2012年3月30日金曜日

サタンに勝つ Part 2


「あなたの御言葉は、わたしの道の光。私の歩みを照らす灯。」詩編119:105

前回は「自分達だけではサタンの誘惑には勝てないが、神様によって罪を克服し、神様と共にサタンに反抗すれば、サタンは逃げていく」という答えを見つけました。今回は更に詳しく、どうやって神様と共にサタンに打ち勝つかという事をお話していきます。

サタンにどうやって戦うかを学ぶときはマタイ4章1〜11節を読む事をお勧めします。ここではイェス様がサタンに誘惑を受ける場面が記されていて、クリスチャンの方なら何回も読んだ事があるはずです。イェス様はヨルダン川でバプテスマを受けた後、サタンから誘惑を受けるために荒野で40日間断食をしました。
普通に考えると40日間断食するのは不可能です。これは神様による力と助けによって長い期間断食する事が出来た、と聖書の授業で学びました。さて40日間断食した後、イェス様は空腹を覚えられました。身体的に限界に達し、精神が一番弱いときです。するとその機会を待っていたかのように、サタンが登場し、イェス様が地球でするべき事、つまりわたしたちの罪の身代わりなる事、を止める為に誘惑します。しかしイェス様はそんな状況のなかでも3つの誘惑を克服し、サタンに勝利します。

ここでサタンの3つの誘惑とそれらに対するイェス様の3つの応答を分かりやすくまとめてみました。

. 食欲の誘惑
「神の子ならこれらの石をパンになるよう命じたらどうだ。」
               ↓
「『人はパンで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』」

神殿の屋根の端での誘惑
「神の子なら飛び降りてみたらどうだ。『神があなたのために天使達に命じると、あなたの足が石に打ち当たることの無いように、天使たちは足であなたを支える。』            
               ↓
「『あなたの神である主を試してはならない。』と書いてある。」
. 非常に高い山で世の全てと反映ぶりを見せてからの誘惑
「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんなに与えよう。」
               ↓
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』と書いてある。」


こう見てみるとイェス様は本当に強いと感心します。彼だったからこのような言葉によってサタンを打ち負かすことが出来た、と考えることもできます。
しかし、もう一度良く見てください。イェス様のそれぞれ応答の最後に「に書いてある。」というフレーズがあります。実はイェス様によるこれらの応答がどこに書いてあるか今でも見つけることができます。どこでしょう?聖書の申命記です。次のグラフを見てみてください。


「『人はパンで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』」マタイによる福音書4:4
               ↓
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたの先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンで生きるのではなく、人は主の口から出る全すべての言葉によって生きることを知らせるためであった。」申命記8:3

「『あなたの神である主を試してはならない。』と書いてある。」
マタイによる福音書4:7
               ↓
「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してみてはならない。」申命記5:16     
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』と書いてある。」
マタイによる福音書4:10
               ↓
「あなたの神、主を畏れ、主のみに仕え、その御名によって誓いなさい。」
申命記6:13


イェス様はこれらの聖句の意味を知り、覚えていたのでサタンの誘惑にあったときでも罪を犯さず、正しい道を選ぶことが出来たのです。またこの大きな誘惑を乗り越えてから、イェス様は伝道をはじめたのも事実です。私達もイェス様のように聖句の意味を知り、覚えていればサタンの誘惑にあっても、罪を犯すことはありません。なぜなら「あなたの御言葉は、わたしの道の光。私の歩みを照らす灯」だからです(詩編119:105)。

この聖句は暗闇の中にある山道の事を考えると、理解出来ると思います。私達がこの山道を歩くとき、光がないと色々な凸凹に足をつまずけて転んでしまいます。これは私達の人生を歩むなかで、サタンの誘惑にあって罪を犯すという事に当てはまります。反対に光があれば私たち道の凸凹が見えて転ぶことがありません。この光というのは聖書に書かれている言葉一つ一つであり、これらが私たちに真実、正しい道を示しています。聖書の言葉に従えば、正しい判断ができるので、サタンの誘惑があっても罪を犯すことがないのです。サタンの誘惑に勝つ方法、それは神様を頼りにして神様の御言葉、聖書の言葉の意味を知り、覚える事です。そうすれば私たちは正しい事と悪い事を判断できるようになり、神様が私達を守るので、サタンがイェス様から離れ去ったように彼は私達からも離れ去って行くのです。ですから日頃から聖書を勉強し、覚える事は本当に大切なことなのです。

今、何人のクリスチャンが日頃から聖書を勉強して覚えているでしょうか。自分もこの記事を書く前は聖書を毎日読む事は出来ていませんでした。それが原因で正しい判断が出来ずに罪を犯してしまったこともたくさんありました。でもこの記事を書いている間、聖書を読むことの大切さと神様の言葉の強さに気づくことが出来ました。今こそみんなで心を新たにして聖書に立ち返るべきです。クリスチャンとしてサタンの誘惑を乗り越え、神様の愛の世界中の人に伝えましょう。


2012年3月30日 西野貴基





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2012年3月28日水曜日

ダニエル書2章ー後半

ダニエル書2章-後半
さて、2章の前半である1~30節では、ネブカデネザル王が夢を見てその内容と解説を知者、法術士、博士、占い師たちに解き明かすようにと命令しましたが、誰もできませんでした。いくら頭が良くても、誰も他人の見た夢の内容と解説を言い当てることなどできません。しかし、ネブカデネザル王は彼らが夢を解き明かせない事に怒り、罰としてバビロンに居るすべての知者たちを殺すようにと命じました。そこで、ダニエルたちはお祈りをして、天の神様に助けを求めたのでした。ダニエルが仲間と一緒にお祈りをした結果、神様は夢の内容と解説をダニエルに教えてくださいました。

ネブカデネザル王が見た夢は、この世界の歴史に起こることを正確に予言したものでした。神様はそのような大変重要な夢をネブカデネザル王に与えられたのでした。なぜ神様はユダヤ人でもない、クリスチャンでもない王様にそのような夢を見させたのでしょうか?ここに重要なポイントがあります。それは神様が、クリスチャンであろうとなかろうと、全ての人に真実を与えたいということです。もしネブカデネザル王のように頂いた真実を真剣に考えて探ったら、神様はそれを解き明かしてくださいます。ダニエル書1,2章では、まだネブカデネザル王は神様を心から受け入れてはいません。しかし、4章ではネブカデネザル王は神様を完全に受け入れ、唯一の天の神様として認め、神様に正直に従う人に変えられています。

夢の内容

これを読みながら、ぜひ自分の頭の中でこの夢を想像してみてください。

“王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。”
ダニエル書2章31-35節
 
びっくりですよね。誰かが前の晩に見た夢の内容を正確に言い当てるなんて人間には不可能です。しかし、神様はダニエルにネブカデネザル王の夢の内容だけではなく、夢の意味も解き明かしてくださったのです。

夢の意味


「頭は純金」とはどういう意味でしょうか?

“これがその夢です。今わたしたちはその解き明かしを、王の前に申しあげましょう。王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力と勢いと栄えとを賜い、また人の子ら、野の獣、空の鳥はどこにいるものでも、皆これをあなたの手に与えて、ことごとく治めさせられました。あなたはあの金の頭です。”
ダニエル書2章37-38節

この夢の中で、金の頭はネブカデネザル王、あるいはバビロンの事を象徴しています。
さて、金の次は銀の胸と両腕です。

“あなたの後にあなたに劣る一つの国が起ります。また第三に青銅の国が起って、全世界を治めるようになります。”
ダニエル書2章39節

銀とはいったいどの国を象徴しているのでしょうか?それはバビロンの次に来る王国、メデアとペルシャです。

“ペレスは、あなたの国が分かたれて、メデアとペルシャの人々に与えられることをいうのです」。”
ダニエル書5章28節

メデアとペルシャ王国の次にくるのは、青銅の腹とももで表されているギリシャです。

“あなたが見た、あの二つの角のある雄羊は、メデアとペルシャの王です。また、かの雄やぎはギリシヤの王です、その目の間の大きな角は、その第一の王です。”
ダニエル書8章20,21節

要するに、聖書にはバビロン王国の次はメデアとペルシャ王国、その次はギリシャ王国が来ると書かれているのです。すごいと思いませんか?ダニエル書は、紀元前600年あたりに書かれたものです。紀元前600年に書かれた本が、遥か未来に栄える王国を予告していたのです。

さて、歴史的に考えるとギリシャの次はどの王国が栄えましたか?

“第四の国は鉄のように強いでしょう。鉄はよくすべての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく打ち砕くように、その国はこわし砕くでしょう。”
ダニエル書2章40節

ギリシャの次に来る鉄のように強い国とは一体どの国のことを言っているのでしょうか?歴史の本やインターネットで調べれば、ギリシャの次に来るのはローマ王国です。メデアとペルシャ、ギリシャは聖書にはっきり書いてあるのに、なぜローマとは聖書に書いてないのでしょうか?書いてない理由は二つあります。一つ目の理由は、ダニエル書が書かれた時には、まだローマと言う王国が存在していなかったということです。二つ目の理由は、暗黒時代や終わりの時に、法王権から聖書を守るためです。このことについてはダニエル書7章のときにもっと詳しく説明します。

605BC-539BC バビロン
539BC-331BC メデアとペルシャ
331BC-168BC ギリシャ
168BC-476AD ローマ

では、ローマの次に何が来ましたか?

“あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。”
ダニエル書2章41-43節
 
ローマのあとは、鉄と粘土のように、混じり合わない国々の時代になります。要するに、この時代のことです。今の世界を見てみれば分かりますが、あらゆる国々が一つになろうとがんばっているのに、現に一つにはなっていません。ばらばらの国々の時代についての詳しい説明は8章と11章の時にします。では、今のこのばらばらの国々の時代の次には何が起こるのでしょうか?今の時代までの歴史の流れを正確に予告してきた紀元前600年頃に書かれた本によりますと、次に来るのは人手によらずに切り出された石です。

“それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と、青銅と、粘土と、銀と、金とを打ち砕いたのを、あなたが見られたのはこの事です。大いなる神がこの後に起るべきことを、王に知らされたのです。その夢はまことであって、この解き明かしは確かです」”
ダニエル書2章44,45節

聖書によりますと、神様ご自身が王国を立てられるのです。鉄と粘土の時代、すなわち今の時代の後に神様は永遠の王国を立てられるのです。金、銀、青銅、鉄、鉄と粘土、すべてがこの石によって砕かれ、滅びるのです。


“また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。”
ヨハネの黙示録21章3-5節

神の王国では、罪、死、悲しみなどはありません。神の王国は喜びと幸せと愛とで満ち溢れているのです。

人間には未来を予告することなんて不可能です。今までの歴史の流れをすべて正確に予告してきた本、聖書は神様から与えられたものなのです。神様はダニエルを通して、僕たちに近い将来訪れる神様の永遠の王国という希望を伝えようとしているのです。神様はあなたに希望を与えたいのです。その素晴らしき希望のために今日から準備を始めると決心しませんか。イエスキリストを救い主として受け入れ、日々聖書を勉強し、祈り、伝道をして神様の王国を待ち望もうではありませんか。

“そして王はダニエルに答えて言った、「あなたがこの秘密をあらわすことができたのを見ると、まことに、あなたがたの神は神々の神、王たちの主であって、秘密をあらわされるかただ」。”ダニエル書2章47節

次回は、ダニエル書3章について書きます。それまで、共に聖書勉強とお祈りをがんばっていきましょう。

03-28-2012

作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

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ダニエル書2章-前半


ダニエル書2章-前半

この記事を読む前か後に必ずダニエル書二章を読んでください。
ダニエル書1章は、ダニエルたちがネブカデネザル王の与えた食べ物の変わりに、野菜と水を求めた話でした。ダニエルたちは命がけで真実のために立ち上がったのです。その結果、神様はダニエルたちに知識と健康を与えました。2章は、3年間の王様に仕えるための訓練期間が終わり、ダニエルたちがネブカデネザル王の下で働いていた頃の話です。

ネブカデネザル王は、ある夢を見て思い悩み、困ってしまいました。

 そこで王は命じて王のためにその夢を解かせようと、博士、法術士、魔術士、カルデヤびとを召させたので、彼らはきて王の前に立った。王は彼らにむかって、「わたしは夢を見たが、その夢を知ろうと心に思い悩んでいる」と言ったので、カルデヤびとらはアラム語で王に言った、「王よ、とこしえに生きながらえられますように。どうぞしもべらにその夢をお話しください。わたしたちはその解き明 かしを申しあげましょう」。王は答えてカルデヤびとに言った、「わたしの言うことは必ず行う。あなたがたがもしその夢と、その解き明かしを、わたしに示さないならば、あなたがたの身は切り裂かれ、あなたがたの家は滅ぼされる。しかし、その夢とその解き明かしとを示すならば、贈り物と報酬と大いなる栄誉とを、わたしから受けるだろう。それゆえその夢とその解き明かしとを、わたしに示しなさい」。彼らは再び答えて言った、「王よ、しもべらにその夢をお話しください。そうすればわたしたちはその解き明かしを示しましょう」。王は答えて言った、「あなたがたはわたしが言ったことは、必ず行うことを承知しているので、時を延ばそうとしているのを、わたしは確かに知っている。もしその夢をわたしに示さないならば、あなたがたの受ける刑罰はただ一つあるのみだ。あなたがたは一致して、偽りと、欺きの言葉をわたしの前に述べて、時の変るのを待とうとしているのだ。まずその夢をわたしに示しなさい。そうすれば、わたしはあなたがたがその解き明かしをも、示しうることを知るだろう」。カルデヤびとらは王の前に答えて言った、「世の中には王のその要求に応じうる者はひとりもありません。どんな大いなる力ある王でも、このような事を、博士、法術士、カルデヤびとに尋ねた者はありませんでした。王の尋ねられる事はむずかしい事であって、肉なる者と共におられない神々を除いては、王の前にこれを示しうる者はないでしょう」。ダニエル書2章2-11

たかが夢に何でそんなまじめに悩む必要があるのだろうか、と思っている方がいるかもしれません。しかしこの時代では、夢は神々から与えられるメッセージだと思われていました。あらゆる神々が夢を通して人間に話かけてくると多くの人が信じていたのです。ですから、ネブカデネザル王が夢のことで思い悩むのも当然のことでした。

 これによって王は怒り、かつ大いに憤り、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた。この命令が発せられたので、知者らは殺されることになった。またダニエルとその同僚をも殺そうと求めた。2章12,13節

王は呼び寄せた知者たちが何の役にも立たないことを知ると、バビロンの知者すべてを殺すようにと命令しました。あなたがダニエルの立場だったらこれを聞いてどう思いますか?いきなり、誰かがあなたを殺しに訪れたらどうしますか?普通だったらびっくりして、あたふたしてしまうでしょう。しかし、ダニエルは冷静に思慮深くそのことを聞きました。危機や災難が訪れてから心の準備をしても間に合いません。僕たちは常に心の準備をしておく必要があるのです。ダニエル書1章で見たように、ダニエルたちは真実のために立ち上がることを常に心に決めていました。日々のお祈りと聖書勉強から学んだ事を実行していたのです。心が神様とつながっていたから、ダニエルは冷静に思慮深く考える事が出来ました。

 それからダニエルは家に帰り、同僚のハナニヤ、ミシャエルおよびアザリヤにこの事を告げ知らせ、共にこの秘密について天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚とが、他のバビロンの知者と共に滅ぼされることのないように求めた。2章17,18節

ダニエルは、一人で全てを解決しようとはしませんでした。彼はネブカデネザル王の夢を解決しなければバビロンの知者たちがみな殺されると知った後、3人の友達に助けを求めたのです。新約聖書のマタイ18章19,20節にこう書いてあります。「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」この地上で試練や災難を乗り越えることは一人では不可能です。僕たちはみな仲間が必要なのです。仲間みたいな人や仲間っぽい人ではなく、本当の仲間が必要なのです。本当の仲間とは、正直に、まじめに、楽しく、いつも共に神様を求め、助け合いながら、真実を貫き通せる友のことです。ダニエルは本当の仲間と共に祈り、神様に助けを求めました。

 ついに夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。2章19節
 
神様は夢とその解説をダニエルに示されたのです。2章20節から23節に書かれているダニエルが神様をほめたたえる言葉はすごく感動的です。さらに、この聖句はただダニエルが神様をほめたたえているだけではなく、実はもっと深い意味があるのです。このダニエルの賛美にはダニエル書1-12章全体の大まかなテーマの予告がされています。ですから、ゆっくり考えながら読んでみてください。

 ダニエルは言った、「神のみ名は永遠より永遠に至るまでほむべきかな、知恵と権能とは神のものである。神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。神は深妙、秘密の事をあらわし、暗黒にあるものを知り、光をご自身のうちに宿す。わが先祖たちの神よ、あなたはわたしに知恵と力とを賜い、今われわれがあなたに請い求めたところのものをわたしに示し、王の求めたことをわれわれに示されたので、わたしはあなたに感謝し、あなたをさんびします」。 2章20-23節

さて、ダニエルたちはお祈りを通して神様から夢の内容と解説をもらった後ネブカデネザル王のもとへ行きました。

 王は答えて、ベルテシャザルという名のダニエルに言った、「あなたはわたしが見た夢と、その解き明かしとをわたしに知らせることができるのか」。ダニエルは王に答えて言った、「王が求められる秘密は、知者、法術士、博士、占い師など、これを王に示すことはできません。しかし秘密をあらわすひとりの神が天におられます。彼は後の日に起るべき事を、ネブカデネザル王に知らされたのです。あなたの夢と、あなたが床にあって見た脳中の幻はこれです。王よ、あなたが床におられたとき、この後どんな事があろうかと、思いまわされたが、秘密をあらわされるかたが、将来どんな事が起るかを、あなたに知らされたのです。この秘密をわたしにあらわされたのは、すべての生ける者にまさって、わたしに知恵があるためではなく、ただその解き明かしを、王にお知らせすることによって、あなたが心に思われたことを、お知りになるためです。ダニエル書2章26-30節
 
ダニエルはネブカデネザル王に夢を解き明かせるのか、と問われたときはっきりとこう答えました。王様、あなたが見た夢の内容を当て、それを解説するのは人間の力では不可能です、と。現に、頭のいいはずの知者、法術士、博士、占い師などは何もすることが出来ませんでした。しかし、この人間的に不可能な事を可能にする天の神様がいます。そしてその天の神様が、ダニエルにネブカデネザル王の夢の内容と解説を与えてくださいました。夢が解き明かされたのは、ダニエルの知識、タレントや才能によってではなく、ダニエルたちが天の神様に心から助けを求めたからなのです。すべては神様の栄光のためです。もし、あなたがダニエルのように真実を貫き通し、人生の試練を乗り越えたいのなら本当の仲間を見つけてください。本当の仲間は助け合い、励ましあい、真実を守り、神様を一緒に求めることができる友です。人生の試練、苦難を乗り越えたいのならば、ダニエルのように本当の仲間たちと共に、今日から神様を求める必要があります。

次回は、ダニエル書2章の後半について書きます。ネブカデネザル王の夢の内容と解説について説明します。それまで、日々お祈りと聖書勉強をがんばりましょう。

3/28/2012

作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真


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落胆したペトロの心理

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」ルカによる福音書 22:33,34
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」 ルカによる福音書 22:61,62

      わたしは今学期心理学のクラスをとっているのですが、そこでFrustrationというものを学びました。Frustrationというのは落胆、挫折、失望といった意味で、なにか目標があったのにそれが達成できなかったときの気持ちを表しています。このFrustrationというものを聖書の話に当てはめて考えてみてという課題がでました。そこでわたしが選んだのはイエス様の12弟子のひとりであったペトロの話です。
      ペトロはイエス様の弟子になる前は兄弟のアンデレとガリラヤ湖で漁師をやっていました。そこにイエス様がとおりかかり「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言いました。(マタイによる福音書4:18)そこでペトロとアンデレは漁師の命とも言える網を捨ててイエス様に従いました。イエスの弟子となったペトロはユニークな彼の性格をたびたび見せます。ペトロは12人の弟子のなかでもとくにイエス様と親しい弟子でした。ペトロは「イエス様に従いたい!」という気持ちが強くそれを表現することをおそれませんでした。(マタイによる福音書13:22-33)そしてイエス様が彼の救い主、そしてすべての人の救い主であるということをわかっていました。(マルコによる福音書 8:27-30)ある意味早とちりしがちなペトロですが、イエス様が十字架にかけられる前に弟子たちと食事をしているとき、ペトロは「たとえ牢にいれられても死んでもイエス様、あなたについていきます!」と言いました。ところがイエス様はペトロが三度自分のことを知らないと言うだろうとペトロに伝えます。イエス様の言われたとおり、ペトロはイエス様が捕えられたあと三度も「イエス様を知らない」と言います。そこでペトロは捕えられたイエス様に出会い、イエス様に見つめられます。ペトロはイエス様が前に言った言葉を思い出し、「激しく泣いた。」と聖書に書かれています。
      わたしはこの話を聞くたびに感情が先走ってできもしないことを宣言するペトロという弱いペトロのイメージしかありませんでした。しかし、Frustration、という視点からみたとき、ペトロはイエス様にたとえ死ぬことになってしまっても従いたいという強い目標があり、本当にイエス様のことを愛していたからこその落胆だったのではないかと思いました。もしペトロが口先だけで死をも覚悟してついていきます、と言っていたのなら、たとえその目標が達成できなかったとわかっても、激しく泣いたということはなかったはずです。このペトロの落胆した様子は彼が心からイエスに従いたいと思っていたということを表すのではないでしょうか?
      みなさんはどう思いますか? 

森 春香
2012年3月28日



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2012年3月26日月曜日

マズローの欲求

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
            マタイによる福音書6:31-33

            みなさんは心理学者、アブラハム・マズローの欲求段階説というものを聞いたことがありますか? 欲求段階説ではわたしたち人間の動機となるものがあげられています。 マズローのピラミッドには「生理的欲求」つまり食欲、睡眠欲、性欲など原始的欲求を底辺とし、その上に順に「安全の欲求」、「所属と愛の欲求」、「尊重の欲求」、そして頂点に「自己実現の欲求」というものがあります。マズローによると、まず底辺の「生理的欲求」が満たされるとその上の「安全の欲求」が現れ、それを満たそうとする。それが満たされれば一つ上の層である「所属と愛の欲求」が現れ、それを満たそうとする。というものです。マズローによれば、人間は自分の生理的欲求がまず満たされなければ、ほかのことにも目が向けられないし、むしろ他の人を愛することなんてできないということです。みなさんはマズローの欲求段階説に賛成しますか?
          イエス様は聖書のマタイによる福音書6章31節で 「だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」と言われます。マズローのピラミッドの一番下にある生理的欲求を心配する必要はないと言っています。なぜでしょうか? 神様はわたしたちに何が必要かご存知です。しかしまず神様の国と義を求めてほしいと言っておられます。そしてわたしたちがまず神様の国と神様の義を求めたとき、すべてわたしたちに必要なものは神様が与えてくださるという約束がされています。神様の国というのは私たちの地球上にあるどの国ともくらべものにならない素晴らしいところ、天国です。神様の義というのは、罪深いわたしたちを正しいものとする力があります。 つまり、この世の中の心配ではなく、神様を知ること、そして「神様の御心はなんですか?」と聞き求めて神様に従っていったとき、神様は必要なものを与えてくださるのでわたしたちは食べ物や着るものの心配はしなくていいということです。
            一日を始める前に「神様、今日あなたの御心のままにわたしをもちいてください。やるべきことを教えてください。そしてそれを行うだけの力を与えてください。」とお祈りしてみてください。神様の御心が行われるようにお祈りしたとき、神様は必要なものを必要なときに与えてくれます。
03-26-2012
森 春香

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2012年3月22日木曜日

ダニエル書一章


マタイ24章15節でイエス様は預言者ダニエルが書いた事を理解するようにと言っています。ダニエル書は予言でいっぱいです。罪深い地球の終わり、天国という希望、そして神様を愛し、最後まで神様に忠実に従う人生の生き方が描かれています。今日は、12章のうち一章だけを手短に分かりやすく語りたいと思います。ですから、後でご自分でゆっくりダニエル書を読んでみてください。
バビロンの王様、ネブカデネザルはエルサレムに住んでいたイスラエルの人々を攻め囲んで、倒しました。
“時に王は宦官の長アシペナズに、イスラエルの人々の中から、王の血統のものと、貴族たるもの数人とを、連れてくるように命じた。すなわち身に傷がなく、容姿が美しく、すべての知恵にさとく、知識があって、思慮深く、王の宮に仕えるに足る若者を連れてこさせ、これにカルデヤびとの文学と言語とを学ばせようとした。そして王は王の食べる食物と、王の飲む酒の中から、日々の分を彼らに与えて、三年の間彼らを養い育て、その後、彼らをして王の前に、はべらせようとした。”ダニエル書1章3~5節
ネブカデネザル王のために仕える若者としてダニエル、ハナ二ヤ、ミシャエル、アザリヤが選ばれました。バビロンに連れてこられた時、この4人はだいたい18歳ぐらいだったそうです。
ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた。「どうぞ、しもべらを十日の間ためしてください。わたしたちにただ野菜を与えて食べさせ、水を飲ませ、そしてわたしたちの顔色と、王の食物を食べる若者の顔色とをくらべて見て、あなたの見るところにしたがって、しもべらを扱ってください」。”ダニエル書1章8,12,13節

イスラエルの人々はみな子供のときから、親に神様の望む食生活に従うようにと教えられていました。(モーセの書物に神様が我々のために望んでいる食べ物と飲みものが書かれています。)ですから、ダニエルと三人の友達は、王の食事と飲み物は神様の望む食生活に反するので、水と野菜を求めました。捕虜の分際で、王の丁重なおもてなしを断るなんてかなりの度胸が必要です。王の食事と飲み物を断る事で、ダニエルと三人の友達は命を亡くしてもおかしくありませんでした。この若者たちは、命がけで自分たちの教わった真実のために立ち上がったのです。
たかが食べ物や飲み物のために命をかけるなんて信じられないと思っている方が居るかもしれません。それに、王の食事と飲み物ってすごく豪華でおいしそうですよね。少しぐらい食べても良いじゃないかと思われるかもしれません。しかし、少しだろうが、何だろうが関係ありません。真実は真実です。ダニエルと三人の友は教わった真実を何が何でも貫くと、心に決めていたのです。自分の都合を考えずに、恥ずかしかろうが、辛かろうが、命が危なかろうが、真実を貫く。神様は一人でも多くそういう心を持つ人たちを探しているのです。
“十日の終りになってみると、彼らの顔色は王の食物を食べたすべての若者よりも美しく、また肉も肥え太っていた…この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した…王が彼らと語ってみると、彼らすべての中にはダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤにならぶ者がなかったので、彼らは王の前にはべることとなった。王が彼らにさまざまの事を尋ねてみると、彼らは知恵と理解において、全国の博士、法術士にまさること十倍であった。”
ダニエル書1章15,17,19,20節

今日も神様は、ダニエルたちのように真実のために立ち上がる若者たちを探しています。もしも今日、あなたが真実のために立ち上がるのならば、はじめは辛いことがあるかもしれません。しかし最後までそれを貫き通すのならば、神様はダニエルたちにしたように、あなたを特別に祝福してくださいます。今日、神様を求め、真実のために立ち上がると決心しましょう。 

03/22/2012
作者:福田ダニエル
編集者:品末拓真

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ダニエル書の予言図表


自分で、ダニエル書を読んで勉強してみたい時に、どうぞこの図表を使ってみてください。ダニエル書の予言のだいたいのつながりと流れをもっと理解する事が出来るはずです。


ダニエル書の予言
2章
7章
8章
11章
バビロン
-
-
メデアとペルシャ
ギリシャ
アレクサンダー
大王
四つに分けられたギリシャ
ローマの分断
法王権
キリストが天国を受け入れる

英語のオリジナル:http://www.patmospapers.com/
翻訳:福田ダニエル

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2012年3月5日月曜日

塩人間

塩人間 
マタイ5章13節
あなた方は、地の塩である。もし塩の効き目がなくなったら,何によってその味が取り戻されようか。もはや、何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。
INTRO
私たちクリスチャンは、塩人間です。本来のクリスチャンはみんな塩人間として生活するべきなのです。さて、塩人間とは何でしょうか?最近の研究によりますと、塩はなんと14,400以上の使い道があるらしいです。今日は、そのうちの五つの使い道を私たちクリスチャンの生き方と比べてみたいと思います。
BODY
1.塩は、塩っ辛い。(ヨハネ4の14)私たちは、塩っ辛い人生を生きる使命があるのです。それは、私たちの塩っ辛さのあまりに私たちの周りの人たちが皆、私たちの日々の生活を見るだけでのどがからからになることです。しかし、わたしたちは、水ではありません。私たちの主イエスキリストこそが命の水です。塩っ辛い人生を生きてこの世界を命の水、イエスキリストに導きましょう。
2.塩は味がある。この悲しくてむなしい世界に希望、愛、優しさと楽しさで味つけしましょう。本当のクリスチャンは世界一、愛と希望と楽しさであふれる心を持っているはずなのです。あの独特のすばらしいイエスキリストの味でこの世界に愛と希望を伝えましょう。
3.塩は、氷を溶かす。この冷たい世界をキリストの愛と真実で溶かしましょう。人の心の周りに固まっている氷をキリストの愛と真実で優しく溶かしましょう。悲しい現実ですが、私たちの教会の中にも冷たくて、氷のような人がたくさんいます。私たち塩人間としてキリストの力によってお互いの氷のような心を溶かしあいましょう。そうすることで、神の聖霊が居心地よく私たちの心に住めます。
4.塩は、清めのシンボル。日本の伝統ではよくお葬式や誰かが亡くなられた時、家に入る前に塩を頭や肩にまきますよね。実は、ユダヤの習慣でも塩は清めのシンボルとして昔から使われていました。神様は我々クリスチャンを清めの塩としてこの世界へまいているのです。ですから、私たち塩人間として、死から解放されるという希望を伝えていきましょう。世の中の清めの塩になるために、神様は私たちを古い人生から清められました。
5.塩は、一粒一粒、固まりなし。塩同士固まってもあまり効果的じゃありません。逆に塩っ辛すぎて味はまずいし、健康にも悪いです。塩は、広がって味のないところで味付けし、氷のあるところを溶かし、清めの希望をもって前へ突き進むべきなのです。(マタイ24の14)全世界にキリストのみ国の福音を伝えましょう。(マタイ28の18-20)行け!!全世界の人間を命の水の元に連れてゆこう。塩人間として全世界の人ののどをからからにして、命の水、イエスキリストのもとにつれてゆこう。
CONCLUSION
·             私たち、クリスチャンとして、辛くて、味があって、氷を溶かして、清めの希望を持って、広がった塩人間になるのが使命だというのがわかりましたか?
·             この悲しくて、希望のない世界、友達,家族にキリストの力によって喜びと希望を与えたいと思いませんか?
·             あるところに、二つの町がありました。ひとつの町は、塩がたくさんあり、わりと裕福な暮らしをしていました。もうひとつの町も、わりと裕福な暮らしをしていました。しかし、この町は、ひとつ重要なものが足りませんでした、それは、塩です。塩がないために、その町は、時間がたつと同時に、病気が増えていきました。しかし、もうひとつの塩が豊富な町は何もしませんでした。また時間がたつと、塩のない町は、塩のほしさのあまり頭がおかしくなり、ノイローゼになり始めました。しかし、またも、塩が豊富な町は、何もしませんでした。更に時間がたつと、今度は、塩が摂取できないために塩のない町の人々はばたばたと死んでいきました。しかし、それでも、塩が豊富な町は何もしませんでした。そのうち、塩の豊富な町は、塩の使いすぎと食べ過ぎによる病気で、どんどんと死んでいきました。結果的に、塩が広がってないために、二つの町は、どちらも滅んでしてしまいました。
·             あなたはどうですか?この味のない、氷のように固まった世界を溶かして聖霊の力によって味付けしませんか?今こそ塩人間として、クリスチャンとして、人を命の水、イエスキリストのもとに連れていくべきではないでしょうか?
·       もっと効果的な塩人間として用いられるように神様にお祈りしましょう。
アーメン
福田ダニエル
03・04・2012

2012年3月4日日曜日

聖書の必要さ

福田ダニエルから「聖書の必要さ」というメッセージです。




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わかっちゃいるけど。。。


わかっているけどやめられない。自分によくないとわかってても、、お酒、タバコ、セックス、ゲーム、映画、などなどいろいろな中毒に陥ってしまうことがあります。もうこれ以上無理、と思うこともあるかもしれません。そしてそんな自分に失望し、疲れ果てておられるかもしれません。しかし、聖書はそんな私たちに希望を与えてくれます。
聖書の中でも自分のことをコントロールできなくなり、もうあきらめかけていた人の話があります。

「こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。」マルコによる福音書5:1-2

ここではこの人の過去や、どうやって悪霊に取り付かれたかは書いてありません。ですが、はじめは「ちょっとだけ」と思い、悪いことをはじめたのだと思います。ほかの人は弱いかもしれないけど、自分は大丈夫!と思い、悪の道を歩き始め、気づいたらに、もう泥沼に吸い込まれて出られなくなってしまっていたのです。多くの中毒はこうやって始まります。また、自分の人生に欠けている愛や周りの人に受け入れられていないという気持ち、または心にぽっかり空いた穴を埋めるために中毒に走ってしまうことも少なくはありません。

どんどん悪い道に進むうちに、中毒がこの人の意思をコントロールするようになり、正しい選択をすることができなくなってしまいました。悪霊を心に入れてしまっていたのです。ですが、サタン(悪魔、悪霊)は私たちが彼を選らばなければ心に入ってくることはできません。

「この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。」マルコ5:3-4

周りの人たちはいろいろな方法で彼の行動を止めようとしました、ですが、それもだめでした。私たちが周りの人に助けをもらうのはすばらしいことですし、中毒に勝つのに効果的でもあります。しかし、この話で彼は中毒に完全には打ち勝つことはできなかったのです。私たちも友達や周りの人に助けを求めて、ある程度は助けをもらえるかもしれません。助けを求めることは決して悪くありません。でもわたし達の友達は人間なので、その深い穴に落ちた状態の私たちを完全に引き上げることは出来ません

「そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。 」マルコ5:5

この人は自分の体を傷つけてしまい、きっとそれが良くないとわかっていてもやめられなくなってしまっていたのでしょう。中毒は私たちを傷つけますし、周りの人も心が痛むものです。
でも希望があります!なぜならイエス・キリストが私たちのところに来てくださるからです。

「ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、大声で叫んで言った、『いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください』」。 マルコ5:6-7

イエスはこんなにダメ人間だと思っている私たちのところに来て、
「けがれた霊よ、この人から出て行け」マルコ5:8と言ってくださるからです。

イエスは私たちの希望です。イエスは私たちに中毒や、悪の鎖から解き放つ力をくださるのです。先ほどの6節、7節に書いてあるように、私たちは「イエス?どんなかかわりがあるの?!何で私のところに来るの?苦しめないで!」と言うかもしれません。しかし、イエスは今日も私たちを悪から解放するため、悪に染まっている私たちに希望を与えるため、また私たちに自由を与えるために私たちのところに来ます。

マルコ4章と5章を見てみると、イエスがわざわざガラリヤの湖を渡ってここの地方に来たのも、ただこの人を助けるためでした。この地方ではほかに何もしていません。イエスは悪に染まって、自分で自分のことをコントロールできない人を心のそこから愛していました。そして今日も愛しています。あなたがどんな人でも、どんなところにいても、どんなことをしても、イエスの愛は変わりません。そして、何千年も前にこのひとを助け、正気に戻したように(マルコ5:15 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。 )、今日もあなたを助けたいと思っています。

今日、イエスに助けを求めてみませんか?必ずあなたのことを助けてくださいます。

2012年3月4日

ミラージョエル




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