わたしは宣教者で、世界中を旅して聖書の教えは正しいと主張します。わたしは弁証学が大好きですし、わたしたちが持っている聖書の教えも大好きです。しかし人々の異論を取り除くことが、必ずしも彼らをイエス・キリストに近づけるとは言えないでしょう。わたしたちのすべきことは、ただ聖書を勉強するのではなく、人々にイエス・キリストを体験してもらい、イエス様との関係を持てるよう招待することです。それはまさしくフィリポがナタナエルにしたことです。「来て、見なさい。」わたしはこの場面を想像します。聖書の何かについて想像するときは気を付けなければなりませんが、どのようなものであったか想像することはゆるされています。わたしは、フィリポがナタナエルに「来て、見なさい」と言ったとき、きっとナタナエルは「でもわたしはまだ質問がある」と言ったのではないかと思います。そこでフィリポが「じゃあイエス様にその質問を持っていこう!」と言い、彼らはいちじくの木の下から立ち上がって、一緒にイエス様のもとに向かったのだと思います。
その後、何が起こりますか?とても美しいことです。ヨハネによる福音書1章47節を読んでください。「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見」ました。考えてみてください。イエス様はナタナエルとフィリポが自分に向かって来るのを見ます。たぶんナタナエルの頭の中ではまだ質問が飛び交っていたでしょう。しかし彼は、イエス様に向かって一歩一歩近づいていきました。もしかしたらイエス様は本当にメシアかもしれない。彼は実際に自分でイエス様に会おうと向かったのです。もしかすると、「この人は本当にナザレの人なのか?」と思ったかもしれません。そこでイエス様がなんと言ったか見てください。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節後半)。イエス様はナタナエルの正直な心に気付いておられました。質問をイエス様のもと素直に持ってくる正直さです。いちじくの木の下から立ち上がって、実際にイエス様と関わりたい、と思い行動した正直さです。「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」とイエス様は言われたのでした。
この言葉はナタナエルを驚かせます。「ナタナエルが『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた」(48節)。考えられますか?「わたしはあなたを見た」とイエス様は言ったのです。その瞬間ナタナエルは、このイエス様の言葉によって喜びに満ち溢れて49節でこう言いました。「ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』」この時点で、もうイエス様に対する質問はナタナエルの頭の中からなくなっていました。なぜでしょう?それは、どうしてナザレ出身なのかという質問に答えられたからではありません。ナタナエルがイエス様を王として、世界の救い主として認めた理由は、イエス様が彼を知っていたからです。イエス様はあなたをも知っておられます。
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