ではイスラエルの民が、霊的にも肉体的にも干ばつ状態にあったころの話を見てみましょう。それは、人々が神様の真実のメッセージに無関心になっていたときです。ヨシュア記から列王記上18章へと移りましょう。これはエリヤのお話です。このころ、イスラエルの地はすでに3年間も干ばつの状態にありました。またそれだけではなく、人々の心も干からびていました。彼らは神様の遣わされた人のメッセージに無関心で、ほかの神々を礼拝していました。そこでエリヤ(神様の遣わされた人)は人々をカルメル山へと呼び出しました。カルメル山ということを覚えていてください。そこにはバアル(偶像)を礼拝している人々や王様がいました。神様に忠実であった人は、預言者エリヤだけのようでした。群衆が集まると、神の預言者エリヤは彼らにあることを決断するように呼びかけます。それは、神様に従うか従わないのか決めなさい、というものでした。実際にエリヤがなんと言ったか読んでみましょう。
列王記上18章21節です。「エリヤはすべての民に近づいて言った。『あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」エリヤは人々に決断するよう要求しています。主が神なら主に従い、バアルが神ならバアルに従えと。それに対して「民はひと言も答えなかった」(同聖句)と書いてあります。なぜ答えなかったのでしょう?なぜなら、彼らは神様のメッセージに対して無関心であったからです。彼らは霊的に干からびていたからです。預言を勉強せず、生活を神様に捧げることもせずにいたのです。
彼らはエリヤの前に立っていました。力強い預言者エリヤです。エリヤの呼びかけに対して民は、「バアルを礼拝する」とも「主を礼拝する」とも言いませんでした。ただ何も言わずにエリヤを見つめていたのです。無関心さです。このお話の結末は、エリヤが火を降らせる神が本当の神であると言ったので、バアルの預言者たちは祭壇の周りで踊り、自らの体を傷つけてバアルを呼びかけます。ところがバアルは答えません。そこでエリヤはひざまずいて、イスラエルの部族を表わす12の石を拾って祭壇を築き、主なる神様に祈りを捧げます。すると神様は天から火を送り、焼き尽す献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くしたのです。もう主が神ではないという疑いはありえませんでした。
イスラエルの民が無関心であったように、わたしたちも多くの場合無関心であることがあります。エレン・G・ホワイトの言葉を読みます。
エリヤはまず崩れた主の祭壇を眺めてから、群衆を眺めてラッパのような明瞭な声で、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」と叫ぶ(列王紀上 18:21 )。人々はひと言も彼に答えない。大群衆の中で誰1人として、主に対する忠誠を表明する者はいないのである。欺瞞と無知とが暗雲のようにイスラエルをおおってしまったのである。すべての者が、一時にこうした致命的背信に陥ったのではなかったが、主が警告と譴責の言葉を彼らに送られた時に、それに心を留めないことが度重なるうちに、徐々にそうなったのである。義を行うことを離れ悔い改めを拒否する度に、彼らの罪は深まり彼らを天から遠く引き離した。そして今、この危機において彼らは、頑強に神のために立つことを拒んだ。(国と指導者11章より)。
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