2013年1月26日土曜日

ミニコンサート 


1月28日にMKOのメンバーの一人である西野貴基君がミニコンサートを開き、録画しました。

1. "Life's Too Short" by Stephen Bennett


2. "Lady Bird" by Stephen Bennett


3. "Good Dog" by Stephen Bennett


4. "Devotion"


5. "I Knew It Was You" by Stephen Bennett


6. "Amazing Grace"- Tommy Emmanuel's Arrangement

 

2013年1月20日日曜日

神様との会話


お祈りとは、わたしたちが友達にするように、神様に自分の心を打ち明けることです。それは神様にわたしたちが何者かということをわからせるために必要なのではなく、わたしたちが神様を受け入れるために必要なのです。お祈りは神様を私たちのところへ引き下げるのではなく、私たちを神様のもとへ引き上げます。イエス様が地上におられた時、彼は弟子たちにどのように祈るべきか教えられました。イエス様は彼らに、日々の必要を神様の御前に打ち明け、不安を神様に手放すように教えられました。そして弟子たちに、お祈りは聞かれるという確信が与えられたように、わたしたちにも同様の確信が与えられています。 

お祈りの必要

イエス様御自身この地上で過ごされているあいだ、頻繁にお祈りをしていました。私たちの救い主であるイエス様は、わたしたち人間の必要と弱さを御自分で体験され、試練を乗り越え、勤めを果たすために、父なる神から力を求める嘆願者となられました。イエス様はすべての面においてわたしたちの模範です。イエス様はわたしたちが弱っている時の兄弟です。彼は、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ人への手紙4:15)。しかし、罪なき者としての性質からイエス様は悪を避け、この罪深い世界での戦いと苦悩を耐え抜いたのでした。彼の人間性が、祈りを人間にとって不可欠であると同時に特権ともしました。イエス様は父なる神様と祈りを通してつながることに喜びと慰めを見つけました。もし人間の救い主であるイエス様、すなわち神様の御子が祈る必要を感じたのなら、弱く罪深い、死に定められたわたしたちは、切実で絶え間ない祈りの必要をどれだけ感じるべきでしょうか。

わたしたちの天の父は、わたしたちに満ち溢れるほどの祝福を贈りたいと待望しておられます。限りない愛の泉から存分に飲めることは、わたしたちの特権です。それなのに何故わたしたちはこれっぽっちしか祈らないのでしょうか?神様は、御自分の子供であるわたしたちの謙遜な心からの祈りを今にでも聞きたいと望んでおられます。しかし、わたしたちが祈ることをためらっているという現実を証明するものがたくさんあります。神様から無限の愛を向けられており、神様はお願いした以上に素晴らしいものを与えようとしてくださっているにも関わらず、誘惑の標的である無力な人間は少ししか祈らず、ほんの小さな信仰しかないのを見て、天の御使いたちはどう思っているのでしょうか?天使たちは神様の御前に行くことを愛しています。彼らは神様との交わりに最高の喜びを見いだすのです。ところが、地上にいる神様の子供であるわたしたちは、神様からしかいただけない助けが必要であるにも関わらず、神様の霊の光、つまり神様との交わりなしで歩むことに満足しているように見えます。

打ち勝つための鍵

悪魔の暗闇は祈りをおろそかにする人に迫ります。悪魔のささやきは、罪を犯すように誘います。そしてそれは、神様との聖なる交わり、すなわち祈るという特権を使わないために起こるのです。どうして神様の息子、娘であるわたしたちが祈りをおろそかにすべきでしょうか?祈りは無限の祝福が収められている天の倉庫の扉をあける、信仰の手に握られている鍵なのです。絶え間ない祈りなくては、わたしたちは正しい道から離れていっても気に留めないという危険に陥ります。サタンはわたしたちが神様の御前へ行くことをどうにかして防ごうと、絶えず努力しているからです。なぜなら、わたしたちが信仰と祈りによって力と恵みを受け、誘惑に打ち勝つことができないようにしたいからです。

小部屋で祈りましょう。そして一日の働きにとりかかかる前に、あなたの心を神様の御前に引き上げてもらいましょう。エノクもこのようにして神様と日々歩みました。静かな祈りは、尊い香のように神様の恵みの御座へ上ります。神様の内に心を委ねる人を、サタンは打ち倒すことができません。

祈りの条件

わたしたちのお祈りを神様に聞いて、答えてもらうにはいくつかの確かな条件があります。そのうちの一つは、まず神様の助けの必要を実感することです。神様はイザヤ書44:3でこう約束されました。「わたしは乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。」正義に飢え渇く人、神様を追い求める人は、必ず満たされます。聖霊を受け入れるために心を開いていなければ、神様の祝福を受けることはできません。

わたしたちの必要そのものが神様に助けを訴えかけます。しかし、わたしたちは自ら意図して神様を求めなければなりません。神様は、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイによる福音書7:7)そして、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ信徒への手紙8:32)と言われます。

もしわたしたちが心の中に邪悪な思いを抱き、罪だと分かっているのにそれに執着し続けるなら、神様は私たちの祈りを聞かれません。しかし、罪を悔い改めた魂を神様はいつも受け入れてくださいます。わたしたちの全ての過ちが正されたとき、神様がわたしたちの願いを聞いてくださると信じることができます。わたしたちの祈りが受け入れられるために、わたしたちにはすべきことがあります。しかし、わたしたちが良いことをするからといって、神様に好意を抱かせることはできません。わたしたちを救い、清めてくださるイエス様によってのみ、わたしたちは神様の前で正しいとされるのです。

力強いお祈りのもう一つの要素は信仰です。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ人への手紙11:6)。イエス様は弟子たちに「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコによる福音書11:24)と言われました。わたしたちはイエス様の言葉を信じているでしょうか?

神様には、大きすぎて担えないものなど無い

あなたの欲求、喜び、悲しみ、不安、恐れをいつも神様の御前に差し出しましょう。わたしたちの祈りによって、神様が苦しんだり、疲れたりすることはありません。あなたの頭にある髪の毛の本数すら数え知っておられる神様が、御自分の子供であるあなたの願いに無関心なわけがないでしょう。主である神様は「慈しみ深く、憐れみに満ちた方」(ヤコブの手紙5:11)です。神様の愛の心は、わたしたちの悲しみと、それを打ち明ける事に心動かされます。すべての悩みを神様に明け渡しましょう。神様に大きすぎて担えないものなど何もありません。なぜなら、神様がこの世界を治めているからです。わたしたちが持つどんなに小さな不安も、神様は気づかれます。わたしたちの人生が暗すぎて、神様がわたしたちを見失うことはありません。わたしたちの悩みが複雑すぎて、神様に解決できないという事はありません。神様がお気づきにならない所でわたしたちに悲惨なことが降りかかったり、不安が魂を悩ませたり、喜んだり、祈りが唇を離れることはありません。「打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる」(詩編147:3)。神様とわたしたちの関係は、まるで世界に自分ひとりしかおらず、それでも愛する御子イエス・キリストを自分だけのために下さったかのように、特別で、祝福に満ちています。

(本「キリストへの道」に基づいて書かれています。)


これはGLOWのウェブサイトにあるhttp://glowonline.org/literature-2/talking-with-god-2/を訳したものです。

翻訳者:森春香
編集者:品末拓真

2013年1月18日金曜日

君は愛されるために生まれた

https://soundcloud.com/mko-6/zb8qwkgt3ey2


君は愛されるために生まれた 君の生涯は愛で満ちている
永遠の神の愛は我らの出会いのなかで 実を結ぶ
君の存在が私には どれほど大きな喜びでしょう
당신은 사랑받기 위해 태어난 사람
당신의 삶 속에서 그 사랑 받고 있지요
태초부터 시작된 하나님의 사랑은
우리의 만남을 통해 열매를 맺고
당신이 이 세상에 존재함으로 인해
우리에게 얼마나 큰 기쁨이 되는지
당신은 사랑받기 위해 태어난 사람
지금도 그 사랑 받고 있지요


2013年1月16日水曜日

コリントの信徒への手紙一 13:13

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」


2013年1月13日日曜日

いつも南からのお便りを支えていただきありがとうございます。どうかわたしたち一人一人の働きが清められるように、神様の御言葉を忠実に伝えることができるように、自分たちの生活で実践できるようにお祈りしてください。

1/13/2013


今期の教科は天地創造についてです。この世界を創造された神様はわたしたちの心をも新しく創り変えることがおできになられる方です。

「神よ、わたしのうちに清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。」 
詩編51:12

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

エゼキエル書36:26

2013年1月10日木曜日

新しい視点から見た「聖書を読む」ということ

わたしはiPhoneのApp Store(アプリケーションストア)を見つけた瞬間とても幸せな気持ちになりました。無料アプリをたったクリックするだけで検索するよりもよい冬休みの時間を過ごし方があるでしょうか?わたしはさまざまなジャンルのアプリを検索しました。スポーツ、宗教、団体、音楽、エンターテイメント、コスメ、料理、ゲーム、など目につくアプリを調べていました。たったのワンクリック、もしくはダブルクリックによってこのアプリはわたしの物に。。。そして無料で!アプリを二つか三つダウンロードしながらわたしは自分に合った毎日使えるアプリを選ぼうと決めました。レビューなどを読んで自分に一番合ったものを選んでいきました。

そこでふとあることを考えました。

もしApp Storeを検索するように聖書を調べたらどうなるのだろう?

わたしが神様が自分に語りかけている聖句はどれだろう、と聖書のページをめくり、調べて読むときわたしの人生は豊かなものとなるでしょう。わたしたちはどれほど頻繁に聖書を手にとり、自分の状況にあった話を探してみたり、答えを求めているでしょうか?
聖書を読むとき神様からの約束を見つけたり、自分の今の状況に当てはめることができるお話が見つかるはずです。

今年みなさんで聖書を実際に読んでみませんか?



(これはサザンアドベンチスト大学のVillege TimeというものにSimon Marshallによって書かれた文章を訳したものです。)


2013年1月9日水曜日

あなたへの贈り物


午前2時、一本の電話が鳴りました。「ブロディー *のための心臓があるのですが」と電話の声の主は言いました。これは皆が待ち望んでいた電話でした。12歳のブロディーは何日ものあいだ、心臓移植待ちの名簿に載っていました。もしも時間が経つにつれて彼の容態が悪くなれば、心臓移植候補者として居続けることはできません。彼の名前は名簿から取り除かれ、心臓移植にかけた最後の回復の望みは絶たれるのでした。しかしこの日、ブロディーと彼の家族は素晴らしい贈り物を受け取るのでした―新しい心臓、新しい命という贈り物です。

聖書は、わたしたち全員がブロディーよりも絶望的な、命の危険にさらされていると教えています。わたしたちは永遠の死を手に入れました。なぜなら、「罪の支払う報酬は死」(ローマ信徒への手紙6:23)であり、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」(ローマ信徒への手紙3:23)いるからです。後者の聖句を原語であるギリシャ語で調べてみると、人間がいかに絶望的な状況にあるかを理解できます。「受けられなくなって」と訳されたギリシャ語は、「継続して起こる」という意味を含んでいます。わたしたちは、継続的に神の栄光を受けられなくなっているのです。罪は過去だけでなく、現在のわたしたちにも存在し続けているのです。

物事が上手くいっている時は、自分の中に罪が存在するという事実を簡単に忘れてしまうでしょう。わたしたちは完璧ではないけどとても良い人で、そこまで悪くはないと考えがちです。しかし、周りの人が職場で自分をさしおいて昇進したり、新車を購入したりすると、自分の心の中に妬みを発見します。もしくは、魅力的なモデルや女優をみて色欲を抱いたり、道路で割り込みをしてきた車に対して自分でも驚くほどの怒りを覚えたりします。自分の生活を正直に吟味すればするほど、自分の中に罪が巣くっているのは現実だと分かります。

オックスフォード大学の無神論者である若い教授が自身の経験を語りました。「わたしは人生で初めて実用的な目的のために自分自身を吟味した。そしてわたしは、ぞっとするものを自分の中で見つけた。欲望の動物園、野心の精神病院、恐怖の育児室、愛でられた憎しみの聖地。わたしの名は群衆であった。」(C.S. Lewis, Surprised by Joyより)。これら全ての罪は、わたしたちの罪深い心から出て来ます。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(ルカによる福音書6:45)。実に、わたしたちの本当の罪深さを隠しているのは、わたしたちの罪深い心なのです。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」(エレミヤ書17:9)と書いてある通りです。

つまりブロディーのように、わたしたちの持つ問題の原因はわたしたちの心なのです。わたしたちは罪深いという状況からましになることはありません。どんな処方薬や治療法もわたしたちを助けることができません。わたしたちは、この欠陥のある心を取り替えなければ死んでしまいます。ブロディーは名簿に載って、自分の順番を待たなければならず、彼が必要なものはお金ですら手に入れられませんでした。もしも誰かが彼に新しい心臓を与えてくれなければブロディーは死んでしまうのでした。

わたしたちの危機的状況はこれに似ていますが、聖書には、そんなわたしたち皆に素晴らしい知らせがあります。このような贈り物がわたしたちに与えられると聖書は言っています。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(エゼキエル書36:26)

更に良いことは、この新しい心を受け取るには順番待ちをする必要がないということと、心が入れ換わった後はただ生き続けるのではなく、よりよい質の人生を楽しむことができるということです。

「ブロディーのための心臓がある」という電話は不安も伴いました。なぜなら心臓移植はリスクが高いからです。健康な心臓を移植する前に、まずブロディーから彼の心臓は取り除く必要がありました。一度手術を始めたらもう戻ることはできません。これらのことを考えながら、ブロディーの両親であるビルとジルは夜明け前に起きて、その重大な手術のために病院へ行く準備をしました。そして両親の見守るなかブロディーは手術室に運ばれていきました。

私たちも同様にまず死を通らなければなりません。ブロディーが手術医に心臓を取り除くことを許したように、わたしたちも自分の心を手放さなければなりません。わたしたちはところどころの修復ではなく、徹底した手術が必要だということに気付かなければなりません。

この恐ろしいリスクが、ブロディーと彼の両親を不安にさせた一つの理由と言えるでしょう。また、自分たちの息子によりよい新しい人生が与えられるかもしれない機会に喜びを感じたのと同時に、深刻な現実も押しかけてきました。彼らに新しい希望を与えた同じ出来事は、どこかの家族の希望を粉々にしたことを理解したのでした。ブロディーの生きるチャンスは、他の誰かの死を代価としたものだったからです。

今のこの世界でのよりよい人生、そして永遠の命を手に入れることができる霊的な心臓移植、すなわち罪からの救いも、命を代価に可能なものです。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ信徒への手紙5:8)。ここで注目すべきは、キリストは「わたしたちに価値があったとき」や「わたしたちが神様の律法に完全に従ったとき」や「わたしたちが自分の必要に気付いたとき」ではなく、「わたしたちがまだ罪人であったとき」に死んでくださったということです。

移植なしでは、ブロディーの心臓の状態は悪化していく一方でした。彼の必死の必要が彼を適格者としました。そして彼は、どこかの他人が贈ってくれた健康な心臓に頼る必要がありました。購入できる心臓はありませんでしたし、あったとしても彼の家族ではとても支払うことはできませんでした。救いに関しても同じことが言えます。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ信徒への手紙6:23)。わたしたちが死を得たことを知らせるその同じ聖句から、死に対する治療法が贈り物として与えられていることを見ることができます。

それは、永遠のなかでも最も価値のある贈り物です。わたしたちは名簿に載って待つ必要がありません。ただお願いするだけで、この贈り物をわたしたちは今、受け取ることができるのです。ただあなたの必要に気付き、自分には新しい心が必要だと告白し、神様に新しい心を下さるようにお願いしましょう。魔法の方式、おまじないの言葉などありません。ただお願いするのです。

ブロディーは心臓移植の手術を終えて、新しい心臓だけでなく新しい人生を手に入れました。しかし彼は、その新しい人生をどう生きるか学ぶ必要がありました。わたしたちも新しい心を受けるとき、新しい生き方を学ぶ必要があります。神様は教会という場所を与えて下さいました。そこには同じように新しい心を受けた人たちがおり、新しい生き方を学ぶのを助けてくれます。
あなたへの贈り物を楽しんでください!

*名前は変えています。

(これはGLOWのウェブサイトにあるhttp://glowonline.org/literature-2/a-gift-for-you/ を訳したものです。)

翻訳者:森春香
編集者:品末拓真

2013年1月8日火曜日


今日の暗唱聖句は

「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちのうちにありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、わたしたちをあらゆる不義から清めてくださいます。」

ヨハネの手紙一 2:8-9

です。
みなさんもぜひ暗唱してみてください。

天での戦い


一番初めに戦争の起きた場所は、争いが一番起こりえなさそうな場所であったと記録されていることをあなたはご存知でしたか?聖書はわたしたちにこう言います。「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった」(ヨハネの黙示録12:7-8)。一体何故この戦争は起き、何を巡って戦ったのでしょう?これらの問いに対する答えは、この地球とわたしたちの心に不安が満ちている理由を明らかにします。

この最初の戦争とサタンによる神様への反逆について、預言者エゼキエルはわたしたちにこんな情報を与えています。「翼を広げて覆うケルブ」と描写されているルシファーは、彼が創造されてから、「不正がお前(ルシファー)の中に見出されるように」なるまでは「無垢」でした(エゼキエル書28:14-15)。この「翼を広げて覆うケルブ(または天使)」という位が、ルシファーの反逆の重要なポイントになります。旧約聖書で、神様は聖所(御自身の王座の部屋)の縮小版をイスラエルの民に与えます(出エジプト記25:8)。パウロはこの聖所を「天にあるものの写しであり影である」と書いています(ヘブライ人への手紙8:5)。聖所の中には至聖所と呼ばれる特別な部屋があり、そこには十戒を納めた掟の箱がありました。箱の上は「贖いの座」で、その両端から「ケルビム」(またはケルブ)が「贖いの座」と箱を覆っていました(出エジプト記25:16-22;列王記上8:7参照)。

これによって、神様の王座は「贖いの座」であり、神様の律法こそが神様の王国であり土台となっていることが分かります。一度は「翼を広げて覆うケルブ」であったルシファーは、神様の律法を支持し、擁護する、すなわち「覆う」責任がありました。しかし、ルシファーの中に不正、あるいは罪が見出されたことによって彼の反逆が始まりました。では、罪とは何でしょう?「罪とは、法に背くことです」(ヨハネの手紙 一 3:4)。ルシファーは神様の律法、言うなれば天の統治の基盤を守るべきでありましたが、それに逆らいました。結果、天では戦いが起こったのです。

ところで、ルシファーの律法に対する主張は何だったのでしょう?預言者イザヤが与えてくれた、この大争闘に対するもう一つの大切なポイントを見てみましょう。「ああ、お前は天から落ちた 明けの明星(ルシファーの意)、曙の子よ…かつて、お前は心に思った。『わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え…いと高き者(神様)のようになろう』と」(イザヤ書14:12-14)。ルシファーの主張は、彼が神様のようになれるということでした。それは、神様の律法に従わないことは正しいということでした。彼は、彼自身が善と悪の区別をつけられると思いました。言い換えれば、ルシファーの反逆は独善(自分を自分で正しいとすること)に基づいていました。律法は制限的で、自由で知的な天使たちにそのようなルールは無用であると彼は言いました。この言葉は多くの天使を騙しました。そして、ルシファーに賛同した天使たちとルシファーは、彼らの反律法主義の主張と共に天から追放されました。

これらのことを踏まえると、地上で人の心がしょっちゅう不安を抱く理由をよりよく理解することができます。今日サタンは、神様の律法、つまり神様の政治の基盤を憎んでいます。神様は御自身の王国に住まう人々を捜していますが、そのために人々は天の律法を受け入れて生きることを望んでいなければなりません。これは、どの政府にも同じことが言えるでしょう。

サタンがエデンの園にいるアダムとエバに近づいたとき、彼は同じ手を使って二人を誘惑しました。お前たちは神様に従わないで、神様のようになれる(創世記3:1-4)。天にいた天使たちを堕落へと導いた同様の嘘で、エデンの園にいたアダムとエバも堕落したのでした。そして天使たちが天から追放されたように、アダムとエバもエデンの園から追放されました。「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(創世記3:24)。アダムとエバの思いは、サタンによってゆがめられてしまいました。彼らの持った「肉の思い」について、パウロはこう書いています。「肉の思いは死であり…ます。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」(ローマの信徒への手紙8:6-7)。

しかし神様は、人が死ぬのを放っておかれませんでした。神様はその独り子をこの世に送り、人に二度目のチャンスを与えられました。天の御国に入るためには、人は再び律法に従う必要があります。よってパウロはこう書きました。

聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。「『それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」(ヘブライ人への手紙10:15-17)

この地上と人の心にあるすべての不安は、人は神様の律法に従う必要がなく、また神様なしで正しい者となることができる、というサタンの嘘を受け入れた結果でした。サタンはこの嘘を正義に見せかけようとしています。それはクリスチャンと自称する人々が、神様の律法は既に廃止されており、どういうわけか恵みによって神様の掟を守る必要がなくなった、と言っていることからわかります。ヨハネはこの独善という偽りに対して警告を発しています。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(ヨハネの手紙一2:3-4)。

この嘘に騙されない人々に対して、サタンは怒っています。「竜(サタン)は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証を守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った」(ヨハネの黙示録12:17)。

サタンが神様の律法を守る人々をどのように欺こうとするかを実際に聖書は明らかにしています。預言者ダニエルは、サタンが「法を変えようとたくらむ」と記録しています(ダニエル書7:25)。何故でしょう?それは、一つの掟を無視することは、すべての掟を破ったのと同様に有罪であること(ヤコブの手紙2:10-12)をサタンが知っているからです。

サタンは実に悪賢く十戒の内の一つの掟を変えてしまい、それに気づいている人は少ししかいません。彼はそれを教会の中で成し遂げました。わたしたちは、あなたが良く祈りつつ出エジプト記20章にある十戒を読み、どの掟が人の伝統と取り替えられてしまったかを見いだすことを勧めます。もしサタンがクリスチャンを神様の掟のどれかを無視するよう仕向けることができるのなら、サタンは彼らに反律法主義を支持させることもできます。

終わりの時、悪魔の欺きに抵抗し、自らが天の御国に忠実であることを証明する人々がいます。彼らは神様の律法からそれません。最初に起きた戦いは、神様の律法に関して起きたのでした。この地上での最後の戦いも、同じことを巡って起きます。ヨハネはその戦いで勝利を得た人々についてこう書きました。「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者(『彼(神様)の律法を行う人々』とも訳される)は幸いである」(ヨハネの黙示録22:14)。あなたがその勝利を得た人々の一人となられますように。

(これはGLOWウェブサイト http://glowonline.org/literature-2/war-in-heaven-2/ を訳したものです。)

翻訳者:品末 拓真
編集者:森 春香

2013年1月7日月曜日

同じ空の下で


https://soundcloud.com/mko-6/vgfnx24el6yy



遠く離れていても 同じ空の下で
主を見上げているなら またいつか会えるね
どんな悲しみにも どんな涙にも
答えをくださる イェス様を見上げているなら
それぞれの道は違うけれど 不安な事がたくさんだけど
祈って励ましあって イェス様についてゆこう



暗証聖句

最近ヨハネの手紙一を覚えようと試みています。今日覚えた聖句はこれです。覚えるために何回も口に出して言っているとさらっと読んでいたときよりももっと一つ一つの言葉の意味を考えさせられます。


「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」

ヨハネの手紙一 1:5-7



2013年1月6日日曜日

僕は王様に何をあげたらいいだろう


https://soundcloud.com/mko-6/what-can-i-give-to-the-king


ぼくは王様に 何をあげたらいいだろう 何もないけれど 何かあげたい イエス様に
真実の愛と 人生を捧げなさい すべてを捧げれば 主はすべてあなたに 与えられるでしょう
ぼくらは王様に 何をあげたらいいだろう 何もないけれど 何かあげたい イエス様に
地に住む主の民よ 栄光と賛美の歌 すべてあなたのために 与えてくださった 主に捧げなさい
私は王様に 何をあげたらいいだろう 今日お生まれになった イエス様に



ひと言おっしゃってください

わたしたちは聖書を通して、インターネットを通して、教会を通して、また様々な方法で神様のことを知ることができます。それは祝福であり特権です。しかし、それらの特権をどれだけわたしたちは活用して神様を知ろうとしているでしょうか?

ルカによる福音書7章1節ー10節には百人隊長の僕をいやす話が記録されています。百人隊長とその僕はローマ兵であり、神様から御言葉を伝えるために選ばれ、祝福されたユダヤ人ではありませんでした。
この百人隊長は彼の僕が病気で死にそうになっているのを見て、イエス様に助けを求めます。そして

「主よ、御苦労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えばそのとおりにします。」 
ルカによる福音書7:6-8

と言いました。
この百人隊長である彼は僕、つまり奴隷である一人をいたわり助けを求めたのです。ローマ人であるにも関わらず、イエス様は病気を治すことがおできになると信じました。しかし、自分は大した人でもないし、イエス様を家にお迎えする、もしくは自ら出向く価値もないものだから、とユダヤ人の長老や友人を通してイエス様にお願いします。興味深いことに、百人隊長が使わしたユダヤ人の長老たちはイエスにこう言います。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」と。実際にこの百人隊長はユダヤ人の会堂を建てた、誇る要素、また自分を正当化させる理由があり行動してきた人でした。しかし百人隊長である彼は自分自身のことを「ふさわしくない」ものと考えました。

彼は自分の力のなさを認め、しかしイエスにお願いすることを恐れませんでした。彼は奇跡をおこなうことをイエスに求めたのではありません。ただ「ひと言おっしゃってください。」と言いました。

この出来事が起こったカファルナウムという地はイエス様がよく訪れ住まわれた場所でした(マタイによる福音書4:13、ヨハネによる福音書2:12)。また神殿税を払うためにペトロに釣りをさせてその魚の口に銀貨一枚が入っているだろうと言われたのもカファルナウムです(マタイによる福音書17:24)。汚れた霊にとりつかれた男をいやした場所であり(マルコによる福音書1:21、ルカによる福音書4:31)役人の息子をいやした場所でありました(ヨハネの福音書4:46)

このカファルナウムではイエス様のことは知れ渡っていたでしょう。しかしこの百人隊長の信仰を見られたときイエス様は「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカによる福音書7:9)と言われました。

わたしたちはこのカファルナウムに住むような人になっていないでしょうか?イエス様の存在を知っていながらただの良いお話で終わっていないでしょうか?聖書を手にしていながら神様を知らないままでいないでしょうか?神様との個人的な交わりをもちましょう。

この一つのことをすれば、もしくはしなければイエス様ともっと交わることができると心にあたる事がありますか?神様と交わることができるように、そのために日常生活でしていることを変えられるようにお祈りしましょう。神様に心を打ち砕かれた状態でくるとき、神様の必要を感じてみもとへ祈りを通して行くとき、神様はわたしたちをつくりかえてくださいます。


(これは1/5にEast Ridge教会で聞いたお説教をまとめたものです。)

執筆者:森春香
1/6/2013


2013年1月5日土曜日

ピアノ、コンチェルト、価値観


わたしがほぼこの一年をかけて学んだことを書かせていただきます。

10月2日ごろにピアノの先生、ドクタークーパー先生とわたしが2台のピアノでチャイコフスキーピアノ協奏曲第一番第三楽章を演奏し友達の助けのもと録音しました。サザンアドベンチスト大学(わたしが通わせてもらっている大学)では年に一度コンチェルトコンサートと言うものがあります。それは、学生のソリストたちが自分の楽器ソロのコンチェルトをオーケストラと演奏するという、音楽を勉強している学生にとってはわくわくするような価値のあるコンサートです。(少なくともわたし自身はそう思っていました。)そのソリストを選ぶために毎年10月に選考会が開かれます。第一段階ではCDの提出、もしそこで通れば第二段階で審査員の前で生演奏というやり方で演奏者を5~6人選ぶのです。「オーケストラと一緒にピアノが弾けるなんて夢のようだ、やってみたい」と思ったわたしは挑戦することにしたわけです。去年の一月から本格的に練習を始め、土曜日の安息日とコロンビアへ行っていた間を除いては、ほぼ毎日練習しました。10ヶ月間同じ曲を練習し続けました。「もし、自分が選ばれてオーケストラと演奏できたらどんな気分だろう、どんなに楽しいだろう、どんなにかっこいいだろう」と様々な想像と期待に胸をふくらませていました。たくさんの時間と労力を費やして磨き上げたつもりの作品、曲でした。クーパー先生も「ここまでやってきたことを誇りに思うよ」と言ってくださいました。

10月5日はCD提出の日でした。オーケストラの指揮者である先生のオフィスに行くとちょうどその先生がいて、「これコンチェルトを録音したCDなのですが。。。」と言うと「あぁ~そこの山積みになってる他のCDのとこ置いといて。」と言われたので、その通りにしました。帰り際に先生から「録音は上手くいったの?」と聞かれたので「はい、今やりきれることはやったので満足です。」と答えました。それが正直な答えでした。

一週間後、先生から応募者全員宛てにEメールが送られてきました。内容は第一次選考で選ばれた人たちの名前がリストアップされており、「選ばれた人はおめでとう!第二次選考で会いましょう。楽しみに待っています。」というような内容でした。何度そのリストを見ても自分の名前がありません!「あぁ~落ちたのか。。。選ばれなかったんだ」と思い、反射的にそのままコンピューターを閉じて「全て忘れよう、コンチェルトなんて挑戦しなかったことにしよう。水に流してしまおう」と思いました。しかし、時間が経つにつれ、だんだんと現実がしみ込んできて、昨日までずっと練習してきたあの曲に費やしてきた時間、エネルギーは無意味だったのか、、、自分の努力は無駄だったのか、生演奏を聴いてもらう価値もないのか、、、」というような思いが次々と頭の中に浮かびぐるぐる回り、涙が出てきました。脱力感でした。ピアノなんてしばらく見たくないと思いましたが、声楽生徒などのピアノ伴奏をアルバイトとしてやっているため、ピアノを弾かないという選択は与えられませんでした。しばらくはピアノを見るだけでコンチェルトのことが思い出され、涙がでてきました。今でもたまにそんな思いに悩まされます。

しかし、このことから、自分は自分自身の価値をピアノの演奏に置いていたことに気付かされました。他人から自分のピアノの演奏を評価されただけなのに、自分のピアニストとしての価値まで否定されたような気分になってしまったのはどうしてだろうと考えました。クーパー先生や友達たちは本当に親身になってたくさんのアドバイスをくれました。その中で学んだことは、わたしの頭の中では、「コンチェルト奏者に選ばれるといいピアニストだということが証明されるんだ」と勝手に定義化されていました。それなのに、自分が選ばれなかったために、自分は出来損ないのピアニストだという結論へ自然と至ってしまったのでした。コンチェルトに選ばれるということが自分に価値を与えてくれる、といつのまにか自分の中で偶像のようになってしまっていたのでしょう。恐ろしいことです。始めのころは、神様の栄光を表わすために弾きたいと思っていたのに、いつの間にか、自分の名誉のためへと目的が変わっていってしまいました。

あのまま、もしコンチェルトの奏者に選ばれていたら、何も考えず、学ぶこともなく、ただ高慢になっていたことでしょう。しかし、そうなることを許されなかった神様に本当に感謝したいです。そしてもう一つ、自分は神様に創造されたから価値があるんだということが初めて分かったような気がしました。今までは他人の評価をひどく気にして一喜一憂していました。ピアノでは特にそうでした。もちろん自分より上手な人はたくさんいるのですが、その人たちに憧れるのと同時に、「自分も追いついて他人からすごいピアニストだと思われたい、認められたい」と必死で練習しました。しかし今回の出来事のように、自分の100パーセントを出し切ったと言えたような演奏を受け入れられなかったとき、他人から自分の演奏をゴミのように扱われたような気分になってしまい、どうしようもできなくなってしまいました。自分の最大の努力も価値がないと言われてしまったらもう自分はこれ以上のことはできないし、今後何をしてもあなたからでるものは価値がありません、と言われているようでした。(もちろん冷静に考えてみればそうではないことが後々分かりましたが。)そんなところで助けてくれた友達がこんなことを言ってくれました。「あなたはたとえピアノに一本も指を触れなかったとしても、とてつもなく価値のある神様の子供なんだよ。」と。頭の中ではよく分かっているつもりでした。しかしどこかで自分が努力することで他人に認められたいという気持ちが強く、神様にとってはなんにもしなくても価値がある存在だということ、神様はそのままの自分を愛してくださっていることをすっかり忘れていました。こんなにも自分は他人からの評価に左右されてしまうのだなと気づかされました。成功しないと意味がない、成績が良くないと合格できない、地位が高くないと尊敬されない、などなど、なにか条件付きでしか受け入れてもらえない、そんな考え方が主流な世の中に生きていますが、自分がまだ罪人であったときから愛し、救ってくださるほどに自分に価値を見いだしてくださったイエス様に本当に感謝したいと思いました。神様に創造されたこと、そのことがわたしに価値を与えてくれること、そして十字架にかかってまでも救いたいと実際に死んでくださったほどに価値を見いだしてくださったこと、その愛はあふれるほど十分であることを覚えていたいです。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められたときに不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬものはほとんどいません。善い人のために命を惜しまないものならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために、死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」ローマ信徒への手紙 5:6-8

もっともっと神様の愛を知り、日々経験して満たされていきたいです。どんな評価をうけても、自分は神様に愛されているということを覚え、自分の価値は神様にとって変わらないのだということを覚え、さまざまなことに励んでいきたいです。そして気遣ってそっとしてくれた友達、アドバイスをくれた友達、ただ話を聞いてくれた友達、落ちたのにお花やお菓子をくれて忙しいのに時間を裂いて励ましてくれた友達たちに一人一人に本当に感謝したいです。





 2012年12月31日
森春香

2013年1月4日金曜日

未来が見えず、辛くても


2012年を振り返ってみると、将来についてたくさん考えさせられたなと思います。多くの人に、「大学を卒業してどうするの?」と聞かれ、年を重ねるたびに自分の未来について悩む機会が増えたように感じます。

現在ぼくは大学で神学を勉強しており、上手くいけば2015年に卒業できます。しかし、明日何が起こるかもわからないのに、そんな遠い未来のことなんて全く想像できません。「牧師になるんだよね?」とよく言われますが、今の自分では「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」としか言いようがありません。

将来について考えるとき、僕の中で不安が大きく膨らみます。何も見えないからです。僕がいくら悩んだところで、未来は見えません。箴言20:22に「人の一歩一歩を定めるのは主である。 人は自らの道について何を理解していようか。」とあるとおりです。結局僕には将来何が起こるかわからないのです。

しかし、そのような僕に希望を与えてくれる言葉があります。イエス様は言われました。「然り、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

僕が将来について一つだけ確信を持って言えることは、イエス様が来られるという事です。しかも「すぐに」です。そしてその後、イエス様と歩み続けてきた人は「目の涙をことごとくぬぐい取って」もらい、死も悲しみも嘆きも労苦もなくなるのです(黙示録21:4)。なんと希望に満ちた約束でしょう。僕の目指す将来はそこにあります。だから、それまでの将来は見えなくても、もう大丈夫です。

この世には苦しいことがあります(ヨハネ16:33)。将来が分からなくて本当に辛いときもあります。しかし、自分に頼らずイエス様に頼り、常にイエス様を覚えて人生を歩むとき、イエス様は僕たちの人生の道筋をまっすぐにしてくださいます(箴言3:5と6)。「主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。」(詩編25:4)と日々祈りながら、イエス様の来られる日を待ち望み続けたいです。

「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 
ヨハネの黙示録22:20と21

写真:僕のかけがえのない友達。祈っています。絶対に天国で会おう。


執筆者:品末拓真

(これは12/31にhttp://www.facebook.com/adventistyouthjpに掲載されたものです。)

お祈りは聞かれるの?


「ずっと祈っているのに聞かれない」と思う時、とても辛いですよね。

昨年僕は日本で車の教習所に通っていました。試験場受験だったため、1回で合格するのは難しいと言われました。僕は仮免許の試験に1回、2回…5回落ちました。教習を始めてから5回目までに3か月も経っており(合宿なら本免許を6回もらえている)、僕はそのとき神様にブチ切れました。

「合格させてください。」と毎晩祈ってきたのに、神様が仮免許一つくれなかったからです。僕はその頃学校に行っておらず、教習と試験が僕の生活の全部でした。全てを否定されたようで、文字通り泣くほど辛かったです。そして僕は神様にとことん文句をぶちまけました。

次の日、何ら特別な事は起きませんでしたが、聖霊の導きにより信仰の弱さを痛感し、僕は心から悔い改めました。しばらくして6回目の試験を受け、落ちました。悲しかったですが、以前ほど気になりませんでした。もし免許をもらえなかったとしても、それが神様の望みならいいやと思えたからです。


7回目の試験日の朝、何となく聖書を開くと「神に従う人は七度倒れても起き上がる」(箴言24:16)という聖句が目につきました。そして僕は見事にその日の試験(7回目)に落ち、8回目で合格したのでした。

僕は今でも、なぜ仮免許の試験に7回も落ちたのかわかりません。しかしこの経験を通して、神様に人生を委ねる、ということが少しわかりました。神様は祈りを聞かれるお方です(詩編65:3)が、それは僕たちの願いをそのまま叶えてくれるという事ではありません。神様は僕たちの祈りに必ず耳を傾け、そして最善の道を備えてくれます(詩編37:23)。

それは自分の思っていたものとは違うかもしれませんが、神様の計画よりも良いものを誰が思いつくでしょうか?自分の思う通り(それがどんなによく見えても)にならなくても、「神様と歩いているから大丈夫」と主に完全に信頼して生きたいです。

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
箴言3:5と6


写真:開始から約半年でゲット。心なしかやつれて見えるが、大変喜んでいる。

執筆者:品末拓真


(これは12/3にhttp://www.facebook.com/adventistyouthjpに掲載されたものです。)

ゴールのある人生


競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
コリントの信徒への手紙1・9:25
 
最近全く運動をしていなかったので、先日久々に走ってみました。最初は気持ちよく走っていたのですが、途中から段々ときつくなり、「ここで止まって休もうか」と考え始めました。しかし、前に進まなければ絶対に寮に帰れないので、寮に着くことだけを考えながら前進し続けました。

やっと寮に着いた時、「はぁー」と最高に爽快なため息をつき、「この瞬間のために走ってきたんだ!」と思いました。

僕たちの人生と走ることにはたくさんの共通点があります。中でも大きいのは、ゴールではないでしょうか。ゴールがなく、それでも走り続けるのは何と辛いことでしょう。同様にゴールのない、目的のない人生はとても辛いです。ある人は、いい大学、就職、結婚、生活の安定等々、自分でゴールを定めます。


しかし、人にはいずれ死が訪れるのに、どんなにお金を稼ごうと、良い家に住んでいようと、最後の時にそれが何になるというのでしょう。朽ちる冠のために生きる人生は何と空しく、朽ちない冠のために生きる人生は何と報いが大きいでしょうか。

僕たちには明確なゴールが与えられており、それは何とも比べものにならないほど素晴らしいものです。僕たちはそれに向かってひたすら足を前に出し続けるのです。周りのものに目をとらわれそうになったり、先が見えなくて不安になったりする時もあります。それは、イエス・キリストから目を逸らす時です。

どんな時でもイエスを見つめ、ゴールに向かって前進するとき、僕たちは本当に意味のある人生を歩むことができるのです。

執筆者:品末拓真

(これは11/5にhttp://www.facebook.com/adventistyouthjpに掲載されたものです。)


2013年1月2日水曜日

移りゆく時の間も


https://soundcloud.com/mko-6/wndna1zlhksy


移りゆく時の間も 悩みに勝つ力
父より受けしわれは 心に恐れなし
愛に満てる御神は 恵みを日々与え
悩み苦しむ時も 憩いと安き賜う
日々 主はそばにいまし わが身を憐れみて
全ての重荷を負い 慰め助け給う
力は日ごとに汝が求めに従いて
増し加わらんと主は われに誓い給う
悩み激しき時も 主の約束頼み
安けく過ぎゆくため 主よ 御言葉 賜え
疲れし時に助け 御手にすがるわれを
常に導き給え 御国に入る日まで