2013年1月5日土曜日

ピアノ、コンチェルト、価値観


わたしがほぼこの一年をかけて学んだことを書かせていただきます。

10月2日ごろにピアノの先生、ドクタークーパー先生とわたしが2台のピアノでチャイコフスキーピアノ協奏曲第一番第三楽章を演奏し友達の助けのもと録音しました。サザンアドベンチスト大学(わたしが通わせてもらっている大学)では年に一度コンチェルトコンサートと言うものがあります。それは、学生のソリストたちが自分の楽器ソロのコンチェルトをオーケストラと演奏するという、音楽を勉強している学生にとってはわくわくするような価値のあるコンサートです。(少なくともわたし自身はそう思っていました。)そのソリストを選ぶために毎年10月に選考会が開かれます。第一段階ではCDの提出、もしそこで通れば第二段階で審査員の前で生演奏というやり方で演奏者を5~6人選ぶのです。「オーケストラと一緒にピアノが弾けるなんて夢のようだ、やってみたい」と思ったわたしは挑戦することにしたわけです。去年の一月から本格的に練習を始め、土曜日の安息日とコロンビアへ行っていた間を除いては、ほぼ毎日練習しました。10ヶ月間同じ曲を練習し続けました。「もし、自分が選ばれてオーケストラと演奏できたらどんな気分だろう、どんなに楽しいだろう、どんなにかっこいいだろう」と様々な想像と期待に胸をふくらませていました。たくさんの時間と労力を費やして磨き上げたつもりの作品、曲でした。クーパー先生も「ここまでやってきたことを誇りに思うよ」と言ってくださいました。

10月5日はCD提出の日でした。オーケストラの指揮者である先生のオフィスに行くとちょうどその先生がいて、「これコンチェルトを録音したCDなのですが。。。」と言うと「あぁ~そこの山積みになってる他のCDのとこ置いといて。」と言われたので、その通りにしました。帰り際に先生から「録音は上手くいったの?」と聞かれたので「はい、今やりきれることはやったので満足です。」と答えました。それが正直な答えでした。

一週間後、先生から応募者全員宛てにEメールが送られてきました。内容は第一次選考で選ばれた人たちの名前がリストアップされており、「選ばれた人はおめでとう!第二次選考で会いましょう。楽しみに待っています。」というような内容でした。何度そのリストを見ても自分の名前がありません!「あぁ~落ちたのか。。。選ばれなかったんだ」と思い、反射的にそのままコンピューターを閉じて「全て忘れよう、コンチェルトなんて挑戦しなかったことにしよう。水に流してしまおう」と思いました。しかし、時間が経つにつれ、だんだんと現実がしみ込んできて、昨日までずっと練習してきたあの曲に費やしてきた時間、エネルギーは無意味だったのか、、、自分の努力は無駄だったのか、生演奏を聴いてもらう価値もないのか、、、」というような思いが次々と頭の中に浮かびぐるぐる回り、涙が出てきました。脱力感でした。ピアノなんてしばらく見たくないと思いましたが、声楽生徒などのピアノ伴奏をアルバイトとしてやっているため、ピアノを弾かないという選択は与えられませんでした。しばらくはピアノを見るだけでコンチェルトのことが思い出され、涙がでてきました。今でもたまにそんな思いに悩まされます。

しかし、このことから、自分は自分自身の価値をピアノの演奏に置いていたことに気付かされました。他人から自分のピアノの演奏を評価されただけなのに、自分のピアニストとしての価値まで否定されたような気分になってしまったのはどうしてだろうと考えました。クーパー先生や友達たちは本当に親身になってたくさんのアドバイスをくれました。その中で学んだことは、わたしの頭の中では、「コンチェルト奏者に選ばれるといいピアニストだということが証明されるんだ」と勝手に定義化されていました。それなのに、自分が選ばれなかったために、自分は出来損ないのピアニストだという結論へ自然と至ってしまったのでした。コンチェルトに選ばれるということが自分に価値を与えてくれる、といつのまにか自分の中で偶像のようになってしまっていたのでしょう。恐ろしいことです。始めのころは、神様の栄光を表わすために弾きたいと思っていたのに、いつの間にか、自分の名誉のためへと目的が変わっていってしまいました。

あのまま、もしコンチェルトの奏者に選ばれていたら、何も考えず、学ぶこともなく、ただ高慢になっていたことでしょう。しかし、そうなることを許されなかった神様に本当に感謝したいです。そしてもう一つ、自分は神様に創造されたから価値があるんだということが初めて分かったような気がしました。今までは他人の評価をひどく気にして一喜一憂していました。ピアノでは特にそうでした。もちろん自分より上手な人はたくさんいるのですが、その人たちに憧れるのと同時に、「自分も追いついて他人からすごいピアニストだと思われたい、認められたい」と必死で練習しました。しかし今回の出来事のように、自分の100パーセントを出し切ったと言えたような演奏を受け入れられなかったとき、他人から自分の演奏をゴミのように扱われたような気分になってしまい、どうしようもできなくなってしまいました。自分の最大の努力も価値がないと言われてしまったらもう自分はこれ以上のことはできないし、今後何をしてもあなたからでるものは価値がありません、と言われているようでした。(もちろん冷静に考えてみればそうではないことが後々分かりましたが。)そんなところで助けてくれた友達がこんなことを言ってくれました。「あなたはたとえピアノに一本も指を触れなかったとしても、とてつもなく価値のある神様の子供なんだよ。」と。頭の中ではよく分かっているつもりでした。しかしどこかで自分が努力することで他人に認められたいという気持ちが強く、神様にとってはなんにもしなくても価値がある存在だということ、神様はそのままの自分を愛してくださっていることをすっかり忘れていました。こんなにも自分は他人からの評価に左右されてしまうのだなと気づかされました。成功しないと意味がない、成績が良くないと合格できない、地位が高くないと尊敬されない、などなど、なにか条件付きでしか受け入れてもらえない、そんな考え方が主流な世の中に生きていますが、自分がまだ罪人であったときから愛し、救ってくださるほどに自分に価値を見いだしてくださったイエス様に本当に感謝したいと思いました。神様に創造されたこと、そのことがわたしに価値を与えてくれること、そして十字架にかかってまでも救いたいと実際に死んでくださったほどに価値を見いだしてくださったこと、その愛はあふれるほど十分であることを覚えていたいです。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められたときに不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬものはほとんどいません。善い人のために命を惜しまないものならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために、死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」ローマ信徒への手紙 5:6-8

もっともっと神様の愛を知り、日々経験して満たされていきたいです。どんな評価をうけても、自分は神様に愛されているということを覚え、自分の価値は神様にとって変わらないのだということを覚え、さまざまなことに励んでいきたいです。そして気遣ってそっとしてくれた友達、アドバイスをくれた友達、ただ話を聞いてくれた友達、落ちたのにお花やお菓子をくれて忙しいのに時間を裂いて励ましてくれた友達たちに一人一人に本当に感謝したいです。





 2012年12月31日
森春香

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