2013年12月22日日曜日

福音への免疫5

あなたをイエス様に近づけるのは、質問が取り除かれることではないのです。イエス様を知っているあなたとイエス様を知らない人との大きな違いは、あなたにはイエス様に対する質問がなく、彼らには質問があるということではありません。本当の違いとは、あなたがイエス様を知っているということです。イエス様と個人的な関係を持っているというフレームの中でしか、わたしたちの質問は答えられないのです。わたしたちはイエス様のもとへ行かなければなりません。わたしたちは、「イエス様はわたしを知っている」ということを瞑想すべきです。「イエス様はわたしを知っている。宇宙の創造主、惑星を造り名前を知っており、それぞれの星をそれぞれの軸に定め、壮大な天国を造られた神様、その神様がわたしを知っている。」神様はあなたを知っておられます。あなたのすべてを知っておられます。あなたの体験した最大の試練、最上の喜び、あなたのすべての過ち、そして今あなたがどのような状況にあるのか、神様は知っておられます。神様がわたしたちを知り尽くしているということは、わたしたちを神様より低い立場に立たせます。ヘブライ人への手紙には、わたしたち人間は神様の御前では裸のようだと書かれています。そして同時に、わたしたちを神様との愛の関係に招いておられます。神様はこういいます。「わたしはあなたの救い主、あなたの神」と。

ナタナエルは喜びに満ちてこう叫びました。「あなたは神の子です!」これがナタナエルにとっての最初の衝撃でした。ナタナエルは、イエス様が自分を知っていたということを理解したのです。そして彼は福音を受け入れました。イエス様を受け入れたのです。これは、多くの方が共感できるであろうとても強い衝撃です。福音を初めに聞いたときの衝撃です。クリスチャン家庭で生まれ育った人でも、生まれてからずっと聞いてきたメッセージをある瞬間、「うわぁ、これは真実だ!」と実感するときがあるでしょう。「神様は存在するのだ。神様はわたしを創造されたのだ。わたしを愛しておられるのだ。わたしのために独り子であるイエス様を送ってくださったのだ。わたしを知っておられるのだ。そのお方に属したい。」そしてナタナエルが叫んだように、叫ぶのです。これが一番目の衝撃です。わたしの友達である皆さん、この衝撃を手放してはいけません。手放すことはとても簡単です。福音に対して免疫をつけてしまうことはとても簡単で、わたしたちは衝撃などなかったかのようになってしまうのです。


ここで二番目のステップにうつります。一番目はナタナエル、そしてみなさんが受けた最初の衝撃です。それは、イエス様がわたしたちを知っておられるということを理解すること、そしてイエス様がわたしたちにしてくださったことを理解することです。しかし、どれほど簡単にわたしたちはその衝撃、感動を失ってしまうでしょうか?どれほど簡単に、福音に対して無関心になってしまうでしょうか?

福音への免疫4

わたしは宣教者で、世界中を旅して聖書の教えは正しいと主張します。わたしは弁証学が大好きですし、わたしたちが持っている聖書の教えも大好きです。しかし人々の異論を取り除くことが、必ずしも彼らをイエス・キリストに近づけるとは言えないでしょう。わたしたちのすべきことは、ただ聖書を勉強するのではなく、人々にイエス・キリストを体験してもらい、イエス様との関係を持てるよう招待することです。それはまさしくフィリポがナタナエルにしたことです。「来て、見なさい。」わたしはこの場面を想像します。聖書の何かについて想像するときは気を付けなければなりませんが、どのようなものであったか想像することはゆるされています。わたしは、フィリポがナタナエルに「来て、見なさい」と言ったとき、きっとナタナエルは「でもわたしはまだ質問がある」と言ったのではないかと思います。そこでフィリポが「じゃあイエス様にその質問を持っていこう!」と言い、彼らはいちじくの木の下から立ち上がって、一緒にイエス様のもとに向かったのだと思います。
その後、何が起こりますか?とても美しいことです。ヨハネによる福音書1章47節を読んでください。「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見」ました。考えてみてください。イエス様はナタナエルとフィリポが自分に向かって来るのを見ます。たぶんナタナエルの頭の中ではまだ質問が飛び交っていたでしょう。しかし彼は、イエス様に向かって一歩一歩近づいていきました。もしかしたらイエス様は本当にメシアかもしれない。彼は実際に自分でイエス様に会おうと向かったのです。もしかすると、「この人は本当にナザレの人なのか?」と思ったかもしれません。そこでイエス様がなんと言ったか見てください。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節後半)。イエス様はナタナエルの正直な心に気付いておられました。質問をイエス様のもと素直に持ってくる正直さです。いちじくの木の下から立ち上がって、実際にイエス様と関わりたい、と思い行動した正直さです。「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」とイエス様は言われたのでした。

この言葉はナタナエルを驚かせます。「ナタナエルが『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた」(48節)。考えられますか?「わたしはあなたを見た」とイエス様は言ったのです。その瞬間ナタナエルは、このイエス様の言葉によって喜びに満ち溢れて49節でこう言いました。「ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』」この時点で、もうイエス様に対する質問はナタナエルの頭の中からなくなっていました。なぜでしょう?それは、どうしてナザレ出身なのかという質問に答えられたからではありません。ナタナエルがイエス様を王として、世界の救い主として認めた理由は、イエス様が彼を知っていたからです。イエス様はあなたをも知っておられます。

2013年12月18日水曜日

福音への免疫 3

しかし、この革命的な宣言に、ナタナエルはなんと答えたでしょうか?フィリポが、「ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言った瞬間、ナタナエルはある疑いをもってしまいました。「ナザレ?ナザレから何か一つでも良いものが出てくるのか?もしメシアを探しているのなら首都のエルサレムを探すべきではないのか?例えエルサレムにいなかったとしても、ナザレからはありえないだろう。」

 ナタナエルの反応を見てください。「するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言った」(ヨハネによる福音書1:46)。ナタナエルは、嫌味を言ったわけではありませんでした。彼は真理を熱心に探し求めている人でした。いちじくの木の下でフィリポのメッセージを受けて、様々な思いがナタナエルの頭の中をぐるぐると回っていました。ナタナエルはいちじくの木の下にいるのが好きでした。「各時代の希望」には、フィリポがナタナエルのもとを訪れたとき、ナタナエルはちょうどイエス様がメシアであるかどうか考えていた、と書かれています。彼は旧約聖書の預言や、イエス様の伝道を見て、「イエス様は本当に約束されていたメシアなのだろうか?」と考えていたのでした。そこにフィリポが、「わたしたちはその方を見つけた。ナザレの人、イエスだ」とやってきたのです。イエス様がメシアかどうか結論の出ていないナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」と問います。彼にはまだ確信がなかったのです。この「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」という質問が彼の頭を離れません。

これに対してフィリポは、注目すべき答えを出します。わたしたちは、どうやって福音を伝えるかを学んでいますが、このフィリポの答えはわたしたちを驚かせるものでしょう。彼は、「来て、見なさい」(46節)と言いました。この言葉の意味を少し考えてみましょう。フィリポは、ただナタナエルの横に座って、何故ナザレの人イエスがメシアであるかという根拠を一日中語ることもできました。そして一日の終わりに、ナタナエルを納得させることができたかもしれません。しかし例え、ナタナエルが質問に対する答えを見つけられたとしても、それは彼が救い主に近づくための一歩になりますか?ならないでしょう。ナタナエルはまだいちじくの木の下に座ったままであったでしょう。

フィリポは、「来て、見なさい」と言いました。わたしの友達である皆さん、わたしたちは、信仰についての質問、神様が愛ならどうして苦難があるのかという質問、キリストの復活についての質問を抱えている人に出会うでしょう。彼らはこれらの質問を持っているがために、イエス様のもとに行きたくありません。そこでわたしたちは普段、どのように答えていますか?多くの場合、わたしたちはいちじくの木の下に一緒に座ってしまうのです。座り込んで聖書の言葉を分析して質問に答えようとするのです。もちろん聖書を研究すること、その時間を持つことは必要です。しかしわたしたちは、彼らがイエス様を個人的な救い主であると体験できるように、招かなければなりません。


福音への免疫 2

それでは、ヨハネによる福音書1章を開きましょう。今からナタナエルを見ていきます。私はこのお話が大好きです。今日はこのお話を深く掘り下げて読みたいと思います。きっと多くの方が、ナタナエルの経験に共感できると思います。

ではヨハネによる福音書1:43を読みましょう。聖書にはこう書いてあります。「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。」これは、イエス様の弟子にならないかという招きでした。「フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」(44節)。そして45節で、フィリポはイエス様に従う決心をします。しかしフィリポは、ただ自分だけが招きに応じるのではなく、他の人も招いたのです。その招かれた人がナタナエルです。ここからがお話の本題です。「フィリポはナタナエルに出会って言った」(45節)。少しお話の先を読むと、ナタナエルがいちじくの木の下に座っていたことがわかります。いちじくの木の下に座っているナタナエルを想像してください。フィリポはナタナエルを探しています。そしてついに親友のナタナエルを見つけ、彼のもとにやっていきます。そこでフィリポは何と言ったでしょうか?「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(45節)。


わたしたちはこの言葉の衝撃を理解しなくてはなりません。いったいフィリポは何を言っているのでしょうか?いちじくの木の下に座っているナタナエルに、何と言っているのでしょうか?彼は、「わたしたちは神の子を見つけた!」と言っているのです。約束されていたメシア、この世の救い主を見つけたと言っているのです。ユダヤ人たちは、このメシアを数百年も待っていました。数々の預言が成就し、メシアが来るという希望が高まっていたころでした。そこでフィリポは、ナタナエルにこう言ったのでした。「わたしたちはメシアを見つけた!」と。「メシアを見つけた!」これは、小っぽけな言葉なんかではありませんでした。革命的な宣言だったのです。

2013年11月18日月曜日

人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。

エゼキエル書33:12


なにかいいことをしたらもっと自分は救われてるような気分になりませんか?ここには、どんなに正しいことをしていても背くときには自分の正しさは自分を救うことができないとはっきりと書かれています。ではだれがわたしを救うことができるのでしょう?それはわたしたちの罪のために十字架にかけられ死なれたイエス様です。神様に立ち帰り、救いという贈り物を受け入れましょう。

2013年11月3日日曜日

福音への免疫 1

これはダニエル・ペル先生のImmune to the Gospel を訳したものです。

(お祈り)父なる神様、あなたに感謝します。わたしたちを真理に導いてくださるとあなたが約束してくださった聖霊に感謝します。今このとき、わたしたちの心と思いが聖霊で満たされますように、あなたがわたしたち一人ひとりの心に語りかけてくださいますように、またわたしたちがあなたの声を聞きわけることができるようにお願いします。これらのことをイエス様の尊い、全能の御名によってお祈りします。 アーメン

聖書のヨハネによる福音書を開いてください。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、福音書の4冊目であるヨハネによる福音書1章です。今朝のトピックはなんでしたか?「福音に対する免疫」ですね。みなさんは今、インパクト(衝撃)というミーティングに参加しています。インパクトスカンジナビアです(スカンジナビアで行われました)。みなさんが周りの人になにか衝撃を与えたいという思いをもってこのミーティングに参加したと、わたしは理解しています。友達、家族、同僚に衝撃を与えたい。キリストの大使、代表者になりたいという思いがあるでしょう。しかし、わたしたちが周りに衝撃を与えるには、まずわたしたち自身が衝撃を受けていなければいけません。アーメン(そうですよね)?今朝は、わたしたちがどのようにしたら福音による衝撃をただ一度ではなく、二度でもなく、毎日毎日受けられるか学びたいと思います。イエス様の福音の衝撃を毎日、そして絶えず受け続ける。もし今朝あなたが心を開くならば、あなたは衝撃を受けなければならないことに気付くでしょう。もしかすると、あなたはだれも知らないところで苦しんでいるかもしれません。しかし心の奥深くで、イエス様ともっと近くで歩みたいと願っているかもしれません。周りの人になにか影響を及ぼしたいのなら、自分自身がまず聖書によって強い衝撃を受けなくてはなりません。

この衝撃を3つの側面から見ていきたいと思います。1つ目は、一番初めに受ける衝撃、イエス様に初めて出会ったときの衝撃です。2つ目は、初めに受けた衝撃をわたしたちがいかに簡単に無くしてしまうかです。そして3つ目は、その無くしてしまった衝撃をどのようにして再び取り戻すかです。

イエス様に初めて出会う時、それは初恋のようで、愛のエネルギーに満ちています。しかし多くの場合、クリスチャン生活をしている間にそれを無くしてしまうのです。いつの間にか、わたしたちは福音に対して免疫をつけてしまうのです。よって、福音の衝撃を受けなくなるのです。今朝は、わたしたちが初めに受けた愛の衝撃、それを途中で無くしてしまったこと、そしてどうすればそれを再び受け続けられるか、という3つのステップを見ていきます。

「いつやるか?今でしょ」

「今日は無理。明日にしよう。」

そう言って宿題や勉強を後回しにした経験は、誰にでもあるのではないでしょうか?僕もしょっちゅうそんな感じです。そして翌日、後悔するのです。「ほんの少しだけでも昨日のうちにやっておけばよかったなぁ…」と、悲嘆にくれるのです。

かの予備校講師はこう仰いました。
「いつやるか?今でしょ」
そうです。今やるしかないのです。後でいくら頑張ったところで、今から頑張ったものには敵わないのです。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
コヘレトの言葉12:1

「今は大学で一杯いっぱいだから、就職したら教会に戻ろう。」
「今は忙しいから、いつか暇がある時に聖書を読もう。」
「今は人付き合いで酒を飲まないといけないけど、いずれはやめよう。」

果たして、就職したら一杯いっぱいではなくなるのでしょか?いつか暇がある時なんて来るのでしょうか?いずれ人付き合いはなくなるのでしょうか?

神様を後回しにしてはいけません。今日の自分がしていないことを、明日の自分がする保証なんてどこにも無いからです。神様が必要なのは、来るかも知れぬ未来のあなたではなく、今のあなたです。今こそ、あなたが神様に心を留めるときなのです。

「いつやるか?今でしょ」