2013年12月30日月曜日

福音への免疫13

あやふやな反応のアテネの人たちに、パウロはさらにイエス様の復活と最後の審判についても語りました。この世には確かに正しい行いと不正な行いがあり、人々は自分の行いの責任をとらなければならない日が来ると伝えました。彼らはパウロのメッセージを嫌がりました。しかし、立ち上がってパウロを追い出したりもしませんでした。その代わりになんと言ったでしょうか?「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒言行録17:32)。これを今の時代に当てはめるならば、「今日のお説教をありがとう、また来月」といったところでしょうか。「素晴らしいお説教でした!じゃあまた来月」一体どういうことでしょう?ここに彼らの立ち位置が見られます。そして、わたしたちの多くもこのアテネの人々のように福音に無関心に生きているのです。
パウロはアテネでの人々の暮らし方を使徒言行録17章21節でまとめています。「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。」皆さんは誰かこういう人を知っていますか?ただ新しいことを聞いたり話したりすることにだけ時間を使っている人たちです。新しい情報を手に入れて分析するけれども、決断はしない、ただ聞くだけで答えを出さない人たちです。「もう既に何千もの偶像をわたしたちは持っているんだから、パウロが来ても、彼をアレオパゴスに立たせてしゃべらせておけばいいだろう」と思い、結果ある者はあざ笑い、ある者は「また今度聞かせてもらおう」と言ったのでした。この無関心さ。わたしたちは今日、まさにそのような世界に生きているのです。無関心さは今世界が対面している問題であり、さらに教会が対面している問題でもあります。これはわたしとあなたが対面している危機なのです。
このメッセージの最後のポイントにやってきました。では、わたしたちはどうすればいいのでしょう?わたしたちは先ず初めにイエス様に出会った時の衝撃について学び、次にどのようにしてその衝撃を失い無関心になってしまうかを学びました。そこで最後に、どうやったら初めに受けた衝撃を保つことができるのか、どうやったらイエス様の福音が心のうちに満ち溢れるのかを学びましょう。何度も何度も衝撃を受け続けるにはどうしたらいいのでしょうか?それは必ずしも感情的な衝撃ではなく、救い主であるイエス様への信頼を強めるような衝撃でなければなりません。

それでは聖書の最後の本、ヨハネの黙示録を開いてください。これは皆さんもきっと親しみのある、ラオディキアにある教会にあてた手紙です。これは今のわたしたちの時代、イエス様がくる直前に存在する教会に対するメッセージです。ここにはわたしたちの特徴が書かれています。「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。<わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない>』」(ヨハネの黙示録3:14,15)。これを読んで、イエス様が終わりのときの教会は無関心であるということを知っておられたのは興味深いです。イエス様は知っておられました。「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(同15,16節)とイエス様は言われました。そんなわたしたちに、イエス様は素晴らしい贈り物をしてくださいます。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(同18節)。イエス様はわたしとあなたに、とても価値のある3つの贈り物を用意されておられるのです。

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