しばらくした後、ヨハネ・マルコは再び伝道旅行に行きたいと言いました。パウロは「ありえない。もう伝道旅行には連れてはいかない」と言っていましたが、バルナバはもう一度チャンスを与えたらどうかと提案しました。そこでパウロとバルナバの意見があまりにも強く衝突したので、バルナバがヨハネ・マルコを連れて行き、パウロは他の人を連れて、別々の伝道旅行を始めました。後々、新約聖書にあるパウロの書いた本には、パウロがヨハネ・マルコに感謝している場面が書かれています。パウロが牢屋にいたときに、「この人にぜひ訪ねてきてほしい」と彼が願ったのは誰でしたか?ヨハネ・マルコです。彼らの関係は、最後には良いものとなりました。
このお話のポイントは、伝道旅行は簡単ではなかったということです。一世紀に福音を伝えることは簡単ではなかったのです。パウロは石まで投げられたのです!人々があなたに投げつけるための石を持ってあなたに寄って来たらどうしますか?パウロは、皆が石を投げ終わったら立ち上がって、「さあ次の町へ伝道しに行こう」と言うような人でした。想像できますか?パウロは誰も止めることのできないような人でした。「殺すぞ」と言う人がいれば、「死ぬことは得ることだ」と言い、「生かしたまま追い出す」と言われれば、「イエス様のために生きる」と言い、「うちのめしてやる」と言われれば、「この世での苦しみは、将来に来る栄光に比べると、取るに足らない」と言い、「牢屋に入れるぞ」と言われれば、「じゃあ讃美歌を歌って、牢屋の番人たちに福音を伝える」とパウロは言いました。彼を揺さぶることは誰にもできなかったのです。何をされても、パウロは福音を宣べ伝えました。そしてその福音は、はっきりと伝えられ、はっきりとした反応がありました。
ところが実は、あいまいな反応をした町が一つだけありました。それはアテネでした。パウロは様々な町へ行き、追い出されるか新しい教会を建てるかのどちらかの反応を得ていました。アテネでも同じことが起こると思っていたことでしょう。パウロはアテネにつくと、優秀な教育を受けた大変賢い哲学者たちに出会います。ギリシャ帝国からの人々です。その頃はローマ帝国でしたが、彼らはギリシャの哲学を持っていました。ギリシャの哲学はすみずみまで浸透していたのです。そのなかでパウロは宣教することになりました。「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」(使徒言行録17:16)。パウロは町へ行き、福音を受け入れてくれる人を探し求めていました。しかし、ギリシャの良い教育を受け、洗練された人々は、パウロのメッセージに疑いをもちました。人々はパウロに語る機会を与えるため、彼をアレオパゴスというアリーナに連れてきました。パウロが何百人、もしくは何千人もの群衆の前に立っているのを想像してみてください。「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、<知られざる神に>と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」』(同22,23節)。面白いことに、パウロは彼らが拝していた数々の偶像の中から、「知られざる神」を話題に取り上げて福音を伝えます。今回このことについては詳しく話しませんので、ご自分で使徒言行録17章を読んでみてください。そこにはとても力強いパウロのメッセージが書かれています。アテネの人々が言っていた「知られざる神」とは、彼らの知らぬ神を指していました。「それは真の唯一の神で、この神は他の偶像にはるかに勝るのです。なぜなら、この神は人の手によって造られなかった神殿に住み、どんな創造物よりも優れ、さらに創造主であるからです。しかもただの創造主ではなくて、この神はご自身の創造した人々の名前、出生地、そしてどのような人生を歩んでいるのかを知っているのです。この神は遠くから眺めている神ではなくて、近くにおられる神である」とパウロは語りました。しかし人々はパウロのメッセージに動かされず、「本当にそうなのだろうか…」とあいまいな反応をしていました。
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