2013年12月18日水曜日

福音への免疫 3

しかし、この革命的な宣言に、ナタナエルはなんと答えたでしょうか?フィリポが、「ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言った瞬間、ナタナエルはある疑いをもってしまいました。「ナザレ?ナザレから何か一つでも良いものが出てくるのか?もしメシアを探しているのなら首都のエルサレムを探すべきではないのか?例えエルサレムにいなかったとしても、ナザレからはありえないだろう。」

 ナタナエルの反応を見てください。「するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言った」(ヨハネによる福音書1:46)。ナタナエルは、嫌味を言ったわけではありませんでした。彼は真理を熱心に探し求めている人でした。いちじくの木の下でフィリポのメッセージを受けて、様々な思いがナタナエルの頭の中をぐるぐると回っていました。ナタナエルはいちじくの木の下にいるのが好きでした。「各時代の希望」には、フィリポがナタナエルのもとを訪れたとき、ナタナエルはちょうどイエス様がメシアであるかどうか考えていた、と書かれています。彼は旧約聖書の預言や、イエス様の伝道を見て、「イエス様は本当に約束されていたメシアなのだろうか?」と考えていたのでした。そこにフィリポが、「わたしたちはその方を見つけた。ナザレの人、イエスだ」とやってきたのです。イエス様がメシアかどうか結論の出ていないナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」と問います。彼にはまだ確信がなかったのです。この「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」という質問が彼の頭を離れません。

これに対してフィリポは、注目すべき答えを出します。わたしたちは、どうやって福音を伝えるかを学んでいますが、このフィリポの答えはわたしたちを驚かせるものでしょう。彼は、「来て、見なさい」(46節)と言いました。この言葉の意味を少し考えてみましょう。フィリポは、ただナタナエルの横に座って、何故ナザレの人イエスがメシアであるかという根拠を一日中語ることもできました。そして一日の終わりに、ナタナエルを納得させることができたかもしれません。しかし例え、ナタナエルが質問に対する答えを見つけられたとしても、それは彼が救い主に近づくための一歩になりますか?ならないでしょう。ナタナエルはまだいちじくの木の下に座ったままであったでしょう。

フィリポは、「来て、見なさい」と言いました。わたしの友達である皆さん、わたしたちは、信仰についての質問、神様が愛ならどうして苦難があるのかという質問、キリストの復活についての質問を抱えている人に出会うでしょう。彼らはこれらの質問を持っているがために、イエス様のもとに行きたくありません。そこでわたしたちは普段、どのように答えていますか?多くの場合、わたしたちはいちじくの木の下に一緒に座ってしまうのです。座り込んで聖書の言葉を分析して質問に答えようとするのです。もちろん聖書を研究すること、その時間を持つことは必要です。しかしわたしたちは、彼らがイエス様を個人的な救い主であると体験できるように、招かなければなりません。


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