2013年1月20日日曜日

神様との会話


お祈りとは、わたしたちが友達にするように、神様に自分の心を打ち明けることです。それは神様にわたしたちが何者かということをわからせるために必要なのではなく、わたしたちが神様を受け入れるために必要なのです。お祈りは神様を私たちのところへ引き下げるのではなく、私たちを神様のもとへ引き上げます。イエス様が地上におられた時、彼は弟子たちにどのように祈るべきか教えられました。イエス様は彼らに、日々の必要を神様の御前に打ち明け、不安を神様に手放すように教えられました。そして弟子たちに、お祈りは聞かれるという確信が与えられたように、わたしたちにも同様の確信が与えられています。 

お祈りの必要

イエス様御自身この地上で過ごされているあいだ、頻繁にお祈りをしていました。私たちの救い主であるイエス様は、わたしたち人間の必要と弱さを御自分で体験され、試練を乗り越え、勤めを果たすために、父なる神から力を求める嘆願者となられました。イエス様はすべての面においてわたしたちの模範です。イエス様はわたしたちが弱っている時の兄弟です。彼は、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ人への手紙4:15)。しかし、罪なき者としての性質からイエス様は悪を避け、この罪深い世界での戦いと苦悩を耐え抜いたのでした。彼の人間性が、祈りを人間にとって不可欠であると同時に特権ともしました。イエス様は父なる神様と祈りを通してつながることに喜びと慰めを見つけました。もし人間の救い主であるイエス様、すなわち神様の御子が祈る必要を感じたのなら、弱く罪深い、死に定められたわたしたちは、切実で絶え間ない祈りの必要をどれだけ感じるべきでしょうか。

わたしたちの天の父は、わたしたちに満ち溢れるほどの祝福を贈りたいと待望しておられます。限りない愛の泉から存分に飲めることは、わたしたちの特権です。それなのに何故わたしたちはこれっぽっちしか祈らないのでしょうか?神様は、御自分の子供であるわたしたちの謙遜な心からの祈りを今にでも聞きたいと望んでおられます。しかし、わたしたちが祈ることをためらっているという現実を証明するものがたくさんあります。神様から無限の愛を向けられており、神様はお願いした以上に素晴らしいものを与えようとしてくださっているにも関わらず、誘惑の標的である無力な人間は少ししか祈らず、ほんの小さな信仰しかないのを見て、天の御使いたちはどう思っているのでしょうか?天使たちは神様の御前に行くことを愛しています。彼らは神様との交わりに最高の喜びを見いだすのです。ところが、地上にいる神様の子供であるわたしたちは、神様からしかいただけない助けが必要であるにも関わらず、神様の霊の光、つまり神様との交わりなしで歩むことに満足しているように見えます。

打ち勝つための鍵

悪魔の暗闇は祈りをおろそかにする人に迫ります。悪魔のささやきは、罪を犯すように誘います。そしてそれは、神様との聖なる交わり、すなわち祈るという特権を使わないために起こるのです。どうして神様の息子、娘であるわたしたちが祈りをおろそかにすべきでしょうか?祈りは無限の祝福が収められている天の倉庫の扉をあける、信仰の手に握られている鍵なのです。絶え間ない祈りなくては、わたしたちは正しい道から離れていっても気に留めないという危険に陥ります。サタンはわたしたちが神様の御前へ行くことをどうにかして防ごうと、絶えず努力しているからです。なぜなら、わたしたちが信仰と祈りによって力と恵みを受け、誘惑に打ち勝つことができないようにしたいからです。

小部屋で祈りましょう。そして一日の働きにとりかかかる前に、あなたの心を神様の御前に引き上げてもらいましょう。エノクもこのようにして神様と日々歩みました。静かな祈りは、尊い香のように神様の恵みの御座へ上ります。神様の内に心を委ねる人を、サタンは打ち倒すことができません。

祈りの条件

わたしたちのお祈りを神様に聞いて、答えてもらうにはいくつかの確かな条件があります。そのうちの一つは、まず神様の助けの必要を実感することです。神様はイザヤ書44:3でこう約束されました。「わたしは乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。」正義に飢え渇く人、神様を追い求める人は、必ず満たされます。聖霊を受け入れるために心を開いていなければ、神様の祝福を受けることはできません。

わたしたちの必要そのものが神様に助けを訴えかけます。しかし、わたしたちは自ら意図して神様を求めなければなりません。神様は、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイによる福音書7:7)そして、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ信徒への手紙8:32)と言われます。

もしわたしたちが心の中に邪悪な思いを抱き、罪だと分かっているのにそれに執着し続けるなら、神様は私たちの祈りを聞かれません。しかし、罪を悔い改めた魂を神様はいつも受け入れてくださいます。わたしたちの全ての過ちが正されたとき、神様がわたしたちの願いを聞いてくださると信じることができます。わたしたちの祈りが受け入れられるために、わたしたちにはすべきことがあります。しかし、わたしたちが良いことをするからといって、神様に好意を抱かせることはできません。わたしたちを救い、清めてくださるイエス様によってのみ、わたしたちは神様の前で正しいとされるのです。

力強いお祈りのもう一つの要素は信仰です。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ人への手紙11:6)。イエス様は弟子たちに「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコによる福音書11:24)と言われました。わたしたちはイエス様の言葉を信じているでしょうか?

神様には、大きすぎて担えないものなど無い

あなたの欲求、喜び、悲しみ、不安、恐れをいつも神様の御前に差し出しましょう。わたしたちの祈りによって、神様が苦しんだり、疲れたりすることはありません。あなたの頭にある髪の毛の本数すら数え知っておられる神様が、御自分の子供であるあなたの願いに無関心なわけがないでしょう。主である神様は「慈しみ深く、憐れみに満ちた方」(ヤコブの手紙5:11)です。神様の愛の心は、わたしたちの悲しみと、それを打ち明ける事に心動かされます。すべての悩みを神様に明け渡しましょう。神様に大きすぎて担えないものなど何もありません。なぜなら、神様がこの世界を治めているからです。わたしたちが持つどんなに小さな不安も、神様は気づかれます。わたしたちの人生が暗すぎて、神様がわたしたちを見失うことはありません。わたしたちの悩みが複雑すぎて、神様に解決できないという事はありません。神様がお気づきにならない所でわたしたちに悲惨なことが降りかかったり、不安が魂を悩ませたり、喜んだり、祈りが唇を離れることはありません。「打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる」(詩編147:3)。神様とわたしたちの関係は、まるで世界に自分ひとりしかおらず、それでも愛する御子イエス・キリストを自分だけのために下さったかのように、特別で、祝福に満ちています。

(本「キリストへの道」に基づいて書かれています。)


これはGLOWのウェブサイトにあるhttp://glowonline.org/literature-2/talking-with-god-2/を訳したものです。

翻訳者:森春香
編集者:品末拓真

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