたちは世の中にあることを試してみようとします。そしてよく表に出ているイメージだけを見て、裏に隠されている世界を見落としてしまいます。わたしはダンスをしたいがために世俗的なことに手を出しましたが、サタンは「ダンス以外の計画もある」と言ってわたしをこの世界に巻き込みました。しかし神様の恵みにより、わたしたちがピストルを持ってクラブ会場に戻った時には、会場は警察で固められていました。わたしたちはすぐに引き返し、後にツアーも終了しました。

続く

訳:森春香
編集:品末拓真

2012年9月16日日曜日

アリゾナの学校


アリゾナの学校
今年から、アリゾナのSOULS WESTと言う大学へ転校するので、南からのお便りで記事を書くのは少しお休みします。記事をしばらく書いていなかったのは夏の間さまざまな伝道プログラムに参加していたからです。5月には3週間ほど西アフリカ大陸にあるシエラレオネ共和国でShareHimという団体と共に伝道講演会を開き、毎晩お説教をしました。497人がバプテスマを受け、そのほかにも300人以上がバプテスマを近い将来に受けたいと決心しました。
さて、伝道講演会から帰ったあと、6月のはじめから8月の終わりまで文書伝道をしました。教会に寝泊りして、20人ぐらいの高校生、大学生と共に10週間の期間、週五日、一日8時間文書伝道をするというプログラムでした。金曜日は備えの日として、洗濯や掃除をし、土曜日は近くの教会で証をしたり、お説教をしました。約20人の学生グループでしたが10週間も寝泊り、食事、伝道、聖書勉強、お祈りなどたくさんのことを一緒にしたので、プログラムが終わるころには大家族のような信頼関係ができました。
文書伝道では、色々な経験をしました。天使の存在をまじかで経験したり、悪霊に取り付かれている家でお祈りしたり、聖書の事を知り、感動して泣く人を見たり、たくさんの素晴らしい経験をしました。文書伝道は決して簡単な仕事ではありませんでした。夏の日差しのなか重い本をもって家を一軒一軒回り、聖書などの本を売るのは体力的にも辛く、それだけではなく、精神的にも辛い仕事でした。しかし、辛くて、絶望するような経験をする中、仲間と共に助けあい、祈り、神様と真正面から向き合うことができました。わたしにとって伝道は本当に楽しくて、クリスチャンとして伝道することは重要な使命だということをあらためて実感しました。
さて、アリゾナのSouls Westと言う学校ではわたしは2年間のプログラムに参加します。2年間、聖書や教会について深く学びます。Souls Westの目的は若者たちを教会のリーダーとして育てるためにトレーニングするということです。教科書を使った講義だけではなくて、実際に文書伝道をしたり、伝道講演会を開いたり、お説教をしたり、聖書勉強を地域の人と行ったり、健康な生活の秘訣、教団との関係、教会の使命などを自ら経験できるプログラムです。
Souls Westのプログラムで若い学生たちが学ぶ知識、経験することは世界各地で効果的な伝道を実行するために活用されます。わたしはアジア、特に日本とその周りの国々へ伝道することにとても興味をもっています。マタイ24章14節にある「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」という御言葉が私たちの世代で実現されるのがわたしの夢です。毎日、一刻も早く全世界に福音が伝わりますようにと祈っています。2年間のSouls Westでの学びを終えた後は、引き続きどこかで神学の勉強をする予定です。

著者:福田 ダニエル

編集者:森 春香

2012年9月16日

2012年9月15日土曜日

ドウェイン・レモンの証 4


audioverse.orghttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。

ある日、友達から電話が掛かってきて「クイーン・ラティファ(歌手、女優)がパブリック・エネミー・アポカリプス・91世界ツアーに連れて行くダンサーを集めるためのオーディションをしている」と言いました。なぜか「アポカリプス・91世界ツアー」と呼ばれていましたが、わたしは「本当か?よし!」と返事をし、仲間たちとマンハッタンへオーディションを受けに行きました。そこにはクイーン・ラティファがいました。わたしはとても興奮しました。しかし、幼いころから父に「どんなに内心では興奮していても、平静を装え」と言われていたわたしは、クイーン・ラティファを見て「あっ!!」と言いたいのを抑えて「こんにちは、いかかがお過ごしですか?」と声をかけました。平静を装って握手や一通りの挨拶をすませましたが、内心「クイーン・ラティファと握手をした!信じられない!」と思っていました。クイーン・ラティファに「オーディションを受けにきたのね」と聞かれ、「はい」と答えました。「それでは見せてもらいましょう」と言われ、オーディションがはじまりました。当時、わたしがただ一つ自信を持っていたのはダンスをすることでした。仲間たちも一緒にオーディションを受けていましたが、彼らよりも優れたダンスをして世界ツアーに行くためのチケットを勝ちとらなければと思っていました。ダンスにはパワームーブというものがあります。パワームーブは、ここぞという時にする決め技のようなものです。オーディションの最中、クイーン・ラティファがわたしのことを見ているのが分かりました。そこで、恐れ知らずの友達のT.J.はパワームーブを決め、得意技であるスピンをしました。すると、さっきまでわたしのことを見ていたクイーン・ラティファはT.J.をみて「うわぁー!」と言い、近くにいた関係者の人に何か耳打ちしました。それを見たわたしは、このままではいけないと思い、自分もパワームーブをすることにしました。わたしのパワームーブは、新体操の動きと開脚をあわせたようなものでした。クイーン・ラティファが見ているときを見計らってパワームーブを決めると、クイーン・ラティファは目を真ん丸にしてびっくりしました。わたしは「やった!」と思いました。オーディションの後「君たち素晴らしかったわよ」と言ってもらい、家に帰ると電話が鳴りました。電話の相手が「もしもし、ドウェインさんとお話しできますか?」と言ってきたので、わたしは「本人です。」と言うと、相手は「クイーン・ラティファです。」と言いました。そこで「あぁっ!」と叫びたいところでしたが、平静を装って「こんにちは、お元気ですか?」と尋ねました。そこでクイーン・ラティファは「よく聞きなさい。あなたとT.J.を世界ツアーへ連れて行くことに決めたわ」と言いました。わたしは「素晴らしい!」と答えました。待ち合わせ場所や、計画を聞いてから電話を切ると、すぐさま両親に電話をかけ「お父さん、お母さん、オーディションに受かった!!!」と報告しました。わたしはすごく嬉しくて興奮していましたし、両親もわたしのためにとても喜んでくれました。両親は、わたしが麻薬などをやっていないかぎりはそれで良いと考えていました。
ツアーのためにまずはニュージャージー州へ運転していき、フレーバーユニットという建物でミーティングをしました。そこで感心したのは、クイーン・ラティファが「このツアーではお互いを謙遜しあってほしい。女の子と遊んだりしないように。」と言ったことです。わたしは、この人は高潔な女性だと思いました。そして、ついにツアーがはじまりました。T.J.とわたしはとても興奮していました。ほかのヒップホップグループも一緒にツアーに来ており、州から州へと旅行し、わたしたちはステージでダンスをしました。何千というお客さんがわたしたちのことを見に来ました。わたしは「クイーン・ラティファと一緒の舞台にあがっているなんて信じられない!」という気持ちでいっぱいでした。また、わたしたちはそこそこの収入を得ていました。しかし後でわかったことなのですが、わたしたちは少し騙されていました。事務所はわたしたちが素人だとわかっていたので「週に$100あげるよ。」と言われ、わたしたちは「素晴らしい!」と条件をのみ、満足していました。

続く

訳:森春香
編集:品末拓真

Mission Report


Mission Report
Thank you very much for your prayers and support. I finished the first year of my college education at Southern Adventist University. After college, I plan to become a pastor. I am especially, interested in church planting and evangelism in Asia.  
            We went to Waterloo and Freetown, located in Sierra Leone with a group of 14 students from SAU, one teacher, and one ShareHim coordinator. ShareHim worked together with the Sierra Leone Mission conference to plan and coordinate all the evangelistic meetings. Each of us was assigned to preach 19 different sermons at various sites over a period of about two weeks. Freetown is the capitol of Sierra Leone; and Waterloo is the town next to Freetown. Fifteen of us, including the teacher, went every night to preach at various locations. Most of us preached outside in public places for people to easily come and hear us. The average attendance at my site was about 200 people each night. Out of the 200 people, more than 100 of them were visitors. With all 15 sites combined, a total of 479 people were baptized while we were there, and 300 more people have decided to get baptized sometime soon. The team members that went were not necessarily theology or religion majors. In fact, only 5 out of the 14 students were religion or theology majors. The rest of the students’ majors include elementary education, psychology, international business, nursing, and graphic design majors.
The students
Joel S., Rebekah R., Sarah D., Jenny K., Jennifer H., Jacque F., Katie H., Robert H., Daniel F., Kevin F., Sarah A., Stephanie B., Deborah R., and Lizabeth P.
The sponsors
Professor Michael Dant – computer science professor at Southern Adventist University
Pastor David Dobias – ShareHim Assistant Director
           I decided to go and preach in Sierra Leone because preaching 19 sermons sounded very exciting and fun. I have always wanted to preach an evangelistic series. Preaching my first evangelistic series in Africa with a translator sounded very exciting. The local people there were very humble, friendly, and hard-working people. There were not many foreigners in Sierra Leone. So the mere fact of me being in Asian attracted the attention of people everywhere I went. People waved and greeted me as though I was a celebrity because I was a foreigner. The life and culture in Sierra Leone was very different from America. Some of the different things included bumpy roads, spicy food, hot and humid temperature, bathrooms, people carrying things on their head, and handshakes. However, I was able to adapt to it quite comfortably. When I came back to America, I had to re-adapt to my culture again. I miss Sierra Leone.
            The sound speakers at the sites were very loud. Before the meetings started, for about an hour, they played African gospel music over the speakers in a very loud volume. The sound was so loud that I could not even hear myself speak. I had to shout to barely communicate with the person next to me. After about a week of campaign, I was getting headaches from the loud speakers. So, I was about to ask them to turn the sound down. Then, one of my elder shared with me a story. In Sierra Leone, about 47% of the population is Muslim. Many Muslim people want to hear about the Bible and Jesus, but, even if they are interested, if they get caught going to church, their Muslim family and friends would not be happy. The loud speakers were for the people that wanted to listen but are too embarrassed to come to the meetings. Then, one night, an 18 year old, young Muslim lady came forward for the altar call to get baptized. Apparently, she had been listening to all the sermons since the first day from her house. That night, for the first time, she decided to come to the church for the meeting, and she came forward at the end of the sermon, to get baptized. God used different ways to reach people. For the 18 year old, young Muslim lady, God reached her through loud speakers.
          Through the experience, Jesus became more real to me. By preaching every night, I depended and trusted in Jesus more often than before. The enthusiasm and the passion of the local church members inspired me. My view of life changed a lot. Life here on earth is short and fragile compared to the eternal life promised by Jesus Christ. As Christians, we should focus more on the eternal life, and make decisions according to the eternal truths. If I have the opportunity, I will definitely like to go back to Sierra Leone and preach again. People there are so warm and receptive. I have never seen children so hungry for the Word of God. Many children came to me after every meeting to shake my hand and say thank you. Many children asked me to give them a Bible because they wanted to learn more about Jesus. Children are hungry for Jesus and his truth. I was very touched.  
            God taught so many things in this trip to Sierra Leone. Luke 10:2 says, “The harvest truly is great, but the laborers are few…” There are so many souls that are hungry for Jesus and his truth. The sad reality is that there are not enough workers. I am determined more than ever to surrender my life completely to Jesus, and share the gospel to all the worlds. Before the trip to Sierra Leone, I had a burden to spread the gospel to Asia, especially Japan. However, during the trip, I felt like God was telling me to have bigger goals and dreams. Now, I not only have a burden for Japan and Asia, but I have a deep burden for Africa and the rest of the countries in this world. Matthew 24:14 says, “And this gospel of the kingdom shall be preached in all the world; for a witness unto all nations, and then shall the end come.” Too many people are suffering in this world. I want Jesus Christ to come back as soon as possible and put an end to all sin and suffering forever. I am convinced more than ever of the urgency of Jesus and his truth. By faith, I am determined to do everything to share the gospel to all the words, so that Jesus will come in my generation, in our life time.
            Once again, thank you very much for your prayers and support. This mission trip to Sierra Leone have truly opened my eyes, and implanted in me a deep desire and determination to spread the gospel to all the worlds. This mission trip introduced me to a new chapter of my life: hopefully, one of the last chapters of my life here on earth, before Jesus comes back again in the clouds of glory with his everlasting kingdom.
            One last thing I learned in Africa that touched my heart. For Christians, there are no good-byes. I may not see my brothers and sisters in Sierra Leone here on Earth, but, I know I will see them again in Heaven. When I left Sierra Leone, I did not say good-bye to anybody there. I just said, “see you later…if not here on earth, we will definitely see each other in heaven with Jesus forever, never to be separated again.” Mission trip in Sierra Leone changed my life forever.
Thank you,
Your brother in Christ,
Daniel Fukuda
            

アフリカ


私の名前は福田ダニエルです。Southern Adventist Universityの神学科で昨年一年間勉強しました。将来は、牧師になりたいと思っています。また、教会建築と伝道にすごく興味を持っています。
わたしはこの夏、シエラレオネ、アフリカに三週間行きました。生徒14人(私も含めて)、先生1人、そしてShareHimの係りの人ひとりと行きました。ShareHimは、地元の教団と教会と一緒に伝道講演会を計画する団体です。ShareHimの目的は、アメリカや韓国、ヨーロッパの若者たちを、伝道が進んでいて教会が比較的のびている国、例えばアフリカや南アメリカへ送り、伝道への熱意、決心、力を自分の国へ持ち帰ってきて、教会のリバイバルの為に働き始めてくれるようにすることです。
私がアフリカで実際に何をしたかと言いますと、Evangelistic Series、伝道講演会で19回お説教をしました。ダニエル書と黙示録に描かれているメッセージを分かりやすくした伝道講演会でした。毎日1回、土曜日は2回お説教しました。また、学生も先生もそれぞれ一人ずつ別々のところでお説教をしたのですが、全15か所合わせて、なんと479人もの人がバプテスマを受けました。さらに、300人以上が近い将来にバプテスマを受けると決意しました。14人の学生が講演をしたと言いましたが、皆が神学科の生徒だったわけではなく、14人の内、たったの5人だけが神学科の生徒でした。他の学生たちは、看護学科、教育学科、心理学科、経済学科などを専攻していました。
私がシエラレオネへ行くと決めた理由は、毎日あわせて19回もお説教をするというのがとても面白そうで、楽しそうだったからです。また、以前から伝道講演会の説教者になりたいとも思っていました。シエラレオネの人たちはとても思いやりがあって、優しくて、心が温かくて、努力家でした。シエラレオネには外国人があまりいませんでしたので、私がアジア人ということだけでどこへ行っても人々から注目を受けました。私と握手やあいさつをするだけでとても喜んでくれて、まるで有名人になったような気分でした。アフリカの生活は、私の慣れているものとは違いました。例えば、でこぼこした道路、辛い食べ物、蒸し暑い温度、トイレの方法、頭の上を使って物を運ぶ習慣、握手などです。でも、一週間ぐらいしたらだいぶ慣れました。最後のほうは、文化や習慣の違いに対してなんとも思わなくなりました。逆にアメリカに帰ってきたら、前には気づかなかったような事に気づいてかなり不自然でした。
毎日、講演会が始まる一時間ぐらい前から、会場ではものすごく大きな音で音楽が流れていました。あまりに大きな音なので自分の声は聞こえませんし、隣の人とは叫ばないと会話ができない程でした。なぜこんなにスピーカーの音量が大きいのだろうかと思っていたら、教会の長老が短い話をしてくれました。シエラレオネでは、人口の47%がイスラム教徒だそうです。そしてイスラム教徒の中には、イエス様と聖書に興味を持っている人たちが少なからずいるそうです。しかし、たとえ興味を持ったとしても、堂々と教会へ行くところをイスラム教徒の家族や友達に見られてしまうと恥ずかしい思いをしたり、いろいろ問題が起きたりするので、そういう人はほとんど教会に来ないそうです。大音量のスピーカーは、お話を聞きたいけれども教会には来づらい人たちのためでした。伝道講演会では毎晩お説教の終わりに必ず、バプテスマを受けたい人、あるいは聖書をもっと勉強したい人に会場の前へきて、人々の前で神様への献身を宣言する場を与えていました。伝道講演会が始まってから一週間半くらい経ったある晩、18歳のイスラム教徒の女性がバプテスマを受けようと思い、お説教の終わりに前へ出て来て、神様への献身を決意しました。その女性は、この講演会に来たのはその晩がはじめてでしたが、実は、家から全てのお説教を聞いていたそうです。次の土曜日にその女性はバプテスマを受けました。アフリカにいる間、神様は色々な不思議な方法で人々をキリストへと導きましたが、この18歳の女性には大音量のスピーカーを通して、キリストへと導きました。
私はアフリカの経験を通して、もっとイエス様の事を知る事ができました。神様が自分にとってもっと本当に重要な存在となりました。毎晩一時間ぐらいのお説教をして、神様に完全に頼ると言う事を学びました。地元の人の神様に対しての熱意と努力に感動しました。私の人生は大きく変わりました。地球での人生は、天国での永遠の人生と比べたら短く、不安定なものだと言う事をしみじみ実感しました。すべてのクリスチャンは、もっと永遠の命とイエス様の事を日常生活の中で考えるべきだと思いました。また機会がありましたら、迷わずシエラレオネに行きたいと思います。シエラレオネの人々は本当に心が温かくて、真面目でした。あそこの子供たちほど、神様と真実に興味を持った子供は見た事が在りませんでした。沢山の地元の子供たちが、毎晩かならず講演会の後に握手をしに来てありがとうと言ってくれました。何人もの子供たちが、もっと神様の事を知りたいから聖書を下さいと頼みに来ました。神様と真実を真剣に求める子供たちを見て感動しました。
この経験を通して、神様は本当に色々な事を教えてくださいました。ルカ10章2節にこう書かれています。「収穫は多いが働き人は少ない。」世の中には、イエス様と真実を待ち望んでいる人たちが沢山います。イエス様の愛と真実の欲しさのあまり、彼らはお腹を空かせています。しかし悲しい事に、働き人が本当に少ないのです。私はいまだかつてないほどに、キリストの愛と真実を全世界に伝える決心をしています。アフリカに行く前は、イエス様の事をアジア、特に日本に伝えたいと思っていました。しかし、アフリカで伝道講演会をしている間に、神様が私に「もっと大きな目標と夢を持ちなさい」と言ったような気がしました。今の私の夢は、日本だけではなく、アジアだけではなく、アフリカだけではなく、この世代が生きているうちに全世界に福音が伝わるようにお祈りして、信仰によって全力を尽くして生きていくことです。み言葉と信仰によってイエス様が私たちの世代に帰ってきて、私たちの生きている間に、天国が現実になるようにと祈っています。
改めて、お祈りしてくださったり、サポートして下さったりした方々、本当にありがとうございました。シエラレオネでの経験は一生忘れない、かけがえのない経験です。神様の愛と真実を、全世界の人たちに全力を尽くして伝えていくと決心しました。
最後に、アフリカで学んだ事をもうひとつ。この罪深い世の中では、お別れやさようならを言うのが当たり前になっていますが、私はどんなにお別れをしても『さようなら』と言う言葉に慣れる事ができません。しかし、私はアフリカで改めて希望を実感する事ができました。イエス・キリストを信じていれば、『さようなら』と言う言葉を使う必要がないのです。クリスチャンには、永久に離れる心配がないからです。私はシエラレオネで沢山の友達を作りました。でも、私は『さようなら』とは言いませんでした。なぜなら、たとえこの世界で彼らに再び会わないとしても、我々には再開する希望があるからです。たとえこの世界で会わないとしても…近い将来、イエス様が帰って来る時に、皆再会できるからです。そして天国では二度と、引き離される心配はないのです。天国では、イエス・キリストと共に愛と真実、喜びに満ちあふれた人生を永久に歩む事ができるのです。私は、イエスキリストこそが私愛と真実と希望であることを心から実感しました。アフリカでの経験は、私の人生、私の永遠の人生を変えました。
本当にありがとうございました。

福田ダニエル 

編集:品末拓真

2012年9月8日土曜日

ドウェイン・レモンの証 3


audioverse.orghttps://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。


その頃のわたしは高校生でしたが、ダンサーでもありました。当時は1980年代後半で、まだギャングがおり、ニューヨークのブルックリンにはディセプティカンズというギャングがいました。ディセプティカンズは極悪で、実際に多くの法を犯していました。
 わたしの高校では、皆がわたしのことを知っていました。ダンスをしていたことから有名になったのです。ある日タレントショーというイベントがあり、わたしは仲間と踊っていました。すると、ステージに他のグループが上がってきて踊り始めました。ダンスバトルを仕掛けてきたのです。どっちのグループが優れているか、競い合いがはじまりました。相手のグループが一通り踊った後、わたしたちがまたステージにあがりました。ところが、わたしのグループの中でダンスバトルがはじまったことを分かっていない人がいました。その人はわたしのところに来て「なんで楽しもうとしているだけなのに、喧嘩を仕掛けようとしているんだ?」と言いました。わたしは喧嘩しようとしていたわけではありません。ただ、ダンスで競い合おうとしていただけでした。しかし、わたしがその仲間に「喧嘩をしようとしているのではない」と説明する前に、殴り合いの喧嘩がはじまりました。わたしたちの高校に来たゲストグループと喧嘩になってしまったのです。わたしは「よし、家に帰る時間だ。」と言い、その場を去りました。
 そのあと散歩をしていると、学校の前にたくさんのパトカーが止まっているのを見ました。「パトカーなんてどうしたんだろう?救急車まで来ている!」と思い、学校の中に入ると、生徒たちが泣いていました。「何が起こっているんだ??」と思っていると、友達が、「ドウェイン!ここで何をしているんだ?早く逃げろ!」と言いました。何故か聞くと、彼は「警察は、お前を逮捕するために来たんだ」と言いました。「何もしていないのに?」と聞くと、「お前がこの大騒ぎを始めたからだ。」と友達は言い、さらに、「彼らはディセプティカンズだった」と言いました。
わたしは高校を退学になり、父親は「もしギャングがきたら、撃たれる前に撃て」とわたしに銃をわたしました。これが、父親のできるベストな指示でした。わたしは家の中で銃をもって震えながら、もしだれか来たらこの銃を使うのだということを想像していました。しかし、神様の恵みにより、また神様の恵みのみにより、わたしの友達がディセプティカンズに電話をかけ「ドウェインはこの騒ぎをはじめなかった、だれか違う人がやったんだ」と伝えてくれました。そして、この騒ぎは終わりました。神様に感謝です。しかし、わたしは高校を退学したままでした。そこでわたしは、高校にもどらずにダンスの道を進むことにしました。卒業証明書はありませんでした。ダンスだけが、今のわたしの持っている全てだと思っていました。

続く

訳:森春香
編集:品末拓真

2012年9月1日土曜日

ドウェイン・レモンの証2


ドウェイン・レモンの証2

audioverse.org https://www.audioverse.org/english/sermons/recordings/1737/testimony-of-dwayne-lemon.htmlを訳しました。


時が経ち、両親に再び「ドウェイン、お前にはダンスの才能がある!」と言われ、わたしは「ありがとう。」と言いました。10代になり、わたしは今までよりも少し自由が与えられました。15歳になったとき、両親はわたしがパーティーに行く許可を出しました。それから、私は友達を集めてしょっちゅうパーティーに行くようになりました。まずパーティー会場で何をするかというと、友達の一人が前にいるもう一人の友達の両脇を後ろから抱えます。そして、その友達を抱えながら友達ごと振り回すように回転し始めます。それはその場にいる人たちをどけるためです。回転している二人をよけるために周りの人は後ろにさがり、そこにダンスステージができあがるわけです。そこで、わたしも友達と踊り始めました。みんなが一通り踊った後も、わたしは踊っていました。踊って嫌なことを忘れ、自分の世界に没頭するためでした。また、わたしは歓声が大好きでした。周囲は拍手をしたり、「お前ら最高だ!」と言ってくれました。わたしとわたしの友達は色々な名前で呼ばれていましたが、定着したグループ名はQuiet Stormでした。静かにやって来るけれども、嵐のように激しく当たるという意味です。わたしたちはパーティー会場に入ったら、うわべだけとても謙遜に、静かにして、状況を把握しました。パーティー会場にいるどのダンサーにも勝てるということは分かっていましたが、平静を装っていました。後ろのほうで「あいつには勝てる。あいつは放っておこう。」などと考えた後、ダンスバトルが始まりました。相手のグループが踊り、自分たちが踊り、また相手が踊るということを繰り返し、トロフィーや賞品を勝ち取るために、しかしほとんどはただ楽しみのために、ダンスバトルを繰り広げていました。
ある日、友達が「ドウェイン、お前プロで踊る気はあるか?」と聞いてきました。わたしは「どういう意味?」と聞き返しました。友達は「ダンスで金儲けをする気はあるか?」と言いました。わたしは今までただで踊っていたので、ダンスでお金が稼げるなら、それはボーナスみたいなものだ、ケーキのスポンジにのっている生クリームみたいなものだと思いました。友達は「マンハッタンでオーディションがあるのだけど、そこでダンスをしてほしい」と言いました。当時、サードベースというグループがありましたが、そのマネージャーのダン・ヌー・カークはR&B歌手で、彼はプロモーションビデオのためのダンサーを探していました。曲名はSmall thingでした。それは本当にSmall thing(小さなこと)でした。なぜなら、誰も聞いたことがないような無名の曲だったからです。カメラを向けられたわたしは25ドルのために踊りました。わたしは25ドルのためにすごく金持ちになった気分で幸せでした。なんて素晴らしい仕事なのだと思い、25ドルを持って帰り、友達にテレビで自分のことを観たかと聞きましたが、だれも観ていませんでした。でも、テレビに映るようなダンスをしたということが嬉しくて喜んでいました。

続く

訳:森春香
編集:品末拓真