わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命をえることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。
わたしが「御心のままになりますように」とお祈りするときでもどこかで自分が望んでるように物事が進むように神様が助けてくれたらいいなぁなどとどこかで思っています。しかし、神様の御心は地球上の全ての人を天国に連れて行くことです。それが神様の最大のプランでわたしたちはそのプランを実行するために遣わされるのです。自分の目の前にあることが上手くいっていなくても、神様の御心はこの地球上でのわたしたちの快楽や安心を与えることではなくて、みんなを天国に連れて行ってそこで一緒に過ごすこと。それを忘れないでいたいです。
2013年7月24日水曜日
2013年7月23日火曜日
ペトロの手紙二 3:8-9
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなくて、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
2013年7月22日月曜日
ペトロの手紙二 3:3ー7
まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来ると言う約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によってとっておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。
2013年7月21日日曜日
マタイによる福音書18:21,22
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
2013年7月19日金曜日
マタイによる福音書4:1-4
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある。」
2013年7月18日木曜日
マタイによる福音書1:21-23
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
2013年7月16日火曜日
終末の徴
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシア』だと言って、多くの人を惑わすだろう。
マタイによる福音書24:3-5
マタイによる福音書24:3-5
2013年7月14日日曜日
心の穴
あなたの心には穴が開いていますか?それを今までどうやって埋めてきましたか?わたしにも心の穴があります。例えばわたしがピアノで一生懸命になっていたときにコンチェルトコンペティションに応募したけど落ちたときに空いた穴、英語が上手くしゃべれなくて払いのけられたときに空いた穴、なんだか勉強に気をとられすぎて気づいたらバランスがとれていない生活をしていたとき孤独感のなか空いた穴、高校のジムナスティックのチームに挑戦したけど一年目は補欠で全く相手にしてもらえなかったときに空いた穴、何をしたいかよく分からないけどはやく進路を決めなければというプレッシャーの中で空いた穴、テスト前に人の3倍ぐらい時間をかけて勉強したのに人の半分ぐらいの点数しかとれなかったときに空いた穴。留学していて「あぁ~ただ家族と集まって夜ご飯を食べられたらな」と家が恋しくなって空いた穴。引っ越しや新しい環境、将来が不安定に見えるとき、『自分なんてどうせ…』と自分がちっぽけに見えるとき、本当は寂しいけどうまく表現できなくて空回りしたり、一人で悩んだり、人間関係上手くいかなかったり、大切な人を失ったり、自分の思い描いていたことと違うことがおきてしまったとき、わたしたちの心には大きな穴が開いていくのではないでしょうか?つまりこころは傷ついているのでしょう。
わたしたちはその穴を埋めようと必死で周りにあるものを手当たり次第試す傾向があると思います。それは食べ物かもしれません、お酒かもしれません、運動かもしれません。流行りの服やバッグ、靴、お化粧品などかもしれません。かっこいい車やバイクかもしれません。もしくは噂話や自慢話、人の悪口、かっこつけてふくらませたでまかせの話かもしれません。もしくは教会に来るような人でしたら善い人に見られようと必死でいい人ぶったり、信仰深い人と思われたい、そうでありたいと必死で偽善者のように見てもらおうとやたら長いお祈りをしたり、奉仕活動をしてみたり。好かれようとお世辞を言ったり愛想笑いをしたり。どんなものであれ、なにか自分に安心感を与えてくれるものを日々わたしたちは求めるでしょう。しかし、そういうものはわたしたちを満たすことが果たしてできるのでしょうか?
私の場合は一日中たくさん予定を作って忙しくすることで自分を満たそうとしたり、食べてストレスを解消しようとしたりする傾向があります。そんな中でわたしが経験したことを今回は書きたいと思います。
わたしはサザンアドベンチスト大学に行っていたとき1年目本当に勉強ばかりしていました。12-16単位分のクラスを同じ学費でとれるのですが、とれるだけクラスをとらないと損という考え方もありましたが、わたしの場合はやたら焦っていたので3年目以外は毎学期16単位とっていました。そして音楽部でバイトもしていたのでなんだかめまぐるしい生活を送っていました。高校と比べて大学は勉強する量がかなり多くて最初は時間の管理が上手くできずに友達と過ごす時間もかなり減らしていました。気づいたら孤独感に襲われて、自分は何に追われてこんなに勉強しているのだろうと思いました。勉強を楽しんでしていないし、テストで上手くやらなくてはというプレッシャーばかりに気を取られて勉強しなくてはと寸暇を惜しんで教科書を開いて情報を詰め込もうとして、目の前にいる友達の話を聞いていなかったとそういうことをしていました。形だけの挨拶「あっ元気?わたしも元気だよ」といかにも大丈夫ですというような雰囲気をだして短く会話を済ませようとしていました。勉強すること、そしてクラスでいい成績をとることがわたしの最大の目的でした。とてもつらかったですし楽しくありませんでした。そんななかでわたしの心には大きな穴があいていましたが、何しろ勉強第一の生活でしたから、それをさらに勉強することで埋めようとし、自分の心にかまっている時間はないと忙しく駆け回っていました。わたしはノースカロライナ州の小さい高校から行ったので3000人以上も生徒がいるサザンアドベンチスト大学では私にとって人がたくさんいて、しかも知らない人ばっかりでどうすればいいか分からないという状況で、自分の居場所を探すのにも時間がかかりました。そんななかでわたしが手をだしたのはチョコレートです。昔からチョコは好きでしたが、サザンではなにか嫌な気分になったとき、落ち込んだときなどにまるで中毒のようにチョコを大量に食べていました。チョコは一瞬だけなにか安心感を与えてくれたからです。口に入れたときに広がるチョコの甘さは食べているときだけ嫌なことを忘れさせてくれる、そういうものでした。しかし、食べ終わると現実に戻ってきてしまうからまた食べる。そんなことを繰り返して気持ち悪くなるほどチョコを一度に食べてしまってお腹が痛くなって後悔する、そんなことを続けていました。あぁこのままじゃ体によくない、としばらくやめてもまた食べてしまう、そんな生活に疲れていました。どこかで「チョコは本当には自分の心を満たしてくれない」と知っていました。でもとても手軽に手に入るのでついチョコに平安を求めるというか、変な響きですけれどもそういう生活をしていました。
サザン3年目にまだチョコに頼っていたとき、ある日わたしはカート君という友達と話していたら、カート君は「今から神学部のセミナーに行くんだー」と言っていたのであとで「どんな話だった?」と聞くと「どうやって中毒に打ち勝つかっていうテーマだったよ。」と言いました。「聞いた中で何が一番印象的だった?」と聞くと彼は「たんぽぽは花だけ摘んでも根っこが残っていればまた花は咲く。中毒も症状だけ直そうとしても本当の問題と向き合ってそこを神様に直してもらわないと治らないんだよ。」と言ったのです。そしてさらにカート君は、「たとえば君がチョコレート中毒だったら持っているチョコをすべて捨てるだけじゃ解決されないのだよ」と付け足したのです。わたしはびっくりしました!なぜならそのころ、わたしは持っていたチョコを一緒にアパートに住んでいた人たちに「チョコやめようと思うから食べたければどうぞ」と上げていたからです。そしてカート君には別にチョコが好きだとかそういう話は一切したことがなかったからです。それなのに「どうしてそんなことをこのタイミングで言ったの?」とびっくりしてしまいました。そこで「チョコは自分を満たしてくれない。自分の問題を解決してくれないのにどうして繰り返しそこに戻っていくのか」というわたしのやっていた問題を神様はカート君を通してわたしに明確に示されたのです。そのことが実感できました。
エレミヤ書2章11-13節にはこう書いてあります。
「一体、どこの国が神々を取り替えたことがあろうか しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を助けにならないものと取り替えた。天よ、驚け、このことを大いに、震えおののけ、と主は言われる。まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを。」
まず聖句の前半に注目してみましょう。一体だれが本当の神様とまったく助けにならないものと取り替えますか?たとえばみなさんお店で何かを買ってそれが役に立たなかったらもっと良いものを求めてお店に取り替えてもらうでしょう。しかし、だれも「この素晴らしくよくむける皮むき器をまったく切れないさびさびの鈍った刃の皮むき器と交換してください」とは言わないでしょう。なぜならすでに自分が持っている皮むき器がよく切れると実際にジャガイモの皮をむいてみて実感し、その価値がよく分かっているからです。あなたは神様がすべての栄光を受けるべきかたであると信じますか?今も神様は生きておられ、神様があなたのことを目的を持って造られ、今日も何か神様の大きな計画の一部となるためにあなたを生かしておられることを信じますか?そのことを毎日経験していますか?神様をほめたたえますか?神様をあなたの心の中に受け入れますか?
次に13節の「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜を。」というところに注目してみましょう。ここには水溜めを「掘った」と書いてあります。掘ったということはきっと前にはなかったのでしょう。神様と一緒にいるとき、神様は生ける水の源ですから、わたしたちの中にはいつも水が流れていて、しかもあふれ出ていたはずです。神様と一緒にいるとき、聖霊にわたしたちの心は満たされて、そしてわたしたちにとどまらずあふれでていたはずです。水の源から離れたときに初めて水溜めというものが必要になってくるのでしょう。神様はいつもわたしたちと一緒にいたいのです。この水溜めというのは今の時代で近いものといえば冷蔵庫かもしれません。わたしたちはお店に毎日行かなくてもいいようにお買いものに行って、野菜や果物を買って冷蔵庫に入れておきます。しかし、神様はわたしたちといつも一緒にいたいのです。神様は『わたしは完璧な水溜をあげよう。しばらくわたしから離れても全く問題がないようにあなたのこわれた水溜めを直してあげよう』とは言っておられないです。本当の問題は水溜が壊れていることではなくて水溜めを掘ったことだと思います。神様から離れてもちょっとの間はほかのもので満たしておけるような水溜めを掘ってためておこう…神様に直接行かなくてもチョコレートで一瞬幸せになれるように水溜を掘っておこう…この壊れた水溜めがどうして満たしてくれないのだろう、今度はもうちょっと違うどろっとしたものを壊れた水溜めにいれれば長持ちするだろうか…そういうことを考えるのではなくて、満たされていない心の穴をどうやったら満たせるかということに意識を向けるのではなくて、神様を見ましょう。神様といることを求めましょう。
エレミヤ書3:22には「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」と書かれています。
神様から離れて他のものに頼っていることに気づいたのなら、そこで神様を見ましょう。今までそういう生活をしてきたのにいきなり無理だと思いますか?エゼキエル書には「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」と約束されています。神様は必ず助けてくださいます。神様と一緒にいることを毎日選び続けるのです。誘惑にあったとき、そこで誘惑に負けずに神様を求める強さをお祈りして神様に求めましょう。
そしてこの水溜めのことは他人との関係にも言えると思います。あなたは「あら、あなたの壊れた水溜めにはなんだか汚い不健康なものが入っているのね、わたしの壊れた水溜めにはおいしい六甲山の水がはいっているのよ」といばることはできないと思います。他人と比べて自分は壊れた水溜めを掘ったけれど、いいものが入っているからあの人よりはましといばることはできません。例えば、あの人はお酒を飲むけどわたしは水を飲んでいるわ、だからいい人だわとは言えません。壊れた水溜めを見て、もしくはその中身をみて満足してはいけません。あなたがどんなに苦労していいものを壊れた水溜めにためているかというのは大切ではないのです。大切なのは、神様が生ける水の源であるということです。
みんなで神様と一緒にいることを求めましょう。お互いけなしあうのではなくて、神様と一緒にいるように励まし合おう。聖霊を求めて心の中にいてくれるようにお願いしましょう。
イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネによる福音書4:13、14
著者:森春香
2013年7月14日
2013年7月12日金曜日
ヨハネによる福音書4章13-14節
イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでも渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
2013年7月11日木曜日
2013年7月10日水曜日
2013年7月7日日曜日
優先順位
「 何よりもまず、神の国と神の義をまず求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
マタイによる福音書6:33
わたしは今カリフォルニア州のローマリンダ大学院で理学療法士の勉強を今年6月から始めました。始めの7週間は解剖学で今は3週目が終わったところです。朝8時から午後5時まで昼休み1時間をはさんでの授業が月曜から水曜、木曜日は朝8時から3時まで、金曜日は試験が朝8時から12時までというスケジュールです。土日はお休みでまた同じことを月曜日から繰り返すという生活をしています。なかなかハードなスケジュールですがとてもやる気のあるクラスメートに囲まれて楽しく勉強しています。学校が始まる前日にオリエンテーションで理学療法部の教授たちが新入生を迎えてくれました。そんな中で一人の先生がこう言いました。「大学院にくると勉強は大学よりももっと大変になります。そんななかで皆さんは勉強のことで頭がいっぱい、時間も足りないという状況に陥るでしょう。しかしそこで大切なものまで削りだして勉強だけに没頭してしまう人がいます。家族との時間を捨て、神様との時間を捨て、気分転換する時間を捨て、友達と話す時間を捨て。。。そうしてしまうと偏った人間になってしまいます。そんなに色々やっている時間はないように見えても、ちょっとずつ神様と過ごす時間、家族と過ごす時間、友達と過ごす時間などを作ることは可能ですしバランスのとれた生活をするためにはそうする必要があると思います。」と。
わたしは自分で実際にこの人の言っていることは本当だと実感させられる出来事を体験していました。ですから今は大学院でも楽しく勉強させてもらっています。その経験はサザンアドベンチスト大学1年目2学期のときにしたものです。わたしはその学期はとれるだけの単位分のクラスをとってバイトの量も先学期より増やしてとても忙しく生活していました。そんななかでわたしと友達4~5人で水曜日の朝の祈祷会にたまに参加していました。完全に寝過ごしてしまう時もあれば勉強しないといけない、と行かないこともありましたがよく友達がしつこく誘ってくれたおかげで度々そこへ行っていました。またその週も水曜日がやってきて朝5時半ごろに「祈祷会行く?」と友達が携帯にメールを送ってきました。その祈祷会は朝6時から7時なのですが、わたしはその日は数学の微分積分のテストの日だったので朝起きて勉強しようと思っていました。そこで「あ~今日はまだテスト勉強をもうちょっとしたい、でも最近神様との時間を持っても勉強のことが気になってすぐに終わらせようとして集中できなかったりしてるなぁ。。。」としばらく葛藤していたのですが、結局その日は祈祷会に行くことにしました。『神様、わたしは今日勉強するよりも、あなたとの時間をつくりたいと思います。』と。そう思ったのは本当でしたが、正直その日は祈祷会に行ってなんだか後悔していました。『1時間も本当は勉強できたのになぁ』と思いました。7時に集会は終わって朝ごはんを食べて授業へ行って、昼ごはんを食べて1時から微分積分のテストでした。50分間のテストが始まって問題を解いていったのですが、どうしても解けない問題が3問もありました。とりあえずやってみて答えが合わないとかそういうのではなく、もはやまず何をすればいいか分からないという状況にあったのが3問もありました。そのテストは全部で7問ぐらいしかなく、1問ずつがとても点数の高い大きな問題で、3問も解けなかったら大変なことになるのはよく分かっていました。それで「あ~今朝勉強さえしていればなぁ。」などと思いながらああでもないこうでもないと粘ること45分、残りあと5分しかありません。これはもう無理だとほぼ諦めていたところいきなり先生が何か言い始めました。「みんな、よく聞いてくれ、僕が見ている限りみんなとても苦労している。僕はこのテスト範囲を良く復習する時間を持たなかったと思うから今日のテストはとりあえず回収するけど、もう一度テストを作り直すからあさっての授業の時間にこのテストを受けなおしたい人は来てください。そのテストと今回のテストの点数を比べて良い方を記録に残します。」と。びっくりしました!この先生は今までそんなことをしたことがありませんでした。同じ先生から3年目にも違う数学の授業を受けましたがそういうことは一切起きませんでした。その日、神様はわたしに個人的に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて加えて与えられる。」と語りかえてくださっているように思えました。
そんな経験から始まり、その後も数々の似たような経験を通して神様はわたしが神様をまず求めるときほかのことは心配しなくてもどうにかしてくださるということを不思議な方法で証明し続けておられます。わたしの勉強量、努力に対して全くふさわしくないほど良い成績を与えてくださってサザンを卒業し今は大学院にいます。しかし、わたしは神様を求めればそういった祝福を与えてくださるからと言った理由で神様を求め続けるということはしたくありません。わたしは学校のテストで良い点数をとれなくても、神様と歩みたいです。なぜなら、もし学校でいい成績がとれてこの世で成功しても神様と離れてしまっていては意味がないと思うからです。神様に行くべき道を示してもらえばそれが遠回りに見えようが、周りにどう思われようが、どんなにこの世で偉くて権力のある人が「それは時間の無駄だ」などと言ってきても、神様の備えられた道はベストな道で天国へ続く道だからです。わたしは目の前にあることにわたしのできる最大の努力を注ぎますが、神様はわたしにまったく違う道を備えてくださっていることだってありえるのです。だから毎日神様に聖霊を注いで心の目を開かせてあなたの道を教えてください、その道を歩ませてくださいとお祈りしていきたいです。神様を求めて日々聖書を勉強し、賛美し、お祈りして神様と歩んでください。それがこの世での最高の生き方だと思います。
2013年7月7日
森春香
2013年7月6日土曜日
輝き出よ
僕も西野君と同じ場所で文書伝道をしており、その中で経験したことを書きます。
あの時ぼくは、坊主でいかつく、刺青だらけのごつい上半身に何も着ていないおじさんに会いました。その人に、「この本はああでこうで…」と説明すると、「No, No.」といって相手にしてくれません。聞けば、彼はクリスチャンで、しかもお金もあるそうなのですが、「興味がないから」と一点張りです。僕もかなりしつこく食い下がったのですが、もう駄目だと思い結局その場を去りました。その周辺の家を全てまわり、次の場所へと移動するために車に乗り込むと、さっきのおじさんがこっちへ来いと手招きしているのが見えました。「何だろう?」と思いながら走り寄って、「どうしたのですか?」と尋ねると、彼は、「主にNoと言ってしまったような気がした。」と言いました。それから僕にお金を渡し、「キリストへの道」を手に取って家に戻って行きました。
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」コリントの信徒への手紙 二 4:6-7
土の器に過ぎない僕を通して、神様は光り輝いてくださいました。それを見たおじさんは、僕に対してではなく、神様に対してNoと言ってしまったのだと悟ったのです。
神様が僕たちの内におられる時、人々はそれを見ます。この世に属する人々にはない光を見るのです。今、あなたの内にその光は宿っていますか?
あの時ぼくは、坊主でいかつく、刺青だらけのごつい上半身に何も着ていないおじさんに会いました。その人に、「この本はああでこうで…」と説明すると、「No, No.」といって相手にしてくれません。聞けば、彼はクリスチャンで、しかもお金もあるそうなのですが、「興味がないから」と一点張りです。僕もかなりしつこく食い下がったのですが、もう駄目だと思い結局その場を去りました。その周辺の家を全てまわり、次の場所へと移動するために車に乗り込むと、さっきのおじさんがこっちへ来いと手招きしているのが見えました。「何だろう?」と思いながら走り寄って、「どうしたのですか?」と尋ねると、彼は、「主にNoと言ってしまったような気がした。」と言いました。それから僕にお金を渡し、「キリストへの道」を手に取って家に戻って行きました。
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」コリントの信徒への手紙 二 4:6-7
土の器に過ぎない僕を通して、神様は光り輝いてくださいました。それを見たおじさんは、僕に対してではなく、神様に対してNoと言ってしまったのだと悟ったのです。
神様が僕たちの内におられる時、人々はそれを見ます。この世に属する人々にはない光を見るのです。今、あなたの内にその光は宿っていますか?
品末拓真
2013年7月5日金曜日
両手いっぱいの愛
https://soundcloud.com/mko-6/gu7aeh29ngoe
ある日イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を愛してるの?
これくらいかな?これくらいかな?
イエス様は黙って微笑んでる
どれくらい僕を愛してるの?
これくらいかな?これくらいかな?
イエス様は黙って微笑んでる
もう一度イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を愛してるの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は優しく微笑んでる
どれくらい僕を愛してるの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は優しく微笑んでる
ある日イエス様は答えてくれた
静かに両手を広げて
その手のひらに 釘を打たれて
十字架にかかって下さった
静かに両手を広げて
その手のひらに 釘を打たれて
十字架にかかって下さった
それは 僕の罪のため
ごめんね ありがとうイエス様
それは 僕の 罪の ため
ごめんね ありがとうイエス様
ごめんね ありがとうイエス様
ごめんね ありがとうイエス様
それは 僕の 罪の ため
ごめんね ありがとうイエス様
ごめんね ありがとうイエス様
Blessings
Blessings by Laura Story
Laura Storyさんによる歌 Blessings (祝福)を訳したものです。
わたしたちは祝福を祈る。
平和、家族の安泰、また眠っている間も守られるようにと祈る。
癒されるように、繁栄するように、またあなたの力強い手がわたしたちの困難を和らげてくれるようにと祈る。そのすべての祈りの間、あなたはわたしたちの主張を聞いておられる。しかし、ただ最高ではないものをわたしたちに与えるにはあなたの愛は大きすぎる。
なぜなら、
もしあなたの祝福が雨粒を通してくるとしたら、
もしあなたの癒しが涙を通してくるのなら、
もし千夜もの眠れない夜はあなたが近くにいるということを知るために必要だとしたら、もしこの人生での困難は形を変えられたあなたの祝福だとしたらどうだろう。
わたしたちは知恵を求めて祈る、あなたの声を聴くために
あなたが近くに感じられないとき、わたしたちは怒りの中で泣き
わたしたちはあなたの良さや愛を疑う、まるであなたの御言葉の一つ一つの約束では十分ではないかのように
そのすべての間、あなたはわたしたちの切実な願いを聴かれ、わたしたちが信じる信仰をもつことを強く願っている。
なぜなら、
もしあなたの祝福が雨粒を通してくるとしたら、
もしあなたの癒しが涙をとおしてくるのなら、
もし千夜もの眠れない夜はあなたが近くにいるということを知るために必要だとしたら、もしこの人生での困難は形を変えられたあなたの祝福だとしたらどうだろう。
友達から裏切られるとき、
暗闇が勝利を得たように見えるとき、
わたしたちは知っている
この痛みは心に思い出させている
ここはわたしたちの家ではないということを
ここはわたしたちの家ではない
なぜなら、
もしあなたの祝福が雨粒を通してくるとしたら、
もしあなたの癒しが涙をとおしてくるのなら、
もし千夜もの眠れない夜はあなたが近くにいるということを知るために必要だとしたら、もしこの人生での困難は形を変えられたあなたの祝福だとしたらどうだろう。
もしこの人生一番でのわたしの落胆や痛々しい出来事が
この世が満たすことができない渇きを明らかにしているとしたら、
もしこの人生での困難が、雨が、嵐が、困難な夜が、
形を変えられたあなたの祝福だとしたらどうだろう。
文書伝道での経験
僕は今カリフォルニアでYouth Rushという青年のための文書伝道のプログラムに参加しています。たくさんの人々にイェス様についての本を紹介し、共に祈り、神様の愛を伝える事は、僕を精神的にも信仰的にも成長させています。今回は、今までの4週間で一番印象に残っている経験をお話したいと思います。
その時も僕はいつものように扉を叩いていました。扉を叩きながら僕は、「神様、どうか自分を用いてください。」と祈りました。すると、悲しい顔をした50代後半くらいの女性が家から出てきました。僕が本を紹介しようとすると、彼女は静かにこう言いました。「昨日主人が亡くなったから、あなたを助けることはできないわ。」突然のことで、僕は何と声をかけてあげればいいのかわかりませんでした。でも気づいたら、僕は無意識の内にこう言っていました。「あなたのためにお祈りしてもいいですか?」そのとき僕は心のなかで「あれ、今なんて言った?」と自分に問いかけたのを覚えています。彼女は驚いた表情でしたが、「お願いします。」と言いました。
彼女の右手を握ってお祈りした後、彼女は僕にこう言いました。「素晴らしいお祈りをありがとう。主人がいなくなってとても寂しかったけど、あなたがお祈りしてくれたおかげで、私にはまだイエス様がいるということが分かったわ。ところでそれは何の本?見せてくれる?」僕は彼女に"Peace above the Storm"という本を差し出しました。その本を見た瞬間、彼女は家の中から20ドル持ってきました。本は一冊10ドルなので、僕は"Lessons of Love"という本も彼女に渡しました。彼女は本を抱えながら、とても嬉しそうにしていました。そして「来てくれて本当にありがとう。感謝しています。」という言葉を残し、家の中に戻っていきました。
大切な人を失って落ち込んでいた人が、たったの2分で幸せそうに微笑むなんて無理だと思っていました。主人を失った女性を慰めたのは自分ではありません。イェス様が自分を通してあの女性を慰め、勇気づけ、そして天国という希望を与えたのです。この経験から、僕はこの聖句を掲げます。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピの信徒への手紙2:13。
神様はこんな自分を用いられるだろうかと、疑問に思う人もいるかもしれません。僕もそうでした。でも、神様は僕達一人一人を色々な方法で用いたいと望んでおられます。全力を尽して神様の愛、救いの希望を人々に伝える時、神様は御心のままに僕たちを用いてくださいます。一人でも多くの人が神様に用いられるようお祈りしています。
西野貴基
その時も僕はいつものように扉を叩いていました。扉を叩きながら僕は、「神様、どうか自分を用いてください。」と祈りました。すると、悲しい顔をした50代後半くらいの女性が家から出てきました。僕が本を紹介しようとすると、彼女は静かにこう言いました。「昨日主人が亡くなったから、あなたを助けることはできないわ。」突然のことで、僕は何と声をかけてあげればいいのかわかりませんでした。でも気づいたら、僕は無意識の内にこう言っていました。「あなたのためにお祈りしてもいいですか?」そのとき僕は心のなかで「あれ、今なんて言った?」と自分に問いかけたのを覚えています。彼女は驚いた表情でしたが、「お願いします。」と言いました。
彼女の右手を握ってお祈りした後、彼女は僕にこう言いました。「素晴らしいお祈りをありがとう。主人がいなくなってとても寂しかったけど、あなたがお祈りしてくれたおかげで、私にはまだイエス様がいるということが分かったわ。ところでそれは何の本?見せてくれる?」僕は彼女に"Peace above the Storm"という本を差し出しました。その本を見た瞬間、彼女は家の中から20ドル持ってきました。本は一冊10ドルなので、僕は"Lessons of Love"という本も彼女に渡しました。彼女は本を抱えながら、とても嬉しそうにしていました。そして「来てくれて本当にありがとう。感謝しています。」という言葉を残し、家の中に戻っていきました。
大切な人を失って落ち込んでいた人が、たったの2分で幸せそうに微笑むなんて無理だと思っていました。主人を失った女性を慰めたのは自分ではありません。イェス様が自分を通してあの女性を慰め、勇気づけ、そして天国という希望を与えたのです。この経験から、僕はこの聖句を掲げます。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピの信徒への手紙2:13。
神様はこんな自分を用いられるだろうかと、疑問に思う人もいるかもしれません。僕もそうでした。でも、神様は僕達一人一人を色々な方法で用いたいと望んでおられます。全力を尽して神様の愛、救いの希望を人々に伝える時、神様は御心のままに僕たちを用いてくださいます。一人でも多くの人が神様に用いられるようお祈りしています。
西野貴基
ヨハネの黙示録3:7、8
フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。
『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
2013年7月4日木曜日
イザヤ26:12
主よ、平和をわたしたちにお授けください。
わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです。
わたしたちの神なる主よ あなた以外の支配者が我らを支配しています。
しかしわたしたちはあなたの御名だけを唱えます。
わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです。
わたしたちの神なる主よ あなた以外の支配者が我らを支配しています。
しかしわたしたちはあなたの御名だけを唱えます。
2013年7月3日水曜日
2013年7月1日月曜日
主はわたしの光
主はわたしの光、わたしの救い
わたしは誰を恐れよう。
主は私の命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。
さいなむものが迫り
わたしの肉を食い尽くそうとするが
わたしを苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れるであろう。
彼らがわたしに対して陣を敷いても
わたしの心は恐れない。
わたしに向かって戦いを挑んで来ても
わたしには確信がある。
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。
詩編27:1-4
わたしは誰を恐れよう。
主は私の命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。
さいなむものが迫り
わたしの肉を食い尽くそうとするが
わたしを苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れるであろう。
彼らがわたしに対して陣を敷いても
わたしの心は恐れない。
わたしに向かって戦いを挑んで来ても
わたしには確信がある。
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。
詩編27:1-4
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